第7話 固定化の儀
朝のホームルームは、いつもより少しだけざわざわしていた。四月の空気は乾いていて、掲示板の画鋲の頭が光を跳ね返す。柊結衣が前に立ち、担任の代わりに進行する形で黒板脇の書見台にプリントの束を置いた。学級活動、と結衣は言った。配られた紙の上には、大きな活字で一行だけ問があった。
いちばん覚えていてほしい音は?
クラスの前から後ろへ、紙が滑っていく。僕の席にも一枚来て、シャープペンの芯を出しながら周りを見渡した。左隣の男子は部活のトランペットの音と書いた。前の席の女子は購買の焼きそばパンの袋の擦れる音と書いた。後ろの列の子は、チャイムの四音目が欠けるときの小さな歪み、と書いていた。こういうのは普通は白ける。けれど、今日は違った。半分遊びでも、半分本気で、みんなが考えている。音は自分にだけ聞こえる記憶だ。誰かに渡すには、言葉にするしかない。言葉にした瞬間、もう少し他人に近づく。
僕は短く、踏切の警報の最初の一拍、と書いた。線路の向こう側ではなく、こちら側で立ち止まるための音。書き終えて顔を上げると、結衣が列を回って集計していた。手つきは軽いのに、目は真剣だった。教室を出て行くとき、彼女は僕の机に目だけで合図を寄越した。放送室、すぐ。
休み時間の放送室は薄暗く、機材の電源ランプだけが点々と灯っている。結衣は配られた紙の束をミキサーの横に置き、手早く内容を読み取っていく。チャイムの欠けた四音目、体育館の床を踏むバスケットシューズの音、吹奏楽部の調律で鳴らすAの音、プラスチックのストローが紙パックに刺さる瞬間の乾いた音。たくさん。ばらばら。だけど、校舎の中に確かに漂っている音。
「時計の秒針の音、いくつか。図書室の本を閉じるときの空気の抜ける音、ひとつ。保健室のカーテンレールの継ぎ目の音、ふたつ。いいね」
結衣は笑い、サンプラーに短い音を次々と収録していく。持ち込んだ小さなマイクを窓辺に向け、風で鳴る校庭の旗の金具まで拾って、波音のサンプルと重ねていく。海の呼吸に校舎の息を足す。基音は礼拝堂の鐘。そこに校内の音を調合し、柔らかく溶かす。結衣の手は迷いなくフェーダーを動かし、周波を少しずつ削り、呑み込みやすい形に整える。
「儀式の手順は三つ。昼休み、各クラスで紙の花を折る。放送で海の呼吸と合成した鐘を流す。対象者が自分で眠気を選ぶのを待つ。自発的入眠。無理やりはだめ。自然に落ちる」
僕は頷き、ノートを開いてペンを走らせた。校舎の音を彼女の鐘にする。書いた文字を結衣に見せると、彼女は力強くうなずく。言葉にすると、約束になる。約束は、夢に対しても効く。
その合間にも、不知火が保健室から送ってきた条件書の条文が、頭の隅で無感情に点滅していた。三回以内。結果が出なければ、記録は破棄。痕跡は整理。昨日から、僕の名字の一部はもう剥がれている。けれど、整理されない何かがあると信じる方が、今日の僕には必要だった。
昼休みが近づくにつれ、空は薄く白くなり、光が床に広がった。校内放送のスイッチが入る。普段のチャイムは鳴らない。代わりに、微かに潮の味がする鐘が校内に満ちた。音は鐘の形をしているのに、どこかで紙の擦れる音が混じり、それがかえって柔らかさを増していた。
「新しいジングル?」と誰かが笑った。先生たちの中には眉をひそめる人もいたけれど、止める理由はない。放送の合図に合わせて、各クラスで白紙のプリントが配られる。折り方の指示はない。自由に折っていい。花の折り方を知っている子がいれば、それを見よう見まねで。折り方を知らなければ、好きな形で。意味のない折り目に見えても、手を動かすうちに自然と花の輪郭になる。誰かがひとつ折り終えると、次の誰かの折り目が少しうまくなる。手から手へ伝わるのは、形の記憶だ。
水城ひかりは席で目を閉じていた。額は上向き、手は机の上で紙を探し出し、自然に花を折る形になる。彼女の指は、思い出のリズムを覚えている。折り目が踏切の警報と同じテンポを刻み、角と角が合うたび、ほのかな緊張がほどけていく。僕は教室の後ろでそれを見ていた。呼吸の拍を合わせる。うなじに落ちる髪の細い影が、光の強さで濃くなったり薄くなったりする。ひかりの机まで歩いて行き、プリンの蓋をそっと置いた。あの銀色の、光太の字の跡がかすかに残った蓋。ひかりは目を開け、視線を落とし、驚き、小さく笑った。ほんの一瞬。笑ったという事実だけが、空気に残る。泣く役が受け止めた分、彼女が笑える権利が返ってきたみたいに思えた。
