NO.12 咲著 「山 『あの山を見よ』」
山は唐突に、史郎の前にあらわれた。
毅然とそそり立つ頂からたおやかに広がる山裾まで、薄青い夕闇の中ひときわ色を濃くして浮かび上がっている。見渡す限りの田畑と、控えめに点在する民家は視界を全く遮らない。
迫ってくるような、引き込まれるような深い青の偉容。じっと見つめていると、悲しくもないのに涙が出そうになる。
東京の大学に通っていた四年間以外、ずっとこの町に住んでいる史郎もまだ数えるほどしか目にした事のない風景だった。
ふと、史郎は我に返って同行者である雅也の姿を探した。広い駐車場に視線を廻らせると、片隅に背の高い後ろ姿が見える。視線は先刻までの史郎と同じ所に向いているようだった。
初めてこの町に来た彼の目に、あの山影がどう映っているのか史郎には分からない。
「綺麗だよな」
声をかけながら近付くと、雅也が弾かれたように振り向いた。先刻より濃くなった闇のせいで表情は読み取れない。史郎も伺うことはせず、隣に立って再び山を見つめた。
既に稜線はおぼろげに溶けかけている。完全な夜が来れば容易く見えなくなってしまう一瞬を脳裏に焼き付けながら、ふいに史郎の中から呟きがこぼれ出た。
「たまに、無性に幸せだって思う時があるよ。見ての通り何にもないけど、あの山が見える町を故郷だって呼べる事が、幸せでたまらなくなるんだ」
何を口走ったのか一拍遅れで理解して、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。幸せ、だなどという言葉がまさか自分の口から出てくるとは思わなかったのだ。
雅也も不思議に思ったのか、とっぷり暮れた闇の向こうからこちらを凝視している気配がする。史郎は視線を遮るように、重たいコンビニの袋を掲げてみせた。
「酒、調達してきたよ」
「ああ、悪いな」
詰め込まれた缶ビールで歪な形になったそれを後部座席に放り込み、エンジンをかけながら史郎は今日一日ずっと気になっていた事を口に出してみる。
「けど東京からわざわざ友達が来てるのに、市内をぐるっと回って家で酒飲むだけっていうのもなあ」
「俺がそうしようって言ったんだからいいんだよ。それにこんな田舎じゃ、酒飲む以外に何も出来やしないだろ」
とんでもなく失礼な言い方だ。しかし雅也の口調にまったく嫌味が無いのと、確かにそうだと思う気持ちのせいで史郎は思わず笑ってしまう。
「田舎で悪かったな。そんな所に自分から来た暇人のくせに」
「ああ、暇人なんだよ」
からからと快活な笑いを含んだ調子はそのままに、声だけが微かにトーンダウンした。
「仕事、辞めたからな」
一階で学習塾を経営している史郎の家はがらんと広いが、自室の面積は一般的なワンルームに近い。小さなローテーブルに並んだ缶ビールを次々と空にしていると、まるで大学生だった頃に戻ったかのような錯覚がした。
「結局、あの頃から何にも成長してないのかもな」
そう言って笑う雅也は、つとめて淡々と自分の事について語った。仲間の誰よりも早く手に入れた内定で、大手の出版社に入ったところまでは史郎も知っている。だがその後あまりの激務でもともと丈夫でなかった胃を本格的に壊しかけた事と、大分にいる両親から実家に早く帰って来いとせっつかれている事は初耳だった。何でも大きな農家で、腰が悪い父親は一人息子に早く跡を継がせたいらしい。快活で力に溢れ、常に仲間達のリーダーだった彼しか知らない史郎は目を瞠るより他なかった。
「部屋は半月も前に引き払ったけど、色んなところ回ってたんだ。昨日まで神戸でその前は静岡。このまま田舎に引っ込んじまうんだと思うと、何だかまっすぐ帰る気になれなくて」
続きの言葉をビールと一緒に飲み込み、雅也は黙り込んだ。彼が流離うように日本各地を転々とする姿が脳裏に浮かび、史郎はあまりに切ない想像に思わず唇を噛む。
「…なあ、体はもう大丈夫なのか?」
沈黙に耐えかねて発した問いは、ひどく間抜けなものに聞こえた。
「ん?ああ。一応は問題ないけど」
「そっか、なら良かった」
雅也の拍子抜けしたような、呆気にとられたような表情から目を逸らして史郎は続ける。
「地元で暢気に親父の塾を手伝ってる俺が言うのも何だけどさ、やっぱり身体壊したら元も子もないわけだし…お前がそうならないでよかったよ」
恐る恐る上げた視線の前で、抜け落ちていた雅也の表情が次第に戻っていく。それまでの快活さが嘘のような力の抜けた、やわらかい笑顔。
「ありがとな」
「礼を言われるような事をした覚えはないよ」
史郎は苦笑しながら、雅也のこんな笑い方を今まで見た事があったろうかと記憶を手繰る。けれど答えが出る前に、冷たい何かを掌に押し付けられて思考が途切れた。
「乾杯しようぜ、俺の失業を祝って」
新しい缶ビールを軽く打ち合わせる。ぽこんと奇妙に陽気な音がして、既に酔いの回っていた二人は声を上げて笑った。




