プロローグ
今日という日を一生忘れる事はないだろう。
この日は俺、北条豊と幼馴染の一ノ瀬あゆむが、この世界から去った日であり、会わない日はほとんどない間柄であったあゆむと離れ、一人で未知の世界に放り出され、さまようことになった日だ。
不幸な事故に巻き込まれたのか、いや、俺たちがこの世界から排除されたのかはわからない。
俺とあゆむは幼い頃から、家が近所だった事で交流があった。
それがより深い関係になったのは小学校に進学する少し前、俺が剣道を習い始めた後、あゆむも同じ道場へ通うようになってからだ。
これで一ノ瀬あゆむが、かわいい美少女なら羨ましいかぎりだろうが、身長……俺より一センチ低い一六二センチ、艶やかな黒髪が腰にまで達し、肌は透けるように白く、薄い唇の奥に鋭い犬歯、涼しげで切れ長な眼、眉目秀麗と本人は思っている。
俺から見ても整った顔立ちだが、パンチの効いた見事な三白眼で第一印象を一色に染め上げている、有体に表現すれば怖い顔だ。
親父の事とか色々な理由で曲がった性格の俺と、家庭環境の影響でキツイ性格に育ったあゆむは、家族間の交流が断絶した今でも、お互いを「チビ」「貧乳」と罵りあいながら交流を続けている。
と、まぁ本日も滞りなく部活が終わり、夕焼けを背に受けつつあゆむと帰り道を共にしている。
珍しいことではない。
あゆむの胸がもう少し大きかったら下校を共にしているだけで俺もリア充認定されるのであろうが、非常に残念な事に、残念な結果と、残念な現実が今この空間を包んでいる。そんな親しき仲に礼儀無しなことを考えていると。
「ちょっと話があるんだけど……」と、あゆむが話を切り出してきた。
緊張しているような、思い詰めたような……落ち着かない仕草に若干の不自然さを感じる。
他人から見ればあゆむは相変わらずの鉄面皮なのだろうが。
「ん? なんだろうな~、何でもお兄さん聞いちゃうぞ」
しまった、おちゃらけてしまった。
しかしあゆむは俺のせいで台無しになってしまった空気にも気付かないのか、あえてスルーなのか表情も変えず
「じゃあ、そこの公園で…いいかな?」
道沿いにある遊具が古くなって滑り台の階段にロープが張って使用中止になっている公園を指差した。
殴られるのを覚悟していたのだが、拍子抜けした。
一之瀬あゆむ、俺の幼馴染であり暴力装置、その危険物がこんなにも殊勝な態度。
ただ事ではない。
やべぇ、告白かなんかされんのかな? いや、まだ慌てるな! 焦るな! こういう場合オタオタしていたら負けだ、何の勝負かは分からないがとりあえず負けてはダメだ。
あゆむは何か思い詰めている顔をしている、気もする。
真面目な顔だ、非常に苦手な雰囲気だが、俺はなるべく平常心を心がけ深呼吸をし――
「いいぜ……」
やりすぎ感の溢れるいい声で答えた。
意識しないよう演じるのは、内心意識しているということだろう。
ダメだな俺は。
場所を公園のベンチに移し隣へ並んで腰掛けた。
当然手もつないでいないし、おっぱいも弄っていないし、スカートに手を突っ込んでもいない。
あゆむとの間隔は50cm以上は離れている、体温も感じていない。
まだ慌てる時間ではない。
「……」
ベンチに座ったまま30分は経過しただろうか、あゆむは何も言わず俯いたままだ、ひょっとしたら生理がこないとかだろうか?
いや、身に覚えはない。
伊達に長い付き合いじゃない、幼馴染としての俺に用があるのだろう、とすると家庭のことか?
あゆむの家庭のことは他の奴よりもよく知っている。
しかし、自分から他人の家族の話は聞けない、俺にだってデリカシーってものはあるのだから。
「家で……何かあったのか?」
またやってしまった! 沈黙に耐えかねて口に出してしまった。
生来の性質なのだ、俺はこの手の失敗を何度も繰り返していて直る兆しもない。
しかしその一言が合図になったのだろう、あゆむは覚悟を決めたように口を開いた。
「実は、豊はよく知ってると思うけど……」
「あぁ……」
話が進まない、空気が重い。
「大人になったら少しは大きくなるだろうから、心配する必要はねぇよ」
俺は何を言っているのだろう。
クソッ、むかつく話だが、親父ならもっと上手く話を聞いてやるだろうな、とか考えてしまう、あゆむも本音ではそう思っているんだろうな。
そんなことを考えてしまえることが自分が身長以外もちっちゃいようでイラつく。
何をあゆむが抱えていているのかわからない、それを聞いてやれるスキルがないのが情けない。
いつの間にか夕方になっていてベンチの近くにある街灯が点灯した、気付かないうちに辺りは薄暗くなっていたらしい、カラスの鳴く声が遠く近くで聞こえる。
「やっぱりいいわ、またね」
沈黙を破ると同時にそう言うとあゆむは荷物を素早く肩にかけて駆け出した。
「待てよっ」
さすがに様子がおかしい、俺は荷物を担いであゆむの後を追った。
公園の出入り口で辺りを見渡すと、あゆむは本通りの横断歩道で信号待ちしていた。
俺は急いで駆け寄るとあゆむの肩に手をかけた。
偶然にもブラの肩紐の感触が指先を刺激したが俺は気づかない。
俺は少ない人生経験から思い浮かぶ数少ない選択肢の中から『マシンガントーク』を選択した。
「急に逃げなくてもいいだろ、話しにくいことは無理に話さなくてもいいけどさ、そりゃ俺に話しても解決できないってことなんだろうけど」
「それでも俺に話そうとしたってことは、俺になら相談なりカミングアウト的な何かをしてもいいって思えるぐらいには頼りに、あてにしてくれてるってことだろ?」
俺はいったい何が言いたいだろうか? もっと気分が晴れるような事を言えよ俺は!親父ならもっと違った……。
「それなら気持ちが落ち着くまで一緒にいてやるよ、そうだな、今からカラオケでも行くか? 上着脱いていれば学生とはバレないだろ、あれだあれ、たまには夜遊びとかしても大丈夫だろ!」
「そうだ! 持ち込み禁止のオケ屋でポテトとシェイクでも持ち込んで、それで尚且つ容器をそのまま残して帰って店の人を嫌な気分にさせてやろう! それからっ……」
次の言葉を発することは出来なかった。
「また明日」
そう言うと、あゆむは俺を振り切るように横断歩道を走り始めた。バッサリ話しを切られた、何か言葉を返す間もなかった、会話のドッチボールだ!