黒板の上に、結衣の字幕が現れた。三、二、一。カウントは短い。教室のあちこちで、机に額を預ける音が重なった。僕も同じ姿勢を取って、目を閉じた。眠気は自分で選ぶ。落ちるというより、沈む。沈む地点が分かっていれば、底に着く前に目的地に寄れる。
暗転のひと呼吸。耳の奥の圧がほどけた。
◇
落ちた先は、礼拝堂と図書館都市の合成空間だった。床には水が薄く張っていて、足音が波紋になる。天井からは鐘が吊られ、祭壇の上には台帳。周囲の壁面は棚で、背表紙は無地、側面に日付と糸。現実の礼拝堂よりも広く、現実の図書館よりも高い。空気は冷たくなく、音は硬くない。波の息を吸って、柱がゆっくりと吐く。そこで、編集者が立っていた。鐘守と司書が重なった姿。胸の前に白い鋏を二本、左右で揺らす。顔は塗られている。足取りは冷静すぎて、不気味さが薄い。怖いのではなく、困る。
「固定化など、厚塗りに過ぎない」
編集者は言った。声は、ここではないどこかの法令集から切り出されたみたいだった。
僕は口の動きだけで返す。厚塗りでいい。厚塗りは剥がれる。剥がれた跡は触れた証になる。唇が伝えるのは音ではなく、運動だ。運動は、意志を動かす。
儀式は、現実と夢の両側で進む。現実では、各クラスで紙の花が折られている。誰かの手の小さな息遣い、笑い声、紙の角を合わせるときの爪の音。合成の鐘が校舎の骨組みに広がり、海の呼吸が窓ガラスを柔らかく揺らす。夢では、管理人のひかりが祭壇の脇に立ち、台帳の「誕生日」の見出しに紙の花を挿していく。挿す瞬間、紙の先に温度が移る。紙は熱を持たないのに、ひかりの指から渡った熱で、花の形が一瞬だけ濃くなる。
僕は祭壇の前に進み、再び泣く役を背負った。喉は相変わらず無音で、肩だけが震える。震えが床の水に伝わって、波紋になる。波紋が広がると、台帳のページが湿った光を帯びた。水に濡れた紙は重くなる。重くなると、上段に持ち上げにくい。重さは、ここでは味方だ。
黒板の代わりに天井梁へ、結衣の字幕が連なった。固定化進行。感覚同期達成。味覚、触覚、聴覚。校舎で折られる花の紙の手触り、波音に混ぜた校内の音、プリンの蓋の金属の味。三つが重なって、ページの上の字がじわりと太る。太った字は、白い鋏の刃先を鈍らせる。
編集者は鋏を振り下ろした。刃は紙の角に触れ、音を立てずに滑る。今までなら、そこで切れていた。けれど、ページの端から光太の笑い声が立ち上がった。声は小さい。小さいのに、刃先の動きをわずかに遅くする。遅くなった瞬間、白の塗りが逆流した。塗られた白は、温度の前では長く持たない。塗り返せばいいという態度に、今日だけは歯止めがかかる。
鐘が二回目を鳴らそうとしたとき、合成の鐘が礼拝堂の空気の中でふっと止まった。止まった、というより留まった。空気は軽いから温いへ変わり、祭壇の近くの空気は人肌に近づいた。固定化の儀は、ここで一度、弾んだ。
祭壇の脇で、ひかりが囁いた。
「これで覚めたあと、私は私の誕生日を思い出せる?」
僕は頷いた。頷く瞬間、胸のどこかに薄い嫌な気配がした。代わりに自分の名前がさらに薄くなる予感。名前という線は、どこかで太らせれば、別のどこかで細くなる。天秤の皿を思い出す。皿の片方に紙の花を積む。もう片方に自分の席を置く。釣り合いは、今は、見ない。
「思い出せるよ。紙に書いて胸ポケットに入れておいて」
声は出ない。口だけ動かして言った。ひかりは分かったという顔で、見出しの余白に日付を記した。朱のスタンプと同じ色のペン先。押印の隣に、自分で書いた文字。管理人の手から、ひとりの人間の手へ。彼女の指はほんの少し震えたが、字はまっすぐだった。
