轟震
忍び込むのは、寝てる赤子を泣かすより容易かった。
両腕を失った仁平が、玄能寺に戻るのは分かっていた。
場所が分からぬわけではないが、正面を固められては中に入るは少々面倒臭い。
玄能寺の境内は、岩場の谷間に沿って作られていた。
左右を切り立った岩場に囲まれ、中に入るには正面の山門から入るより方法が無い。
時間をかけて横に回り込めば、切り立つ岩場から忍び込めぬ事も無い。
だが、その時間が惜しい。
天狗党に時間を与えれば、自分を探しに山狩りに出てしまうだろう。
そうなってしまえば、柔志狼にとっては面倒なことになる。
閉鎖された場所に全員揃っているのがありがたい。
柔志狼の策は嵌った。
先に逃がした男にも過剰なまでに恐怖を植え付けてある。そこへ両腕を失った仁平が戻れば、それを見た天狗党の連中は冷静ではいられまい。
柔志狼のもくろみ通り、通用門から意識が離れ、容易く侵入することが出来た。
あとは伝播した恐怖を煽ってやるだけである。
わざわざ持ってきた仁平の腕を、連中の真ん中に投げてやれば――
混乱と恐慌に陥った連中など、物の数では無い。
統率と冷静さを欠いた野盗など、赤子の手を捻るよりも容易い。
例え銃を持っていようと、当たらねば豆鉄砲以下だ。
剣で突き込んできた男の腕を捻り上げると、腕を蛇のように首に回した。
「答えれば命だけは助けてやる。手前ぇらの蔵はどこだ」
優しく耳元で囁いた。
「――舐めんなや、誰が言うか……ぐぶつ」
柔志狼が、首に回した腕に、ほんの少しだけ力を込めた。それだけで、男のから血の気が引き蒼白になる。
「どこだ?」
優しく問いかける柔志狼に、男は鯉のように喘ぐだけだった。
男の仲間たちも、手が出せずに遠巻きに取り囲むしかできない。
「やれやれ――」
面倒臭そうにため息をつくと、男の首を捻り上げていく。
「――ぐぎぃ――あがぁ、あがぁ……」
みちみちと靭帯が千切れ、男の顎が天を向いていく。
「どこだ?」
男に抗えるだけの気力は残っていなかった。
震える指先で、北の林の方を指さした。
「約束だ」
拘束していた腕を離すと、柔志狼の掌打が、真上から男の頭頂部を叩いた。
それだけで、男の膝が落ちた。
顎は力なく垂れさがり、涎が零れだす。
頭頂の頭蓋が開き、男は呆けたまま一点を見て笑い始めた。
一瞬、柔志狼は細めた視線を送るも、近くにあった篝火から、火のついた松明を握り締める。
「次はどいつだ!死にたい奴から前に出ろ!」
柔志狼が吼えた。
その叫びに触発されたか。。
悲鳴に近い雄叫びを上げながら、男が襲い掛かる。
袈裟に切り込む剣を躱し、柔志狼が持っていた松明を男の顔面に突き込む。
肉の焼ける嫌な臭いと、男の悲鳴が夜空に上った。
転げまわる男を無慈悲に踏みつけると、柔志狼が走り出した。
「逃がすな!」
その後を、二〇人ばかりが追う。
先ほどの男が再び銃口を向ける。狙いも定まらぬうちに引き金を引く。
銃弾は柔志狼の背後を抜け、虚しく銃声が響く。
「クソっ」
銃を担ぐと、男も走り出した。
時折、後ろを振り返るも、柔志狼の脚は緩まない。
参道を外れ林の中、斜面を駆けあがっていく。それに追いつける者などいなかった。
杉の樹の向こうに、目指す土蔵はあった。
先ほど俊輔の囚われていた場所である。
土蔵の壁を回り込むと、顔を上げ何かを探す。
|四間(約七メートル)ほど上に小さな明り取りを見つけた。
柔志狼が腰の革袋より細い紐を取り出した。
先端には、小さいが金属で出来た鍵爪が付いている。
黒い鍵爪をくるくると振り回すと、明かりとりに向けて投げた。
二・三度引き、先端が格子に引っ掛かったのを確認する。
よし――と頷くと、火のついた松明を口にくわえ、柔志狼は紐を昇りはじめた。
その仁王像のような体躯を感じさせぬ軽やかな動きで、たちまち昇りきると、明かりとりに顔を突っ込み、鼻をひくつかせる。
「おふぉあふぁふぃふぁ」