だが呆ける暇もなかった、横断歩道の信号は赤だ! 猛烈なブレーキ音を鳴らしながらトラックがあゆむに向かって直進している。
どんなハイスペックなABSでも、止まれないであろうスピードで。
「バッカ野郎ぉ!」
考えるより先に体が動いていた、俺は体を強張らせているあゆむを抱えると歩道に引き返そうと飛んだ。
人一人抱えてジャンプとか通常では無理クエだがそれなりに飛べた、火事場の馬鹿力って本当にあるんだな。
あゆむを両腕に抱えながら歩道に転げるように逃れた。
クッソぉ膝と肩がいてぇ! クッション機能の欠落した貧弱おっぱいめ!
トラックの運転手は急ブレーキで停車すると窓を空けて「ふざけんなクソガキィ! どこ見てやがる! 死にてぇなら一人で勝手に死ねぇ! 」と、もの凄い剣幕で怒鳴ると無駄に大きめな空吹かしをして走り去って行った。
まったくその通りだ、車を降りて殴りかかってこられても文句を言えないレベルだ。
「お前、何考えてんだ!」
あゆむに向かって怒鳴りつけた、正当な怒りを吐き捨てていったトラック運転手の分も言霊に上乗せしたつもりだ。
だが、あゆむの様子がおかしい、目線が定まらず痙攣している、うそだろこれってやばいんじゃねぇか? ショック状態ってやつだ、あまり揺さぶるのは危険な気がするので頬を叩きながら。
「おい! しっかりしろっ!」
すると、あっさり痙攣はおさまったもののあゆむはピクリとも動かない、口に耳を近づけてみると、スー、ハー、と正常だと思われる呼吸音がした、あゆむは俺の腕の中で呆然としている。
「大丈夫か?」
俺はそう言ってあゆむの顔を覗いて見た、バッチリ目があった、意識もしっかりしているようだ。
俺が行った一連の救命行動も全て認識されておられるかも知れない、俺にそれを確認するすべは無いのだ、人の心は例えどれだけ惹かれ合っていたとしても、全てがわかり合えるわけではない、恐ろしいことだ。
一瞬あゆむの右手が伸びてきて俺の顔に触れた……
「――!」
その瞬間、唐突にあゆむの体が沈んだ。
重くなったのではない、歩道がまるで3D画像であったかのように一切の感触がなくなり、あゆむの体を一気に引きずり下ろしたのだ。
何の前兆もなかった。
そしてその直後、俺が踏みしめている道路の感触も一気に無くなった!
――理解が追いつかない!――
俺は咄嗟に右手を伸ばした先にあった電柱足場を掴んだ。
左腕にあゆむを抱えていたので体に引き裂かれるような痛みが走る。
あゆむの腰から下は歩道のアスファルトの下に見えなくなっていた。
液状化とか落とし穴とかチャチなものじゃない。
透けている、としか説明のしようがない。
「うあああああああぁ! なんだこれ! なにこれどういうことだこれ! あゆむ! これはなんだ?」
「わかるか? どうすればいいんだこれぇ! 」
半ばあゆむを責める口調で問いかけた。
明らかに八つ当たりだが何の脈絡も無く、前兆も無く、理解できない現象にヒステリーと言って差し支えない心理状態だ。
「わからない、わからないけど、でも――」
「罰が当たったのかもしれない、私のせいだわ」
「意味がわからねぇよ! 罰ってなんだよ! わかんねぇよ! おばあちゃんみたいなこと、この状況で言ってる場合かよ! 」
「だから私はもういいから――」
かろうじて聞こえてきた言葉は。
「――もう離していいわ」
そう言うとあゆむは俺の腕を押しのけ始めた。
なぁ! ちょっと待ってくれ!
そんな自己完結で納得されても俺は納得できないのに。
納得よりも前に理解も出来ないし、何よりもこんなに急にあゆむを失うなんて心の準備はもっとできてない。
電柱足場を掴んでいる右手は二人分の体重を支えていてもう限界だ。
左腕のあゆむはもう俺の元から零れ落ちようとしている。
時間は無い。
俺は電柱から横に突き出ている鉄製の足場から右手を離した。
視界は一瞬でブラックウトし、ただ落ちて行く感覚だけがある。
腕に大切に抱えていたはずのあゆむの感触もいつの間にか無い。
ただ一人きりで落ちていく感覚だけがあった。
心残りは唯一つだけ。
真っ黒で、誰も存在していない空間でポツリと呟く。
「ちゃんと話を聞いてやればよかった……」