表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Loop~君の悪夢を何度でもやり直す僕の話。  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/26

第9話 覚醒テスト

 朝いちばん、校長室の隣にある会議室は、冬の朝みたいに空気が硬かった。開け放された窓際に、夢庁の査察官が二人、不知火、学校側から教頭とスクールカウンセラー。透明なアクリルのピッチャーに差した水は、表面張力の糸を震わせながら静止している。机上に整列した書類の束の一番上、特例救助の評価票には三つの項目が太字で印刷されていた。


 対象者の自発的入眠と覚醒後の持続的安定。

 リスクの社会移転なし。

 第三者による再現可能性。


 文字だけ見れば、どれも素直だ。けれど、その素直さが、こちらにとっては一番むずかしい。夢は、素直なものをふいに曲げる。


 僕と結衣は、同じ会議室の端に立っていた。壁際の折りたたみ椅子には座らず、窓の光を半身で受ける。結衣は書類に目を落とさず、指先だけ、目に見えないミキサーのフェーダーを撫でるみたいに上下させた。放送室でやる癖を、ここでもやる。動きの練習は、どこでやっても嘘にならない。


「今日の合成鐘は、少しだけ早いテンポでいく」


 結衣が小さく言った。査察官には聞こえない音量。僕にだけ届く。


「焦りの速さじゃない。踏切を渡る勇気の速度。吸って二拍、吐いて二拍。四つで一まとまり。校舎の骨が覚えてる速度に合わせる」


 僕は頷いた。声はまだ出ない。喉の奥の痛みは、言葉にすると薄まってしまいそうで、黙ってうなずくだけにした。ポケットから小ぶりのメモ帳を取り出して、鉛筆で書く。


 泣く役、読む役、繋ぐ役を、重ね持ちする。


 書いた文字を結衣に見せると、彼女は一瞬だけ眉を上げた。驚きは隠さない。だけど、止める言葉も口にはしない。


「ぜんぶ背負うの?」


 頷く。鉛筆を返して、もう一行。


 ぜんぶ、繋ぎ替える。


 彼女は短く息を吐いた。ため息ではない。合図の呼吸。窓の外で、渡り廊下の金具がかすかに鳴った。会議室の空気が一段落ち着く。不知火が評価票の角を指で揃え、査察官のほうへ回す。彼は視線だけこちらに寄越し、無言でうなずいた。何かを許可するうなずきではなく、何かを見に行くまなざし。見る、という行為に、彼は責任を置く。


 ホームルームのチャイムが鳴り、校内の気配が動き出す。今日のテストは三限目。舞台は理想的な通常授業。あえて、平凡な国語の時間。騒がしいのも静かすぎるのも、夢には良くない。日常の骨に沿わせるのがいちばん強い。


 それまでの時間、僕らはそれぞれの持ち場へ散った。結衣は放送室へ。不知火は会議室に残り、査察官と手順の最終確認。僕は教室へ戻る。廊下の空気は乾いていて、床のワックスの匂いが薄く残っている。予備席は、相変わらず教室の隅に置かれたままだった。座面の裏の小さなテプラの「予備」は、剥がれかけた角を今日も粘って押さえている。名前の代わりに、粘り気。そこにカバンを置き、鉛筆と消しゴムだけポケットに入れた。


 担任が教壇に立ち、今日の授業の単元を黒板に書く。朗読。教科書の見開きの中央、段落の切れ目に、潮、誕生日、線路、という単語が偶然のように並んでいた。偶然であるほうが、夢には馴染む。狙いすぎると、白は笑う。


 チャイムの代わりに、空調のうなりに紛れて、ごく薄い基音が教室に滲んだ。合成の鐘。校内のいちばん細い配管を通って、音が届く。誰にも気づかれない程度の高さ。掴めるのは、掴む訓練をした手だけだ。僕は予備席で呼吸を合わせた。四拍。吸って二拍、吐いて二拍。喉は黙ったまま、胸の中だけで言葉の形を作る。


 黒板の上端、ホチキスで留めた時間割表の影が、ゆらりと濃くなった。結衣の字幕が、その影のうしろからにじむように現れる。白チョークで書いたかのような薄い文字。吸って二拍、吐いて二拍。短い指示だけが置かれ、すぐに消える。痕跡だけ残る。