にやりと眼を細めると、明かりとりから松明を投げ入れた。
こつん――と松明が床に落ちると、たちまち炎が広がった。
「いたぞ!」
壁の下には、二十人ほどの男たちが追いついていた。
「来たか――」
その瞬間――柔志狼の声は銃声に掻き消された。
柔志狼の顔から血飛沫が弾ける。
ぐらり――と、柔志狼の身体が仰け反り、真っ逆さまに落ちていく。
「当たったぞ!」
ようやくの手柄に、銃を持った男が叫ぶと、周囲の男たちから歓声が上がった。
柔志狼が落ちてくるであろう場所が割れ、地面が剥きだしになる。
だが、柔志狼は落ちてはこなかった。
とん――と、壁を蹴ると柔志狼の身体は、振り子のように弧を描く。
その手にはしっかりと紐が握られている。組み紐に細い金属を編み込んだ逸品は、柔志狼の無茶な要求を充分に満たす。
その反動を使って、柔志狼は土蔵の脇にある杉の幹に取りついた。
「外れたか!」
「生きてるぞ!」
にわかに下が騒ぎ出す。
銃口が再び、柔志狼に向けられた。
「充分、痛ぇよ」
銃弾の掠めた頬からは、血が滴っている。
柔志狼が手首を引くと、土蔵の格子から鍵爪が離れた。そのまましゃくると、鍵爪が銃を引っ掛けた。
その勢いで放たれた銃弾が、隣にいた男の眉間を撃ちぬいた。
「野郎っ、降りてきやがれ!」
槍を持った男が、先端を突き上げながら叫んだ。
「降りてやるよ――」
「えっ?」
柔志狼が幹を蹴った。
ぐちゃり――と、槍を持った男の上に降り立つ。
「次に死にてぇのは誰だ」
柔志狼が脚を踏み出す。
すると、取り囲む男らの輪が一歩広がる。
二十倍の戦力を持ちながら、天狗党の男たちは完全に柔志狼に呑まれている。
「ふふん」
足先で引っ掛け、柔志狼が槍を手にした。
「――ちん、とん、しゃぁ――ん、とくりゃ!」
片手で一閃、槍の先端が空を切る。
「しゃあ!」
鋭い突き込みが、正面の男の胸を貫いた。
そこからは一方的だった。
鐺で叩き、槍で指す。
剣を弾き、絡め跳ばす。
二十人からの男が、柔志狼一人を止めることが出来ない。
立っている男らの数が、四人になったところで、漸く槍が折れた。
その時だった。
オォ――!
オォ――!
杉の林から胴当てを着け、剣を持った男らがぞくぞくと現れたのだ。
「たかだか一人に何をしているのだ!」
いきり立つ男が叫ぶ。
「こやつ化生の類いじゃ」
「油断するでない」
増援が来たと言うのに、男らの声に余裕はない。
「相手が例え化物であろうとこの人数じゃ。押し包め!」
その声に、男らが一斉に襲い掛かった。
だが、柔志狼は慌てることも無く――
「頃合いだな」
と、地面に身を伏せた。
その瞬間だった。
柔志狼に襲い掛かろうとしていた、先頭の男は見た。
白かったはずの土蔵の壁が、赤く染まったのを。
次の瞬間――大地を震わせる轟音が鳴り響き、土蔵が爆発した。
その衝撃と、爆散する破片が、天狗党の男たちを容赦なく襲った。
ある者は顔面に石がめり込み。
またある者は、柱の破片が胸を貫いていた。
「――ま、まさか、こんな……」
土蔵の奥は火薬庫になっていた。百鬼天狗党が揃えた銃や、事を起こす際に必要となる弾薬が多く貯蔵されていた。
柔志狼はそこに、火のついた松明を投げ込んだのだ。
先ほど、いきり立っていた男は腰を抜かしたまま動けない。幸いなことに、衝撃で吹き飛ばされただけであるが、立つことが出来なかった。
「さて、ここからが本番だな」
埃を祓い、柔志狼が立ち上がった。
腰の革袋から何かを取り出し、腕にはめている。
それは蛇腹のように重ね合わせた、黒い金属製の籠手だった。
その籠手の放つ氣は、具足というにはあまりにも凶々しかった。
がしゅぃんぃぃ――と、柔志狼が籠手と籠手を打ち鳴らした。
「さぁ、弓でも鉄砲でもなんでも持って来い。完全戦支度の完了だぜ」
杉の木々を抜けてくる男らに向かい、修羅が嗤った。
いつ間にか、夜空にぽっかりと穴が開いたように、丸い月が浮かんでいた。