アンドロメダ
一人の宇宙飛行士が宇宙で散った
私がそのニュースを聞いたのは7月の暑い午後だった。気怠くベッドから起きた私はコーヒーを沸かして、珍しくテレビを点けた。そのニュースを聞いた私は大層可哀想なことだと思ったが、宇宙飛行士の名前を聞いて、一気に目が覚めた。彼だったのだ
いつの日だったろうか、もう十年以上も前だ。今日と同じような茹だるような夏の日差しが照りつける日だったと思う。私と彼は友人であった。彼は屈託のない笑顔を浮かべながら僕にこう言った。
「いつか宇宙飛行士になって星雲の上を歩いてみるんだーー」
幼い僕にもそれは子供が抱く夢物語のように感じられ、ただつられて笑っていた。ただただ彼の眩しい笑顔だけが記憶にずっと残っていた。
彼はいわゆる快男児であり、いつも皆の中心にいるような男だった。大人しく友達も少ない私は、彼のような者が自分と遊んでくれるのが嬉しくて、舞い上がっていたのだと思う。そんな彼が時折見せる儚げな表情にはこの世ならざる風景が投射されてるような、一種浪漫的であり、危うさのような物も感じられ、目を奪われることが時々あった。恐らく彼の瞼には広大な宇宙と散りばめられた宝石のような星雲が映っていたのだろうか。私は宝石のような雲の上を歩く彼の姿を想像し、幼く子供じみた恍惚を味わった。
中学へ進学し、体を鍛えるためと運動部に入った彼とは、自然帰宅時間も合わず、少しずつ疎遠になっていった。私はというと、さしたる目標も持たず、ただただ学校の課題をこなしながら、本を読んだり、河川敷に腰掛けボーっと川を眺めたりと熱情溢れる学生らしからぬ空虚とも形容さるるような時を過ごしていた。彼とは学校の廊下で出会えば挨拶を交わしたし、奔放で熱情的な彼に対する好意はいささかも薄れていなかった。しかし、命を燃やすように生きる彼に対する劣等感、羞恥心のような物が私の挨拶をぎこちなくさせ、昔のような親密さを示すことを難しくさせた。
あぁ、私には何かが足りぬのだーー
と嘆息し、先の見えぬ将来への不安に潰えそうになる日もあったが、生来的に持ったある種の楽観のような物がそれ以上の自己批難を不要とし、瞬間的な享楽へと誘った。私には交際している女性がいて、彼女とはよく遊んだ。他にも学校の勉強に苦労することもなかったし、浪漫や動乱じみたエピソードとはついぞ縁遠かったがさしたる苦労もない私の中学時代は幕を閉じた。
高校へ進学した私は益々彼と疎遠になっていった。彼に対する好意が薄れたということはなく、それは常に心の奥底で煌々と燃え続けていた。連絡先も知っていたので、いつでも連絡を取ることができたが、やはり劣等感のような物が邪魔をしたのだろうか、ついぞ私は彼に連絡を取ることをしなかった。
私の高校時代も恥ずかしながら筆記に足るような快活な冒険譚もシェークスピア劇のような悲劇的な浪漫も存在しなかった。繰り返される毎日にうんざりする日もあったが、極めて平和で危うさの無い毎日に私は満足し、あえてそれ以上を求めるようなことはしなかった。中学の時から交際していた女性とも関係は続いていたし、幼いながら清い交際じみたものを実践していた。
全く波乱とは縁遠い物語ではあるがこれが私の学生時代であった。大学受験も自分のレベル相応の大学を受け、めでたく合格し、現在の大学生という身分の私に至るわけである。生化学を専攻しているが、大学の授業はややもすると退屈で、講義中に何となく本を読んだり、例の彼が宇宙に行く様を想像するようなこともたびたびあった。中学卒業以降、彼の近況を知る機会を得なかったが、このように私の空想にはよく宇宙で笑う彼の姿が鮮明に思い描かれた。
そんな彼が実際に宇宙へ飛び、そこで亡くなったというニュースは私にとって青天の霹靂であった。まずこれほど若くして宇宙飛行士になれるものだろうかと思ったし、同名の別人であろうという推測が生まれたが、それは後の中学の友人からの電話でやはり彼であったということが明らかになる。何やら彼一人を載せた宇宙船は、動力機のトラブルにより、宇宙へ飛ぶことは成功したが、この地球まで帰るだけのエネルギーを持たなかったという。
宇宙に一人飛び出し、地球への帰り道を閉ざされた彼はそこで何を考えたのだろう。地球への感傷だろうか。彼の全人生が宇宙へ飛ぶ一瞬のために存在したのならば彼の心境は私にはとても想定し得ないと思う。その後のニュースの続報で彼がアンドロメダ星雲上で宇宙船を放棄してただ身一人宇宙へ飛び出して帰らぬ人となったことが分かった。私は身震いに襲われた。彼の全生涯を稲妻のように貫いた運命の恐ろしく短命で壮絶で壮観な美の在り方に捉われた。涙が頬を伝い、それはしばらく止まらなかった。
いつか君からアンドロメダ星雲を歩いた記憶を聞きたいと思った。君の言葉で。君のあの歌うような話し方で。
君はただ一人命の望みを失った宇宙で果てしなく壮麗に輝く星雲上を歩きながら何を思ったのだろうか。
いつか私がこの世を去ったら、君が読む星々の物語をぜひ聞かせて欲しい。君が笑顔で語るその物語を私は地上のどんな物語よりも待ち焦がれているから