第8話 踏切
放課後の校門を出ると、風は思ったよりも冷たかった。昼にあれほど柔らかかった日差しが、校舎の角を回るだけで細くなり、アスファルトの上に長い筋を落とす。僕と結衣は並んで歩き、その一歩あとに不知火が続いた。彼はスーツの上着を脱がないまま、少しだけ歩幅を短くして僕らに合わせる。角を曲がった先で、水城ひかりが待っていた。制服の袖口を指先でつまみ、踏切に続く細い道へ視線を落としている。気づけば、四人で歩く形になった。
踏切は、町の外れにあった。住宅街と空き地の境目。工場跡のフェンスが錆び、旗竿にくくられた黄色い旗が風に煽られて裏返る。裏返るたび、旗に印字された注意書きの文字が一瞬だけ崩れて、別の言語みたいな形になる。看板のカタカナも同じだった。風の角度によって「シンゴウヲ」のウの棒が消えたり、逆に増えたりする。赤い警報灯はまだ眠っていて、遮断機の竿は上がったまま。午後の光が赤を薄くして、輪郭だけを浮かび上がらせる。
ひかりは一歩、線路に近づいた。靴の先の白いゴムの部分が、砂利を一粒押す。押された砂利の音が、耳の奥のどこかで過去と繋がる。ひかりは口を結び、唇を噛んだ。音が出るほどではない。噛んだ痕が薄く残るくらいに。
「現場保存用の簡易バリアを展開する」
不知火が言って、カバンから折り畳みのフレームを取り出した。銀色の棒を四本、踏切の脇に立て、透明な膜を四角に張る。目には見えにくいが、空気の手触りが少しだけ変わる。風が膜の前で角度を変え、旗の裏返る回数が減った。彼は腕時計を見て、淡々と続ける。
「現実介入は最低限が原則だが、今日は儀式の一部として許可する。侵食を最小化するための枠だけ。内側での行為は、君たちに任せる」
結衣は軽く顎を引いた。放送室で見るときの顔だ。ひかりは枠の中に視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
「ここに来ると、あさっての感覚だけが、遠くて近い」
ひかりの言葉はゆっくりで、意味が後から追いつく。あさって。来ない日に残した約束。遠いのに、舌の上では近い。僕はコンビニの袋を差し出した。中には四つのプリン。銀色のふたには、あの夏祭りの屋台で見たのと同じロゴが印刷されている。丸い顔のキャラクターが、笑ってスプーンを掲げている。
踏切のそばのベンチに座った。ベンチは古くて、座面の板が少したわむ。四人で横並び。僕はスプーンを四本、透明の袋から出して配った。自分の喉はまだ声が出ない。だから、ふたの縁を指で叩いた。カン、カン、カン、カン。踏切のテンポ。ひかりが僕の指先を見て、わずかに目を細める。合図は十分だった。
ふたをめくると、甘い匂いがふわりと立った。プリンの表面が光を跳ね返し、カラメルの端が揺れる。ひかりはスプーンを持ち、小さく息を吸ってから、そっと口に運んだ。舌にのった瞬間、彼女の目が見開かれる。瞳孔がわずかに開き、次に、頬に赤が差した。
「あさっての味」
言葉は細かった。けれど、その細さのまま届いた。記憶の未遂が、舌の上で完了する。あのとき残すはずだった一口が、今ここで消化される。結衣はスマホを取り出し、放送室と遠隔で繋いだ。耳に小さなイヤホンを差し、画面に映る波形を確かめる。
「味覚の記憶を鐘の基音に重ねるシミュレーション、仕込む。呼吸、波、鐘、味。四つ揃えば、形になる」
不知火は腕時計を見て、短くため息をついた。音は出さない。吐くというより、口の中で止めた。
「……私は制度の人間だ。だが、重い幸せに出会った時、人は強くなる。そこまでは否定しない」
制度という言葉と、幸せという言葉が、同じ口から出るのは不思議だった。けれど、不知火はその二つを同じ高さで言った。ひかりは二口目を小さく取り、口の中で転がし、目を閉じた。指先が震え、ひざの上でスプーンがかすかに音を立てる。カン。微かな金属音が、踏切の軌道に沿って散る。
四人でプリンを食べきるのに、それほど時間はかからなかった。空き容器は洗って持ち帰ることにして、ふたを重ねるとき、僕はもう一度だけカン、とリズムを刻んだ。ひかりの指が無意識に机を叩くみたいに、ベンチの端をとん、と叩く。結衣が笑って、けれど声は出さなかった。笑いの筋だけが頬に浮かぶ。
