No.4 咲 著 「月 『三時半の月』」
月の光は案外明るいのだと、上手く眠れなくなって初めて気付いた。
今晩は満月。寝室は分厚い遮光カーテンを閉めてあるが、わずかな隙間から忍び込んだ光は、細い帯を作って闇を横切っていた。
枕元の携帯電話を開いて時刻を確認する。午前三時三十分。もう眠ることは諦め、ベッドから這い出して窓辺へそっと近寄った。
少し躊躇うが、思い切って遮光カーテンを開け放つ。さあっと音を立てそうな勢いで月光が流れ込み、部屋の隅々までを青く染めた。
真夜中の月は高く高く昇り、ビルにも電線にも遮られる事なく白い光を投げかけてくる。まるでこの空間を洗い清めているようで、何故か涙が溢れそうになった。
しばらくそのまま窓辺に立ち尽くしていたが、背後に衣擦れの音を聞いて振り返る。空になっていない方のベッドで、ブランケットの小山が波打っていた。
起こしたかい、と声を潜めて聞く。ブランケットの中身はそれに応えず、僅かな間を置いて掠れた声を出した。閉めて頂戴、明るすぎて眠れない。
名残惜しさを感じながらも、重たいカーテンを引いて月光を遮る。真っ暗に閉ざされた部屋を手探りで進み、慎重に自分のベッドを見つけて再び身体を投げ出す。
秋が始まったばかりだというのに、シーツはひどく冷たく感じられた。
並んだふたつの名前。既に乾いた朱印の隣に、痛みを覚えるくらいにきつく判を押し付ける。
準備期間とは裏腹に、書類を提出する最終局面は実にあっけない。これで彼女とは他人になった。責任も権利も生き物ではないから、未練なんてものとは無縁にあっさり離れてゆく。自分だけが、いつまでもこの状況から取り残されていた。
市役所を出て、どちらも無言のまま並んで歩く。離れがたいからなのか、離れるための適当なきっかけが見つからないからなのか。少なくとも、彼女は後者だろう。
あ、と声が上がったのは最初の曲がり角だった。
「どうしたの」
声をかけても、首を反らして空を見上げる横顔は動かない。思えばここしばらく、彼女は横顔しか見せてくれなくなっていた。
「月が見えるわ」
白い指が薄水色の天をまっすぐ割いて突き出される。その先を追いかけて顔を上げるが、引き千切られたような雲の欠片のほかに何も見つけられない。
しばらく首を廻らせ、諦めて戻した時には既に彼女の姿は無かった。思わず漏れた溜息には、少なからぬ安堵が混ざっている。
そして一人で歩きながら、彼女が見つけたであろう月を頭の中に思い描く。
この昼間の光の下では、夜の闇の中のような輝きは見る影もないだろう。成仏しかかった魂のようにおぼろげな姿で、今にも青空に飲み込まれそうになりながら居心地悪そうに浮かんでいるに違いない。彼女には見えたけれど、自分には見えなかったもの。
自分には一体何が見えていただろう。外された指輪。こちらを向かない横顔。最後にこっそりと、視界の端に捉えた涙の雫。
見えない事と存在しない事は、イコールではない。
見えるものだけを信じて生きていけたら、どんなにか楽だったろうに。




