猿が書いた小説
猿が「小説を書く」と宣言したまま部屋から出てこなくなった。三度の食事は部屋の外に置いておくと空になった食器だけが返ってくるのだが、トイレはどうしているのか少し心配だ。部屋の中で粗相をしていないとよいのだが。
時々、空になった食器とともにプリントアウトされた小説らしきものが置かれており「読んでください」とメモ書きされている。日々文章は長くなっていくものの物語の起伏のようなものはなく、読んでいて面白いものではない。「猿にしてはよく書けていると思います」と正直にコメントをメモ書きして、次の食事と一緒に部屋の前に置いておく。
彼がうちに来たのは、ぼくの十歳の誕生日だった。ぼくはそれまでハムスターを飼っていたのだが、誕生日を前にそのハムスターは死んでしまった。落ち込むぼくを見かねた両親は、何を思ったのかハムスターの代わりにと彼を連れてきた。
彼は新しい環境に怯えることもなく、ぼくたち家族によく懐いた。ハムスターを失って落ち込んでいたぼくだったが、一気に彼に夢中になった。
彼の名前は最初「タロウ」と決まったのだが、祖父と父が「おい、猿」と呼びかけ続けたため、彼のほうでも自分の名前は「猿」なのだと覚えてしまったようだった。ぼくたち残りの家族はなんとか「タロウ」と覚えさせようとしたのだが、彼は「私の名前は猿ですが?」といった風に顔をかしげるだけなのだった。
結局、彼の名前はそのまま「猿」に落ち着いてしまった。
猿のやつはうちに来た当初、バナナやリンゴを食べ「キキッ」と鳴くなど猿らしく振舞っていたのだが、そのうちに猿らしくない面を覗かせるようになった。
きっかけは新聞だった。我が家では朝刊を取りに行くのはぼくの役目だったのだが、ぼくは試しに彼に取ってくるようしつけてみた。何度か試すと猿は「新聞を取ってこい」と命じるだけで、新聞を取ってくるようになった。
数日経った頃には、誰も命じていないのに自主的に新聞を取ってきてリビングのテーブルの上に置くようになった。と、ここまでならいい。ちょっと賢い犬なんかでも出来そうな芸当だ。だが、うちの猿はそんなものではなかった。
猿は、新聞を読むようになった。猿は朝リビングに朝刊を運ぶとまず一面に一通り目を通してからページをめくり、政治面や社会面、経済面も飛ばさずに読む。時々動物の写真が載っているページがあるとそこは特にじっくりと眺める。そして、四コマを読むと口角を上げてにやりと笑う。続いて、テレビ欄は指を這わせながらチェックする念の入れようだ。
少し不気味な気もしたが、うちの家族は楽天的だった。「猿、えらいなー」と褒めては、小学校1年生の教科書から次々に猿に与えていった。猿はむさぼるように教科書を読み続け、どんどん知識を吸収していった。
そんな猿も今年の春で二十歳になり、誕生日に欲しい物はないかと尋ねると「パソコン」と答えた(彼に発音は難しいので、いつもホワイトボードで筆談している)。安いものではないので何に使うのか確かめると「小説を書く」と力強く宣言したのだ。
「ちょっと読んでみてくれないか?」
小さなホワイトボードに書かれた彼の声は、実際に聴こえた気がした。
久しぶりに部屋から出てきた彼は顔色が悪く土のようで、頬はこけていた。彼のあまりの変わりように驚きつつ、ぼくはプリントアウトされた紙の束を受け取ってリビングの椅子を勧めた。
「ずっと書いてたの?」
「うん、寝たり食べたりする以外はずっとね。キーボードを叩きすぎて、ぼくの指がキーボードを叩いているのか、キーボードがぼくの指を叩いているのか分からなくなった」
力なく笑う彼を見て、ぼくは心配になった。
「ホットミルクでもどう?」
「ありがとう。でもミルクをくれたら、真っ先にそれを読んでほしいな。誰かの意見が聞きたくて仕方ないんだ」
ぼくはマグカップに牛乳を注いで電子レンジのスイッチを押すと、すぐに彼の小説を読み始めた。彼は安心したのか、ぐたっと首を落とし椅子に座ったまま眠り始めてしまった。電子レンジがチンと鳴ったので、マグカップを彼の目の前に運ぶ。小説の続きを読み始める。