夕方が早い。不知火はバリアを畳み、透明な膜を四角の棒から外した。空気の手触りが戻る。旗はまた裏返り、看板の文字が崩れる。僕らはその場で解散した。ひかりは駅の方へ、結衣は放送室へ、不知火は庁舎へ。僕は家へ。夕焼けの赤が町の角にひっかかり、電線の影が道に縞模様を作る。歩きながら、喉の奥で無音の発声練習をした。母音の形を、筋肉だけで作る。口の中で言葉を転がし、出ない声に輪郭を与える。いつか戻るとしても、戻らない夜は必ずある。戻らない夜のために、今のうちに、形だけは覚えておく。
家の前に着くと、表札はやはり綾〇のままだった。剥がれた「瀬」の部分は、誰も拾ってくれない。ポストを開けると、広告の束と、学校からのプリントが一枚。宛名は居住者各位。インターホンの履歴には、番号だけが並んでいて、名前は出ない。僕は鍵を差し込み、軽く回した。鍵は回った。今日は、まだ開いた。安堵が遅れて胸に来る。予備席と同じで、今日あるものが、明日もあるとは限らない。あるうちに使う。使い切る。ベッドに倒れ込み、天井の染みを見上げた。僕は喉に手を当て、無音で数字を数えた。三、二、一。遠くで、合成の鐘が微かに鳴るのがわかった。
◇
落ちた先は、礼拝堂と踏切が重なる空間だった。床にレールが走り、木の床板の間から砂利がのぞく。天井には梁が渡り、その間から鐘が吊られている。中央に祭壇。祭壇の上にはプリン。銀色のふたは開きかけていて、表面が微かに揺れる。揺れるたび、香りが広がる。甘さだけではない。夏祭りの湿気と、夕方のアスファルトの温度と、紙のスプーンの柔らかさが混じった匂い。遮断機は上がっていて、しかし警報灯は赤を帯びている。赤は水の中の警告みたいに濁り、空気の層を薄く染める。
管理人のひかりは、線路の向こうに立っていた。こちら側を見て、足の指で砂利を確かめ、体重をつま先に寄せたり、かかとに戻したりする。編集者は警報灯の赤を纏い、白い鋏の刃先で香りを切ろうとしていた。刃が空気を裂くたび、匂いの層が薄くなる。薄くなるが、消えない。消えないのは、現実側でプリンが舌に乗ったからだ。現実で乗ったものは、夢で消えにくい。
結衣の字幕が赤い光のスリットの間に現れた。街灯の影みたいに細い文字。読むには十分な濃さ。
〈味覚同期を開始。スプーンを“鐘の舌”に見立て、触覚も重ねる〉
僕は祭壇のスプーンを掴んだ。柄の部分は冷たい。指の腹に金属の感触がまとわりつき、ひと呼吸で馴染む。梁から吊られた鐘の内側に、スプーンの背をそっと当てた。カン。空気が振動し、梁が一拍だけ鳴る。もう一度。カン。踏切のテンポ。二打目で、香りが濃くなった。プリンの甘さが匂いとして広がり、鐘の音に薄く色をつける。音は透明で、匂いは不透明。その重なりが、ここでは強い。
ひかりが細く笑った。笑うというより、口角が少しだけ上がった。線路の向こうから、こちらへ一歩踏み出す。線路の間の枕木に足を置く。編集者は焦り、白い鋏で鐘の縁を切って音を鈍らせようとした。刃が縁に触れ、白い火花が小さく散る。だが、味覚が聴覚を補完する。音は消えない。匂いが音を押し出し、音が匂いを担ぐ。スプーンの柄を握る指に、手のひらの汗がにじむ。汗の塩気が、甘さの輪郭を固める。固まる輪郭は、白の塗りに強い。
結衣の字幕が少しだけ早くなる。息が合っている。こちらの動きを、現実の放送室から正確に拾っている。
〈二打目、保持。呼吸四拍。三拍吸って、一拍で鳴らす〉
吸って、吸って、吸って、鳴らす。赤は濃くなるが、警告ではなく、温度に近づく。管理人のひかりは線路のこちら側へ、もう一歩。靴底が砂利を踏む音が、鐘の音に紛れる。編集者の刃先が揺れる。白い塗りが、匂いの層に進入しきれない。刃先に、甘さが付着する。付着した甘さは、刃の切れ味を落とす。彼は刃を振り、刃先についた甘さを払おうとする。払うたび、甘さは床に落ち、床の板がそれを吸う。吸った板は、光沢を帯びる。板の光沢は、ここでは記憶の保存に似ている。
やがて、二回目の鐘が過ぎ、三回目が近づいた。最後の一打が来る前の静かな間。空気が薄く、柱が固い。ひかりは線路の上で立ち止まり、僕を見る。距離は近い。近いのに、夢は距離を用意する。僕はスプーンを握り直し、唇の形だけで伝えた。
あさっては今日だ。