 教師が朗読の当番を指名する。ひかりは顔を上げて、静かに返事をした。声の高さが、昨日より半音だけ低い。低い声は、揺れない。彼女はページの角を親指で叩いて、リズムを一つ作った。踏切のテンポ。カン、カン、カン、カン。指先の動きが机の木目に沿う。そこへ呼吸を積む。呼吸は、音の前にある。


 僕は椅子を引いた。許可された範囲で、教室後方の引き戸を少し開ける。廊下の向こう、掲示板に小さな磁石で留めてある紙の花の鉢に光が当たって、白がほんのりクリーム色に転んだ。ひとつの色が別の知覚へ滑り出す瞬間。味覚の記憶が、視覚へ逸脱する。合図だ。白は、こういう逸脱が嫌いだ。来る。


 今日は教師の後ろ、姿見の鏡の奥。薄い銀色の面の内側に、編集者が潜んでいた。白い鋏が鏡面を横切るたび、教室に漂っていたささやき声が消しゴムでこすられたみたいに薄くなる。彼はあくまで事務的だ。邪魔するという意志ではなく、塗り直すという手続き。手続きは、切り取りやすいところから淡々と切る。


 僕は読む役として前へ出た……ふりをした。実際に前へ出ず、席の上で体だけを少し傾け、筆箱から短冊を取り出す。先日裂いて作った約束の短冊。未使用の一本。細い紙の繊維に、鉛筆の跡がわずかに残っている。そこに、カスレぎみに書いた言葉。


 あさっては今日。


 前の列の空白を縫って歩き、ひかりの机の端に短冊を置く。置くとき、音を出さない。紙の重さだけが、机の木の上に移る。彼女は目線だけでそれを捉え、ページの角を叩く指がいったん止まり、次の拍で再開した。受け取った合図だ。


「水城。音読を」


 教師が促す。ひかりは深く息を吸った。結衣の字幕が黒板の上端でまた淡く光り、吸って二拍、吐いて二拍、の文字が極小に現れて消える。ひかりの声が教室に出た。最初の音は少し低く、次で整い、そのあとは落ち着いていた。本文の語は自然に並び、潮、誕生日、線路、という単語が、偶然が偶然のまま現れる。偶然のまま現れる単語は、夢の糸のようなものを引っ張る。


 鏡の向こうで、編集者が苛立った。白い鋏を開閉してテンポを乱そうとする。チョークの粉が小さく舞い、黒板の端の時間割表の角がふっと白く消えかける。乱れがクラスに伝播する前に、結衣の音が一段上がった。合成の鐘に、吹奏楽部の調律音であるAが重なる。校内でいちばん「正しい」とされる音。基準は音を縫い留める。Aが入ると、合成の鐘はふらつかない。編集者の白がわずかにグレーへ鈍った。刃の縁が鈍いほど、言葉は紙の上に留まる。


 僕は机の角を四つのリズムで叩いた。膝で拍を数え、手首の内側で音を作る。繋ぐ役。手首の下で、紙の花の折り目がかさっと鳴る。音にならない音。ひかりの読む速度が、僕の無音の合図に沿ってすっと安定していく。読み手と繋ぎ手が別々の場所で同じ拍を持てば、白は割り込めない。


 ページの終わりが近づく。ひかりはほんの一瞬だけ視線を上げ、後列の空席――予備席――に目を止めた。そこに誰かが座っている気配を確かめるように、微笑む。表情が小さく動いただけなのに、教室の空気がほんの少し柔らかくなる。鏡の向こうで、編集者の刃が鏡面を割ろうとした。そのとき、結衣の字幕がぱっと切り替わった。


 固定化:最終項目 自分の手で保存を選ぶ。


 短い。短いほど強い。ひかりは朗読を終え、起立して教師に頭を下げ、椅子に座り直す。その手は机の端の短冊に伸び、ためらわず自分の筆箱に入れた。誰に言われたわけでもない保存。夢と現実の接合部が硬くなる瞬間。編集者は鏡の奥で止まり、白い刃がしゅう、と蒸発した。音がない蒸発。残ったのは、鏡面に貼り付いた指紋の輪郭だけ。


 会議室では同時に、評価票のチェックボックスに黒い印が一つずつ打たれていった。「覚醒安定、成立」。査察官の声は事務的だが、言葉は嘘を含まない。不知火は机の上の書類を一枚だけ裏返し、短く目を閉じた。胸の中で何かを整えるような仕草は、昨日も今日も変わらない。彼は自分の感情を、仕事の形の中に収納する。


