怪邂
山に陽が沈みかけ、少しずつ夜の帳が降りはじめていた。
まだそれほどではないが、燈籠と篝火に火が灯された。
揺らめく炎に煽られるように、恒の影が揺れている。
恒が口を開くまでに、たっぷりとした間が必要だった。
普段、威勢のいいはずの恒が、倒れ込むように山門を潜ると倒れた。
憔悴しきった顔で、池の鯉のように喘いだ。
汗まみれで胸襟は乱れ、うねる様に胸が上下している。
水だ――誰かが叫ぶのと、巳吉がその場に現れたのは同時だった。
「恒――」
平素、感情を表に出さない巳吉だが、その姿に僅かに眼を見開いた。
歳はまだ二十歳そこそこの筈だが、恒の肝の坐り方は太かった。
以前、捕り方を前に白刃の下を潜ったときも、顔色一つ変えない。仕事で押し込みに入れば、眉一つ動かさず平然と殺し犯す。
感情の起伏が無いのかと思えば、良く笑いよく怒り、泣く。
あの杉作相手にも一歩も引かず、喧嘩も絶えなかったがその分、信も厚く可愛がられていた。
その恒がここまで憔悴しきるとは、いったい何があったのか。
巳吉がかける言葉を探していると、誰かが水を差し出した。
身体を支え、水の入った湯呑を渡すと、恒が震える手で受け取った。
恐らくは半分以上は溢しているが、それでも多少は落ち着いたのか、恒はようやく大きく息を吐いた。
「何があった」
巳吉にしては珍しく柔らかな声音だった。
一瞬、恒と視線が絡んだ。
だが、すぐに視線を外すと、恒は落ち着きなく周囲を見回した。
「閉めてくれ……」
震える声を絞り出す。
「どうしたんだ?」
「閉めてくれ――門を早く……」
恒の身体が小刻みに揺れている。
「早く門を閉めろ!」
眼をむき出し、恒が叫んだ。
おい――と、巳吉が支持すると、山門の近くに居た二人が門を閉じた。
「これで良いのだろう。さぁ、なにがあったか話せ」
その声に一瞬、怯えたような表情を浮かべる。
「――あ、あれは……化物だ」
だが、鉛のように重い口を噛みちぎる様に呟いた。
「化物?あの男のことか」
「兄貴よぉ――教えてくれ、あいつは何なんだよ」
あの恒が、幼子のように巳吉にすがった。
あの場所から少し下流に向かうと、すぐに川辺に降りられるところがあった。
向こう岸は切り立った崖だが、こちら側は崖下に河原がある。
所々に灌木が生えているが、見通しは悪くない。
仁平と共に上流に歩いていくと、杉作の姿はすぐに見つかった。
ちょうど、柔志狼と杉作が縺れ落ちた辺りに、崖から枝ぶりの良い松が生えていた。
その松の枝に引っ掛かる様にして、杉作の巨体があった。
杉作の重さをもってしても、松の枝は折れることなく生えていた。
「いたぞ!」
それに気が付いたのは仁平だった。
「杉作さん!」
あの高さならば、意識を失っていても生きているはず――誰が見てもそう思えるだろう。
だが、恒はなにか奇妙な違和感を覚えた。
「仁平、待て」
逸る仁平の肩を、恒が制した。
「なんだよ、早く降ろしてやらにゃ」
仁平が訝しげに眉をひそめる。
「見ろ――」
違和感の正体が分かった。
仰向けになる様に枝に引っ掛かっているのだが、その杉作の身体から、茶碗をひっくり返したように、液体が零れていた。
「おい、あれ血だろ」
杉作の身体からは、かなりの血が流れている。
「良く見ろ!」
杉作の身体には、首から上が無かった。
「ひっ!」
仁平が声を詰まらせる。
「酷でぇもんだ……」
何がどうしたのか。杉作の首は無く、そこから溢れた血が、下の河原に滴り落ちている。
「杉作の兄ぃ――」
杉作を悼むと同時に、柔志狼の事が気になった。一緒に落ちたあの男はどこへ――
