颶風
上りだった道が、いつの間にか緩やかに下りはじめた。
陽の光が森の奥までは届かないので薄暗く感じるが、まだ昼をいくらか過ぎたばかりであろう。
木々の梢の間から、水の瀬音が聞こえてくる。
「ねぇ、柔志狼さんてば。柔志狼さ――」
直ぐに追いついたお銀を真ん中に挟み、俊輔が殿についてから四半刻は立つ。
つい先ほどからお銀の頭越しに、俊輔がしきりに柔志狼を呼ぶ。
「さっきから煩ぇな。そんなに気安く名前を呼ばれる筋合いは無ぇぞ」
柔志狼が振り返り、じろりと俊輔を睨みつける。
「やっと気が付いてくれた」
気が付かないわけがない。
柔志狼は同行を許可したものの、極力二人と関わろうとしなかったのだ。
だが、まるで子犬がじゃれ付くような俊輔に、柔志狼がついに観念したのだろう。
「お腹空きませんか?」
漸く振り向いた柔志狼に、俊輔の向こうに揺れる尻尾が見えるようである。
「空かん」
「嘘だぁ。ねぇお銀さん、お腹空きましたよね?」
同意を求める俊輔に、お銀は思わず頷いた。
「喰いたければ勝手に喰え」
そう言い捨てると、柔志狼は先を進む。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。今朝、宿で沢山にぎりめしを作ってもらったんですよ。一緒に食べましょうよ。水も有りますから」
腰にぶら下げた竹筒を、ポンと叩いた。
「俺の邪魔はしない約束だろうが」
「腹が減っては、戦は出来ぬと言いますよ」
そう軽口を投げかけた柔志狼の背が突如、沈み込んだ。
「ほら、お腹空きすぎて倒れちゃっ――」
しゃがみ込んだ柔志狼が挙げた手が、それ以上の言葉を許さなかった。
びりびりとした緊張感が、柔志狼の背から伝わってくる。
柔志狼が振り返りもせず、座れ――と、手で示した。
有無を言わさぬその雰囲気に、俊輔もお銀も黙って従うしかない。
腰を下げたまま、音を立てぬように注意して、俊輔は柔志狼に並んだ。
「――なんです?」
声を潜める俊輔に、柔志狼が左側の斜面の下を指さす。
二人の後ろで腰を屈めたお銀も、その方向を見る。
「あれは――」
俊輔が乾いた声を洩らした。
おそらく百鬼天狗党の一味だろう。
胴当てや、脚絆だけなど身支度はまちまちだが、いずれも剣や槍を持ち、中には銃を持っている者もいる。このご時世とは言え、たかが田舎の盗賊如きが銃まで持つなど、世も末である。
「どうします?」
連中は俊輔たちとは真逆の方向。山から降る様にして、沢沿いの道を歩いている。どうやら連中は、お銀を助けた集落に向かっているようだった。
定時の交代なのだろうか。およそ十五人ほどの男らが、大声で笑いながら歩いている。
まさかこんな山中に、自分たち以外の人間がいるとも思わないのか。山腹のこちらをに気が付いた様子は全くない。
「このまま気づかれずに、やり過ごせそうですよ」
銃を持っているのが三人ほどいる。
いかに柔志狼が強かろうが、この距離で見つかればなす術も無い。一方的に銃で狙い撃ちされるだけである。
「――それじゃ駄目だ」
ゆらりと、柔志狼が立ち上がった。
「――えっ?」
「ここで伏せてろ」
そう呟くと、音も立てず柔志狼が奔った。
草を踏む音も、枝を揺らす音もたてず、まるで風のように山肌を駆け下りていく。
「凄い」
あの仁王像のような太い身体からは信じられない動きだった。
ぐんぐんと距離を詰める柔志狼に、天狗党の一味はまるで気が付いた様子が無い。
その颶風のような動きに俊輔は、危険も忘れ思わず見入ってしまった。
それは隣に居るお銀も同じだった。
紅い唇を半開きにし、吐息を洩らす。
だがその時――
「――きゃぁ!」
脚を踏み外したのか。
柔志狼に気を取られたお銀が山肌を滑り落ちていく。
「お銀さん!」
咄嗟の事に、俊輔の口からも声が上がる。
「なんだ!」
その声に気がつかぬはずがない。
天狗党の一味が一斉にざわつく。
「あそこだ!」
運の悪い事に、柔志狼の身が樹々の切れ間に姿を現した瞬間だった。
三丁の銃口が一斉に柔志狼を捕らえる。
よく訓練された動きだった。
「ばっか野郎がぁ!」
柔志狼と天狗党の間には、まだ五間以上の距離がある。
三つの銃口が同時に火を噴く。
一発が頭上を外れ――
一発が頬を掠め――
一発が柔志狼の右脇腹を撃ちぬいた。
「ちぃ!」
だが止まらない。
「なんじゃ貴様!」
次弾を構える前に、数人が剣を抜いて飛び出した。
腰の革袋から苦無を取り出すと、柔志狼が奔りながら放つ。
それが先頭を走る若い男の眉間を穿つ。
更に苦無を放つと、すぐ後ろの髭面の太腿に刺さった。
もんどりうって倒れる髭面に巻き込まれ、向かってきた数人が巻き込まれた。
「邪魔っ!」
柔志狼はその一塊を軽々と飛び越える。
その際に、足元に転がる朱鞘の槍を手に取ると、振り回すように投げ放った。
唸りを上げ円盤のように回転する槍が、慌てて銃を構える男に襲い掛かった。
「うぁあ!」
「ぎゃああ!」
「ひっ」
一人が銃を弾かれ――
一人が柄で顔を潰され――
一人が槍先で首を斬られた。
この場合、とっさに銃を放つことが出来た天狗党を褒めるべきなのであろう。
だが、事態は予想を裏切り、想定外の事態に陥った。
柔志狼の指が、混乱に逃げ惑う男の両目を抉った。
五間以上も離れたところから走り込んできた男が、銃を三丁も持ちながら討ち果たすことが出来ぬなどと、誰が想像できたか。
ある男は抜刀しようとする手を押さえられ、顎を突き上げられると、絶命した。
しかも柔志狼はその手に剣の一本も帯びていない。
天狗党の男たちには、何が起こったかなどまるで理解できていなかった。
「鬼……」
「鬼だ……」
男たちの眼には、柔志狼の姿が漆黒の悪鬼に映っていた。
「鬼だぁあ!」
逃げ惑う男の首根っこを掴むと、柔志狼が投げ落とす。
「ちん、とん、しゃぁん――」
天狗党の男たちの前に、黒い鬼が襲い掛かった。