ぼくが小説を読み終えたのと彼が顔を上げたのは同時だった。まるでそのタイミングにぼくが読み終わると分かっていたみたいだ。
「どうだった?」
ちょっと躊躇ったぼくの様子を見て、彼はすぐに言葉を続けた。
「いいんだ。正直な感想を聞かせてほしい。どんな酷評でも受け止めるよ。ぼくはそのために書いているようなものなんだ」
「うん、じゃあ言わせてもらうよ。ぼく自身そんなに小説を読むほうではないんだけど、君の小説にはなんていうか起承転結というものがないように思う。ずっと平坦な感じで物語が続いていく。けれど、ここから物語が大きく動いていくんじゃないかという気はするよ。だってこれ、まだ終わりじゃないんだろ」
話を聞いている間じっと僕の目を見たままだった彼は、聞き終わるとふーっと息を吐き、マグカップに手を付けた。表面に張った膜をぺろっと舌ですくい上げて食べ、ごくごくとミルクを飲み干す。「ありがとう、ミルクも感想も」そう言うと、紙束をトントンと揃えてまた階段を上っていく。
「また書くんだね。たまには顔見せなよ。父さんも母さんも心配してる」
「そうする」そう言って猿はまた部屋にこもった。
「今日、猿が部屋から出てきたよ。ぼくに小説を見せてくれた」
ぼくが夕食の席で両親に報告すると、二人は少し驚いたような表情を見せた。
「それで?」父が尋ねる。
「それでって何が?」
「小説はまだかかりそうなのか?」母もうんうんと頷いている。
「分からない。でもまたしばらく部屋にこもって書き続けそうだよ。なんていうか、表情が普通じゃないんだ。意地でも小説を書きあげるつもりなんじゃないかな」
「馬鹿な奴だ。なんで小説なんかをそこまで」
父さんはそう言ったけど、ぼくには猿の気持ちが分かるような気がした。猿はまだ父さんが言ったことを根に持っているんだ。「猿よりはましだ」と。
あれはぼくの小学四年生の夏休み、だから猿がまだ新聞を読んだりする前のことだ。読書感想文が苦手だったぼくに、父さんは言った。
「いいか、お前は猿よりはましだ。猿は言葉を知らない。だから、パソコンのキーボードを叩いても意味不明な文字の羅列しか打つことができない。それでも、キーボードを叩き続けているうちに「あさ」だとか「さようなら」なんて意味のある言葉を偶然打てることがある。そんなことを何万何億回と続けているうちには、立派な小説だって書けるかもしれない。ましてやお前は人間だろう。言葉を知っている。猿よりはましなんだから、試しに適当に打ってみるといい」
そんないい加減なアドバイスをもらったぼくは、その言葉でやる気を出すなんてこともなく、だらだらとパソコンを打ってはアイスを食べたりしていた。そして、いつの間にかうたた寝をしてしまった。
うたた寝から目覚めると、拙いながらも読書感想文は完成していた。そのことを父に報告すると「ほら見ろ、頬杖かなんかで適当に打っても書けるもんだろ」と笑っていた。ぼくは気を利かせた父が書いてくれたのだと思ったものだった。
もしかしてあの読書感想文は猿が書いてくれたものだったのではないだろうか。気になったぼくは彼の部屋を訪ねた。
扉をノックする。「猿、小説は進んでるかい?」返事がない。うんともすんとも言わない。扉に耳を押し当てて様子を伺うが、部屋の中で動くものなどないような雰囲気だ。扉のノブに手をかけると、簡単に回る。おかしいな、いつもは鍵をかけているのに。
中に入ると、彼は椅子に座りパソコンの前に突っ伏していた。
小説はどこまで進んだのかと、モニターを覗き込む。「なんだこれ?」
そこには無茶苦茶にキーを打ったように意味不明な文字の羅列が続いており、ところどころに「あさ」だとか「さようなら」なんて言葉が混ざっている。
「ねえ猿、これじゃまるでただの猿が書いた小説みたいだよ。君は本当に猿だったのかい?」
その問いに彼が答えることはなかった。彼はすべての力を使い果たしたみたいに、いつまでもパソコンの前に突っ伏していた。
後日、彼の書いた膨大で意味不明な文字の羅列の中から、長い文章らしいものが発見された。書き出しはこうだ。
猿が「小説を書く」と宣言したまま部屋から出てこなくなった。