三話
気づいた時には路地裏で生活するようになっていた
ここがどこで、自分が何者なのか
そんなことは知らなかったし、知る必要もなかった
私がいまいるこの場所を失わないために、視界に映るものひとつひとつにただ全力だった
初めて関わった人間はどこの誰かもわからないじいさんだった
空から降る白いなにかを私がまだ雪と知らない頃、あまりの寒さに凍えそうだった冬
その日たまたま近くに落ちていた布で、寒さを防ごうとした
見かけよりも重たいそれを引っ張り続けていると、何かに顔を殴られた
その時初めてじいさんがくるまっていたことに気づいたが、それも遅く、殴られ続けた
気の済むまで殴ったじいさんは布に戻ろうとしたが、
少しこちらを見つめた後、余っている布を1枚ほおって寄越した
もはや痛みで体の感覚もマヒしていたが、私はそれに飛びついたのを覚えている
翌朝、目を覚ましてみると、足元にカビてカチカチになったパンが転がっていた
もちろん私にしてみればご馳走だったし、すぐにでも飛びつきたかった
けれど昨日のことが頭を過り、慎重にならざるを得なかった
周りを見渡してみれば昨日のじいさんが近くにいるのが目に入った
私の視線に気が付くと私の目の前のパンを指さし、食べる仕草をした
どうやら“食べろ”と言いたいらしい
よく見ると、じいさんも目の前のものと同じようなパンを食べている
今でこそ警戒すべきなのはわかるが、その頃の私にそんなことはわからない
目の前の腐りかけのパンに飛びついたのは言うまでもない
その様子見て、手を止めていたじいさんも食事を再開した
その日からはじいさんと行動を共にした
彼と過ごしたことで私は多くを学んだ
路上での体の痛くならない眠り方、冬場の下水道での過ごし方、物乞いのやり方、
食べ物の配給場所など生きる上で必要なことはもちろん
言葉の意味や、物の名前、簡単な読み書きや計算も教えてくれた
一緒に生活していて、彼から時々だが育ちの良さを感じた
言葉の端々に、物事の教え方に、知識の隅々にそれらは感じ取れたが
私がそれを追求したことはなかった
彼との時間は矢のように過ぎていった
それまで一人で生きてきた私には、心に自分というものがなかった
今日生きるためにどうするのか、過去も未来もなくあるのは辛い今だけだった
しかし今は違う
彼からもらった様々なものが私に未来への選択肢を与えてくれた
同時に、これまでの自分戻りたくないという恐怖も生まれた
初めて自分がどうしたいのかを考える余裕が心に生まれた
今思えばそんな大層なものではなく、吹けば飛ぶ埃のようなものだが
当時の私には一種の希望でもあった
彼と過ごし数年が経とうとしていたある晩
日中に燦々と輝く太陽が、その余韻を大きく残し沈むようになった季節
珍しく寝苦しさを感じて眠りから目覚めた
のどの渇きを癒そうと水場まで行く道すがら、話し声に気づいた
気になった私は、耳をそばだてて辺りを伺う
道なりにしばらく進むと奥のT字路で会話が行われていることに気づいた
曲がり角の陰から覗くと、二人の人物が話していた
「...大丈夫なんだろうな、もしこんなことがバレたら私は・・・」
「心配をする必要もないでしょう、所詮スラムの人間です。そんなことよりもブツは確かなんでしょうね?話ばかりで私は拝見したことがないもので。」
「あ、あぁ!もちろんだ!ちゃんと私のもとにある。何なら見に行くか?」
「いえ、私はあまりこの手の場所が得意ではありませんので。不用意に近づきたくないんですよ。」
そこまで聞いて、ひとまず状況を整理する
話しているのは二人組の男
何かの取引を行ってるようなのはわかるがそれが何かはわからない
暗い路地裏では男たちの人相までは判然としないが、
どうやら優位に事を進めているのは奥に立つ長身の男のようで、
細身のシルエットの中で月明かりに照らされた眼鏡が反射をしていた
「そうか、で条件の方は忘れてないだろうな?俺の頼み、聞いてくれるんだよな?」
不安そうに尋ねる声に私はハッとする
...この声っ!
「わかっています、あなたから出された要求は飲ませていただきますよ。...ふふふ、ご家族、でしたっけ?すでに居場所は特定済みですし、いつでもお教えできますよ?何ならすぐにでも。」
何がおかしいのか長身の男は笑いながら話す
「本当か!...いや、待ってくれ。...まだ、だめだ...。」
メガネ男の言葉に逡巡し、拒否する弱弱しい声
「ほら、こうです。あなたはいつもそこで立ち止まる。私側にはあなたの要求に応える用意があるのにも関わらず、あなたがそれを良しとしない。困ったものです。」
「...すまない。」
そこで私は確信していた
あのメガネ男と話している人物、
家族の場所を教えろと言う人物、
間違いなく
「..じい...さん..?」