「恒ぇぇぇ!恒よぉ!」
今度は仁平が指を指した。
もぞり――と、血の滴り落ちる先で、黒い影が動いた。
「探し物はこれかい――」
突然、黒い影が丸いものを放り投げた。
漬物石のようなそれが、どす――と、音をたて二人の足元に落ちた。
「ひえぇぇ!」
「兄ぃ……」
それは恨めしそうに眼をひん剥いた、杉作の頭部だった。
「脳みそ空っぽのくせに、やたら重てぇんだ」
血まみれの黒鬼が、にぃ――と嗤った。
殺される――本能がそう悟った。
そこからの事はよく憶えていない。
怒りに任せ剣を抜いたのは憶えている。
だが、柔志狼が礫のように石を投げつけると、仁平の眼が潰れた。
「ちん、とん、しゃ――ん」
獣のような速さで、柔志狼が襲い掛かってきたことは憶えている。
最初に指を折られ――
剣を奪われ――
山を追われ――
そして、逃げた。
最初に捕まったのは仁平だった。
仁平の絹を裂くような悲鳴を聞いたまでが限界だった。
恒は狂ったように山中を走った。
耳元で、柔志狼の息遣いが聞こえた時は、頭を抱えて走った。
背中に何かが触れたのを振り切った時、仏に祈った。
怖ろしかった。
とても人間とは思えなかった。
杉作は、熊のような巨体で粗暴であった。もちろん恐ろしくもあったが、それは人の範疇の事である。
あの男は、何かが違う。
鬼だ。
人の姿をした鬼だ。
全身を血に染めた悪鬼。
そうでなければ、剣も持たずに、ひとりで三〇人からの仲間を殺したりできるわけがない。あの杉作を殺せる訳がない。
そう思ったら、震えが止まらなかった。
柔志狼を振り切って、寺にたどり着いたときは、このまま死んでしまうかと思った。
要領を得ない説明を、巳吉はじっと黙って聞いていた。
「あれは――鬼だ」
魂を溢したような眼で、恒が呟いた。
その一言を聞いた瞬間、巳吉が動いた。
「全員戻ってるな?」
「仁平が――」
誰かが答える。
「お頭には俺から伝える。構わんから門を閉じ、厳重に閂を確認しろ」
巳吉が指示を飛ばす。
「奴の狙いは我らの首だ」
証拠は無い。だが間違いない。でなければここまで執拗になりはしない。
「相手はたった一人なのだろ?」
「なにをびくびくしているのだ」
誰かが笑う。
「巳吉、臆病風に吹かれたか」
場が一斉に沸く。
「やかましい!がたがた言ってねぇで、とっと言われたとおりにしねぇか!」
感情を露わに、巳吉が叫ぶ。
およそ普段の巳吉からは想像できぬ姿に、事態の深刻さが伝わる。
「先ずは門を固めろ。それから武器を支度するんだ!」
ざわつき始めた周囲に、巳吉が指示を飛ばす。
「銃の用意も忘れるな」
「まるで戦だな」
誰かが呟く。
そうだ、これは戦だ。
我ら百鬼天狗党対あの男の戦なのだ。
もしも巳吉が感じた通り、虎磁と同じ技を使うのであれば、柔志狼と言う男はそれだけの脅威たりえる存在なのだ。
「隊を編成しろ。相手は小童役人の比じゃないぞ」
巳吉が冗談を言わないのは誰もが知るところである。
その巳吉にここまで言われては、信じるしかない。
「俺はお頭のところに行ってくる」
側にいた男にそう言うと、巳吉が踵を返した。
その時だった――
どん、どん、どん!
誰かが門を叩いた。
その場にいた全員の眼が、固く閉じられた門を見つめた。
開けてくれよ――消え入りそうな声が、聞こえた。
「仁平か?」
巳吉が山門に戻る。
どうします――と、門番係が眼で問うてくる。
それを制し――
「仁平、お前ひとりか?」
門扉に耳を寄せ、巳吉が問いただす。
「独りだよぅ――やっと帰ってこれたんだ。開けてくれよぉ」
仁平の涙混じりの声が、分厚い門の向こうに響いた。