 授業の鐘が鳴り、教室に成功の静けさが降りた。静けさは、誰かの息を止めるものではなく、誰かの息を深くするためにある。ひかりは筆箱に短冊を入れたまま、ページの角を折って印をつけた。あとで読み返すための、自分なりの栞。栞は、誰にも見せない証拠だ。


 だが代償は、山を越えた分だけ深い。終礼後、職員室。名簿システムの画面に、担任が出席を入力する。画面の中のクラス一覧から、僕の名前を探す。綾瀬灯真。探す。スクロール。出てこない。彼はスクロールを戻し、検索窓に「綾瀬」と打つ。結果欄に空白行が一つ増えただけで、そこには何も表示されない。教頭が近づいて覗き込み、眉間に皺を寄せた。


「転入手続きの事務エラーか?」


 スクールカウンセラーは黙って画面のスクリーンショットを取り、保存先のフォルダに「本日」の名で入れた。保存された画像ファイルの名前には、僕の名前は含まれない。結衣が駆け込んできて、モニターの前で唇を噛んだ。彼女は視線だけで僕を探し、いないことをすぐに理解する。


「……在籍記録、消えた」


 彼女の声は小さいが、はっきりしていた。消えた、と断定する声は、泣く役の声ではない。仕事の声だ。僕はその場にいなかったが、不知火から送られてきたメッセージで状況を知った。彼はそのあとで、僕のところへ来た。廊下の端で、僕にボールペンを渡した。僕はメモ帳に書いた。


 それでいい。彼女が立っていられるなら。


 不知火は、わずかに目を伏せた。彼のまぶたは重くない。重さは言葉のほうにある。


「……特例救助の評価は、予定どおり上げる。結果を受け取るのが、私の仕事だ」


 彼が仕事という言葉を口にするとき、そこには逃げ道がない。逃げ道を作らない人は、嫌いじゃない。彼は僕のメモを折ってポケットに入れた。証拠としてではなく、持ち歩く紙として。


 夜。校庭の端で風が動き、体育館の窓がひとつだけ小さく鳴った。ひかりは下校途中の横断歩道で立ち止まり、信号が青になるのを待つあいだ、どこかに小さく会釈をした。誰に向かって、ではない。何かに対して。礼を言うとき、人は相手の輪郭を確かめないことがある。確かめない礼は、名前のない礼だ。けれど確かに届く。


 家に帰ると、ポストに封筒が投げ込まれていた。角が少しつぶれた白い封筒。表に赤いスタンプが押されている。


 宛名不明 返送。


 封は開いていない。誰かが僕に送って、行き場を失い、戻ってきた。戻る場所に僕の名前はない。外灯の下で封筒の手触りを確かめ、ポストに戻した。持っていても、どこにも届かない手紙。届かない手紙は、ここに置く。


 自室に戻って、机の引き出しから短冊の束を出した。未使用の分はもう少ない。あさっては今日。今日、という言葉は薄くなるのが早い。薄くなる前に、読む。声がなくても、読む。泣く役はもう十分に引き受けた。読む役は、これからも続けられる。繋ぐ役は、誰かが立ち続ける限り、どこにでもいる。


 窓を少しだけ開けると、渡り廊下の向こうから、海の目覚まし時計が一度だけ鳴った。きちんとした一打。礼拝堂の梁の音と、校舎の骨の音が、ここで一瞬だけ重なった。塩の風が薄く入り、カーテンの裾がかすかに揺れる。明日は、知らない先輩としての再出発。クラスの名簿に僕の名前はなく、予備席は誰かが別の名で座るかもしれない。けれど、読んだ名前は残る。残った名前が、誰かを起こす。僕は喉に手を当て、無音のまま数えた。


 三。二。一。


 眠りは落ちるものではなく、渡るものだと、いまは分かる。勇気の速度で。踏切を渡る時の、確かな速度で。明日の朝、僕はもういちど、同じ速度で扉を開ける。開かなければ、別の扉を探す。扉の向こうで、あの鐘は、もう息を吸っている。吸って、吸って、吸って。鳴る。鳴ったあとに残る静けさを、僕は迎えに行く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