01 李緒 著 夏休み 『夏休み』
バス停までの道を急いでいると、子どもたちの騒ぐ声が聞こえてきた。
小学校の運動場の外れにある小さな花壇。そこにはひまわりやらサルビアやら夏の植物が、照りつける太陽に負けじと花開いていた。
(授業中?)
そう思った佳子は、すぐに、今が夏休みであることを思い出した。
(そういえば、夏休み中に、花壇の水遣り当番というのがあったっけ)
10年以上前、水遣り当番を決めるのに、せっかくの夏休みに学校へ来るのは嫌だとか、プールの日には来るのに水遣りが嫌なのは変だとか、議題にもなって、男子と女子とで言い争ったことまで思い出す。
(あんなことくらいでむきになって、あの頃はまだみんな可愛かったのね)
結局、出席番号順に、男子と女子との二人一組での当番が決まり、随分と文句を言い合ったのだった。
佳子の出席番号は16番。男子の16番は、佳子が苦手な子だったから、余計に水遣り当番が嫌だった。
(今考えると、あの子、私に気があったのかな。小学生で意地悪するのは、気がある証拠って定番だものね)
やーい、ブス、とからかわれたり、消しゴムを隠されたり。スカートめくりもされたんだっけ。
そんなことを考えながら、佳子は子どもたちの姿を眺めて微笑んでいた。
そして、はっと気付く。
(いっけない。遅刻する)
かくいう佳子も、今日は夏休みを取っている。佳子の会社はお盆休みがないので、各々自由な日に取れるのだ。
そこからは、高校時代テニスで鍛えた脚力で走りきり、無事に予定のバスへ乗り込んだのだった。
待ち合わせ場所へ行く前に、化粧室で身なりを確認するのは、うら若き娘たちの必須である。
佳子も念入りに化粧を直してから、約束のオープンカフェへと向かった。
「お待たせ」
ん~、と読みかけの本から目だけ上げて、佳子のことを確認するのは、大学院へ通う恋人の英之だ。
背が高く、見目も良いから、さっきから道を通り過ぎる女の子たちが、ちらちらと見ていくのに、本人は全く気付いていない。
人がお洒落してきているというのに、と、本から目を離さない英之に、佳子は心の中でため息をついた。
アイスコーヒーを注文したあと、佳子は無理矢理本を閉じさせると、先ほど見た小学校の光景を話し始めた。
「ちょっと待てよ。相手、違うだろ」
途中まで聞いていた英之が、話を止めた。
「何が?」
「水遣り当番。田中じゃないぞ。一緒に水撒いたのは」
でも、出席番号16番は、確かに田中君だった筈よね、と思い返していた佳子に、英之が言った。
「田中はその日、親の実家に里帰りしていていなかったから、替わりに、17番の谷口が行くことになったんだ」
そうだったかしら、と佳子は首を傾げた。
その佳子の頭を、英之がこつん、とこづく。
「それを谷口に頼み込んで、俺が替わってもらったの」
その言葉に驚いた佳子は、英之をみつめた。
「おまえさぁ、覚えておいてくれよ。要は、あれきっかけなんだぞ。こうして付き合うようになったのは」
佳子は、ゆっくりとその日のことを思い返してみた。
「…あ、そういえば」
「これだもんなぁ」
当番は田中君ではなくなったけれど、谷口君も一緒につるんでからかってきたから、水遣りに行くのが憂鬱で…。
それなのに、そこへ現れたのは、クラスで一番もてていた佐藤君、つまり、英之、だった…。
佳子はその時、余りにも驚いて、舞い上がってしまって、何をどうしたのか、よく覚えていなかったのだ。
「普通、女の方が覚えてるもんだよな、記念日とかって。ほら」
そう言って、差し出されたのは、赤い小さな箱。
「今日で付き合い始めて、3年目」
「い、いやぁね。お、覚えてるわよ。そのくらい」
その箱の中には、雑誌を見ながら欲しい欲しいと騒いでいた、小さなルビーが付いている指輪が入っていた。
「ありがとう、英之」
「どういたしまして」
大学生の時に、小学校の同窓会で再会し、付き合うようになった。お酒が入っていたから、何きっかけだったなんて覚えていない、などということは、英之には黙っていよう、と佳子は思った。
最初のきっかけは、あの夏休みの一日にあったのかと、佳子は先ほどの小学生たちを思い出す。その笑顔に、麦わら帽子をかぶった英之の笑顔が重なった。
そうだった。あの時、私、とても嬉しかったんだわ、と佳子は思った。そのことを話そうかどうしようかと考えながら、やっぱり本に目を落としている英之の顔を楽しげにみつめるのだった。
【完】