銀狐
お銀――と言います――と、紅い唇が呟いた。
神流川沿いの林道から斜面を昇り、獣道と呼ぶにふさわしいところを三人は歩いていた。
黒い小袖に皮袴の広い背中が先頭を歩き、その後ろを凛とした美しい女が続く。
少し遅れて、殿を務めるような形で俊輔が続く。
先頭を歩く男は終始無言で、まるで馬車馬のように力強く山道を進んでいく。
それに遅れることなくお銀も付いていく。
思いもよらぬ健脚ぶりに、俊輔は内心舌を巻いた。
お銀――長持ちから助け出された女は礼を言うと、己の名を告げた。
その際に、俊輔は己の名を名乗ったが、男は無言だった。
ここから山を多野宿方面に下ったところにある、保見村の名主の娘なのだと、お銀は言った。
昨夜、村を襲った男たちに無理やり連れてこられたのだと言う。
「父を脅し金を奪い。それでも足りぬとわたしを……」
眼にうっすらと涙を浮かべると、お銀は何かに耐えるように俯いた。
「まさかお父上は?」
「娘を返して欲しくば、さらに百両用意しろと」
俊輔の言葉を否定するように、お銀は首を振った。
「お父上が生きておいでならば、すぐに役人がやって参るのではありませんか」
「おそらくお役人は来ません」
どこか自嘲気味にお銀が唇の端を歪める。
「何故です?」
村を襲われ金を奪われ、更には娘まで攫われたのだ。名主である父親が必死で懇願すれば、役人とて動かずにはいられまい。
「奴らの蛮行に対しては、お上は見て見ぬふり。わたしどものようなものは、じっと耐えて嵐が過ぎ行くのを待つしかできません……」
そう呟くお銀の顔には、全てを諦めきったような暗い影があった。
「奴らは何者なのです?」
「……百鬼天狗党」
「ひゃっき――天狗党……奴らが」
「はい。多野宿から秩父辺りに掛けてを根城にしている野党の一味です」
俊輔の問いに、お銀はそう答えた。
「知っておられるのですか」
「え、えぇ。連中の名は江戸でも耳にします。鬼首金五郎を頭にした百人を超す手勢だとか」
「良くご存じで」
「なんでも近頃では川越や甲州付近まで出没しているとかで、だいぶ噂になってますからね」
そうですか――と、お銀の形の良い眉がよる。
不思議な美しさの女だった。
線が細く造作の整った顔立ち。
しゅっと、流れるような頬の線に、柳の葉のような眉。
それでいて、目鼻立ちはくっきりと、浮き立つように主張してくる。
うなじから首に掛けては、しなやかで細い線を描きながらも、胸元や腰回りにはしっかりと肉が詰まっている。
聡明そうな空気を纏いながらも、匂い立つような色気を放っている。
例えるならば、山奥に咲く一輪の花。嫋やかで美しくもあれど、風雪に負けぬしなやかな野性味を含んでいる様な強さを感じる。
それが不思議な艶となって、この女を飾っているのだ。
これでは、村を襲うような輩が放っておく道理が無い。
「なればこそ、早急に村へ帰らねば」
俊輔の言葉に力が入る。
「お父上に無事を知らせて代官所でも駆け込めば――」
「それは無駄だと申し上げたではありませんか」
きっぱりと、お銀が首を振った。
「先ほども申しあげたとおり、お役人どもは天狗党に恐れをなして、わたくしどもの言葉になど耳を貸してもくれません」
「しかし――」
「それに、このような状況でわたくしが村に帰ったとしても、そのことを奴らが知ればどのような報復を受けるかわかりませぬ」
お銀の言う通りである。
もしもお銀が無事で村に戻った事を知れば、天狗党の連中は許しはすまい。場合によってはそれを恐れた村人たちの手により、殺されてしまうかもしれない。
たとえ名主の娘だとて、村の共同体を脅かすこととなれば有り得る話である。
「だからと言って、どうするつもりなのです」
「わたくしをお連れ下さいまし」
覚悟を決めたように、お銀は言った。
「お見受けしたところ、あなたさま方は大変お強いご様子」
ちらりと、黒装束の男に視線を送る。
「この集落にいた天狗党の連中を一掃されたのでありましょう?だとすれば、そのような方たちと共にいたほうが、お役人などを頼るよりもずっとましだと存じますが」
「いやいや、お銀さんそれはいけない」
俊輔が唾を飛ばす。
「私たちのような見ず知らずの男所帯に、お銀さんのような女子が同行するなどいけません。それにですね――」
「残念だな、俺たちは連れでもなんでもない」
今まで黙ってやり取りを見ていた男が、静かに立ち上がった。
「あとは二人で勝手にやってくれ」
男は振り返りもせず、山に向かって歩き出した。
それから一刻ほど。
振り返りもせず無言で歩く男の後を、お銀と俊輔も黙ってついて来ているのだ。
「ねぇ、せめてお名前だけでも教えてくれませんかね。こうして黙って歩いていても、お互いに面白くないじゃないですか」
ねぇ――と、俊輔が言った。
「それに、お銀さんの脚では楽な道ではありませんよ。ここいらで休憩としませんか」