音は出ない。でも、口の形は、誰よりも近いところで伝わる言葉だ。ひかりの目がわずかに揺れ、次の瞬間、嗚咽が喉にせり上がるのをこらえた。彼女は祭壇のプリンにスプーンを入れ、最初の一口を取った。夢の中の動作。けれど、現実の舌が震える。遠くの現実で、ひかりの舌が甘さを受ける。甘さは遅れて、ここへ戻ってくる。戻ってきた甘さが、赤の上で薄桃色に変わる。編集者の輪郭から警報の赤が抜け、薄い桃色の層が残った。侵食がわずかに退く。
結衣の字幕が、梁に太字で映った。
〈味覚固定:成功〉
僕はスプーンの先をもう一度だけ鐘に当てた。カン。最後の一打ではない。けれど、ここで鳴らすべき一打。音は短く、匂いは長い。ひかりは小さく頷き、スプーンを置いた。編集者は刃を下ろし、祭壇から距離を取った。白は退くとき、音を立てない。退いた後に残るのは、床板の光沢と、線路の上の砂利の形だけだ。それで十分だった。
◇
目が覚めたのは、午後の教室だった。窓の外はまだ明るいのに、色は薄い。ひかりは席で、小さな空き容器を胸に抱えていた。プリンのふたは外して、きれいに洗ったあとみたいに光っている。誰が置いたのか覚えていない――彼女はそう言った。覚えていないのに、あさってが今日になったという確信だけは残っている。確信は、証拠よりも強いときがある。
僕は黒板に向かった。チョークを取り、テンポの点を四つ打つ。右上の端から、均等な間隔で、点、点、点、点。ひかりは無意識に、机を指で叩く。同じリズムで。指の節が木の表面に当たり、小さな音が生まれる。点と音が重なり、四つが一まとまりになる。教室の空気が、呼吸を思い出す。
しかし、代償は深くなる。放課後、家に帰ろうとして、僕は玄関の前で足を止めた。鍵穴が、朝と違っていた。ほんの少しだけ。穴の縁の削れ方が違い、鍵を差し込む角度が合わない。差し込めても、回らない。金属同士が少しずれたときの嫌な音が、手のひらに伝わる。汗が冷たくなり、指先の感覚が鈍る。ポケットの中で鍵が重くなる。家は僕を覚えていない。今日は、開かない日だ。
しばらくして、母が帰ってきた。母は僕を見て、一瞬だけ目を細め、それから鍵を回した。鍵は回った。ドアは開いた。僕は家の中に入ったけれど、家は僕を半分だけ通して、半分は外に残したままだった。靴をそろえ、廊下を歩く。自分の部屋のドアノブは冷たく、引き出しの取っ手は前より軽い。ベッドに座って、喉に手を当てた。声は、まだ戻らない。戻らなくても、読むことはできる。読むための筋肉は、喉の少し外側にある。
夜、結衣からメッセージが来た。放送室の機材を片付けた。合成の鐘のデータを保存した。明日の予定。不知火が査察官を連れてくる。第三者の前で、対象の安定を示せるか。覚醒テストは正午。礼拝堂に見立てた体育館の一角。紙の花、鐘の基音、海の呼吸、味覚の再現。全部、もう一度。彼女は拳を握って頷くスタンプは送らない。かわりに短い文を打つ。
やる。ここまで積んだ約束の欠片、全部鳴らす。
僕は既読だけつけて、返信はしなかった。喉に形だけの言葉を浮かべ、息で押し返す。息は壁に当たって、静かに消えた。
不知火からもメッセージが入っていた。非常勤講師用の空き教室を手配した。明朝の集合場所。校舎の東側の渡り廊下の下。遅れるな。文は短い。短い文は、責任を濁さない。
眠る前、窓を少しだけ開けた。夜風は冷たくはなく、匂いは薄かった。耳の奥で、海の目覚まし時計が一度だけ鳴った。たしかに、鳴った。礼拝堂に置いた、海の音を閉じ込めた目覚まし。現実の天井裏で鳴ったのか、夢の隣室で鳴ったのか、判別はつかない。鳴ったという事実だけが、部屋の空気に塩の粒を一粒ずつ落とした。渡り廊下の方向から、細い風が抜けた。塩の匂いは、学校の建物と意外によく合う。コンクリートの灰色と、塩の透明が、夜の色を一段だけ軽くする。
電気を消し、枕に額を預けた。明日、査察官立会いの覚醒テスト。成功すれば、ひかりは戻る。戻る、という言葉は簡単だ。実際に戻るのは、場所と時間と名前だ。僕の在籍はどうなるのか。予備席は、明日も僕の席なのか。考えると、喉の奥が少しだけ熱くなる。熱は痛みではなく、声の残骸みたいなものだった。残骸は、読めば薄くなる。読めば、残るものもある。残るものを信じて、目を閉じる。耳の奥の鐘は、もう息を吸っている。吸って、吸って、吸って。明日、鳴る。鳴る前に、僕らは準備を終える。
塩の風が一度だけ廊下を渡り、家のどこかの戸が小さく鳴った。誰も起きなかった。誰も起こさなかった。夜はそのまま、次の場面へ滑っていった。