言っては見たものの、お銀の足取りはしっかりしている。線は細くとも、流石に地元の人間と言うことだろうか。それよりも俊輔の方が足取りが覚束ない。
その言葉が通じたのか突然、男が脚を止めた。
「いま一度はっきり言っておくが、お前等と慣れあうつもりも無ければ、同行するつもりも無い。そもそも、お前等と俺は、なんの縁もゆかりもない」
ついて来るな――そう言い捨てると、男が再び歩き出す。
「慣れあうつもりも同行するつもりも無くても、縁ぐらいはあるんじゃないですか」
その背に向かい、俊輔が声を絞り出す。
「なに?」
男が再び脚を止める。
「だってそうでしょ。権兵衛さん」
「権兵衛?」
振り返った男が眉をしかめる。
「そう、名無しの権兵衛です」
「あほか……」
「だって、名前も教えてくれないのだから仕方ないでしょ」
悪びれもせず俊輔が微笑んだ。
「権兵衛さんは、私とお銀さんを助けてくれた。これはもう立派な縁ですよ。千切ますか?」
「別に助けたわけじゃ無い」
偶々だ――と吐き捨てる。
「この先ついて来れば、今度こそ命の保証は無い」
男が踵を返して歩き出そうとした。
「あなたも玄能寺に行くのでしょう?」
男が動きを止めた。
「だとしたら何だ」
黒い背が答える。
「ならば呉越同舟――とまでは言い過ぎかな。御承知の通り私も玄能寺に行きたい。ならば私が勝手に行くのは自由ですよね。それこそ、あなたにとやかく言われる筋合いでは無い」
「何が言いたい」
男が振り返る。
それを見た俊輔が、やり取りを見つめるお銀に向け、唇の端を持ち上げた。
「幸いにも行先は同じ。ですから、玄能寺までの道行の間、私があなたを雇うと言ったらどうします?」
「俺を雇う?」
「困ったことに、私は玄能寺までの道行が良く分からない。ですので仮に断られたとしても権兵衛さん、あなたの後を付いていく以外に術がない。お銀さんは己の身の安全の為に我らから――というか、あなたから離れたくない。こればかりは、どんなに固辞しようと私たちの自由だ。致し方ないでしょ」
にっこりと、俊輔が笑った。
「間違っちゃいねぇ」
「それでもだめだと言うなら、私たちを――」
殺しますか――と、呟く俊輔の眼に、鈍い光が灯った。
「なんてね、戯言です」
慌てたように手を振り、必死に否定する。
「幸いなことに路銀に余裕があります。旅の安全を保障できるのであれば、あなたを雇うのは高い買い物ではありません」
「俺がお前を殺して金を奪い、その女を犯して殺す――とは考えないのかい?」
今度は男の眼に、怖い光が灯った。
「怖い怖い。でも、それは無いでしょ」
俊輔が微笑みながら手を振る。
「万荒事屋――」
ぽつりと、俊輔が呟いた。
「――――」
ぴくりと、男の眉が震えた。
「やっとうチャンバラなんでもござれ。妖怪変化に魑魅魍魎――足のある奴無い奴狐狸貉。荒事もめごと何でもござれ――そんなお人がいると聞いた事があります」
「それが俺だと?」
「さてどうなんでしょう」
男の言葉に、俊輔が肩を竦める。
「そもそも、なんの躊躇なく天狗党の奴らを、殺ったお人です。そのつもりなら、とっくの昔に私もお銀さんもあの世に送られてますよ」
屈託のない笑みを浮かべる俊輔に、男の眼から険が消えていた。
男が俊輔とお銀を交互に見つめ――
「どうやら揃いも揃って訳ありのようだ。好きにすればいい」
「それでは」
お銀が嬉しそうに声を上げる。
「雇われてくれるのですか」
「俊輔と言ったな。勘違いするな」
「えっ?」
「言ったように雇われてやるわけにはいかない。見た通り仕事中なんだ。やるべきことが終わるまで、次の依頼は受けない」
その言葉に、固い決意のようなものが含まれている。
「俺の邪魔をしなければ、勝手について来ればいい。それを止めはしない。ただし――」
「但し?」
「この先、命の保証は出来ない」
男の貌に獰猛な笑みが浮かぶ。
突如、飢えた獣を前にでもしたのか、俊輔の背筋が、ちりちりと総毛立つ。
「それで良ければ、好きにしろ」
背を向けると、男が山道を歩き始めた。
「ひとつ教えてください」
「なんだ」
「あなたはなぜ玄能寺に向かうのですか」
「知ってどうする」
「いや……それは……」
正論である。そう言われては二の句が継げない。
「お前ぇは何故、玄能寺に行く?」
「ですから、それは御札をですね――」
「ふん」
あはは――と俊輔は頭を掻いた。
「そういう事だ」
「なら、せめて名前ぐらい教えてくださいよ」
先を進む黒い背に、更に言葉をぶつける。
「ひとつじゃ無かったか」
男は歩みを緩めることなく進んでいく。
遅れまいと脚を速める俊輔に、遅れてお銀が続く。
「じゅうしろう――」
「えっ?」
「柔志狼だ」
振り返った男の口元が、微かに微笑んでいたような気がした。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、柔志狼さん」
俊輔がお銀の事を忘れ、柔志狼を追う。
「柔志狼……」
脚を止めたお銀の艶やかな唇が、震えるように呟いた。