編集者は刃を下げ、二歩だけ後退した。扉の向こうに、スーツの影がちらりと見える。不知火だ。行政は干渉を止め、結果を観察している。観察者の目は冷たいが、証拠を嫌わない。結果が出れば受け取る。結衣が字幕で合図を出す。戻る準備。現実へ。
◇
覚醒した校舎の昼休みは、いつもより静かだった。合成の鐘の余韻が、階段の踊り場で薄い青になって残っている。校庭に出ると、空は薄い群青。雲は細く、風は弱い。ひかりは胸ポケットに薄い紙片を入れ、僕の方へ視線を送った。何か言いたそうな顔。言葉にならない。
「あの、あなたは……」
そこまで。名前が出ない。喉が動いても、音が形にならない。けれど、彼女は机に花を一輪、残した。折り目の角がきっちりと合っていて、先端が少し丸い。ありがとう、と彼女は言った。記名なしで。名前のない礼は、今日だけは、重さを持った。
部分的覚醒は成立。礼拝堂の扉は閉まっていない。図書館都市の棚もまだ上段が空いている。けれど、代償は跳ねる。教室に戻ると、僕の席は正規の列から外されていた。隅に、新しく持ち込まれた予備の机。座面の裏に小さなテプラで「予備」と貼られている。出席番号欄は白紙。誰でも座れて、誰も座らない席。そこに、僕のカバンが移動されていた。クラスの誰かが親切でやったのかもしれないし、事務の誰かが空いた場所を使っただけかもしれない。どちらでも、事実は同じだ。
僕は予備席に座った。机の天板は少し弛んでいて、手のひらを置くとわずかにたわむ。隣では誰かが笑っていて、前では誰かがノートの端を破いていて、後ろでは誰かが眠っている。その音が、遠い。遠いのに、聞こえる。僕は自分の名前を心の中で一度、呼んだ。呼ぶたびに音が薄くなっていくのでは、と考えかけて、やめた。考えるのは次でいい。
結衣がタブレットを持って教室に入ってきた。先生に何かを預け、列の隙間を縫って僕の机の前まで来る。画面に手書きで僕の名前を太く書き直し、僕に見せる。そこにある字は、今のところ消えない。彼女は低く言った。
「次で仕上げよう」
頷く。頷く以外にやれることはない。仕上げるために、今日は厚塗りをしている。厚塗りは後で剥がれても、剥がれ跡が残る。跡は触った証拠。証拠があれば、行政は結果を受け取る。不知火は扉の向こうで黙っていたが、それはたぶん反対の沈黙ではない。
ホームルームの終わりごろ、ひかりの机の花びらが一枚、ほんのわずかに色づいて見えた。夕方の光のせいかもしれない。でも、朝にはなかった色だ。白に薄く桃色が差す。視覚の固定は遅い。今日いちにちの光の角度が紙に染みて、明日も同じ角度で色が立ち上がれば、固定は一段進む。僕はその花を横目で見ながら、深呼吸をした。胸の痛みは引かないが、呼吸のリズムは戻ってきている。
廊下に出ると、結衣が待っていた。今日の儀式で使ったサンプルの残りをチェックし、波音の位相を微調整する。彼女は機材のケースを背負い、僕に工具袋を渡す。重さはある。重さのあるものを手に持つと、名前が薄くなっていても、体の輪郭は保てる。
「次は踏切。味覚の同期を完成させる。あのプリンの約束の味を、線路の向こうで呼び起こす。覚醒テストは、そこでやる」
結衣の目は迷わない。迷いはあるはずなのに、表面に出ない。僕は頷き、予備席の背もたれに掛けていたカバンを取り上げた。肩に掛けると、ひとつだけ確かな位置ができた。肩の骨が重さを受ける。骨は、夢では溶けない。
教室の窓から見える校庭の隅で、昼に折った紙の花の鉢が、夕風に揺れていた。ひかりが残した花と同じ折り目。花弁の先が、一枚だけ色づいて、こちらを向いた。それはたぶん、僕たちの儀式が確かにこの校舎に触れた証だった。次で終わらせる。終わりにするというより、始まりを固定する。名前の線を、線路の手前で太くする。
僕は喉に手を当てた。声はまだ戻らない。戻らないなら、読む。読むために、声がいらないやり方はもう覚えた。代読者の仕事は、ひとりでは完成しない。読む相手がいて、聴く相手がいて、呼ばれる名前がある。踏切へ行けば、その全部が揃う。揃ったところで、あの日の赤が、もう一度だけ滲む。
夕日が校舎のガラスに歪んで、床に長い帯を描く。帯を踏んで、歩き出す。僕の席は予備席のままでも、足が向かう先はひとつだ。踏切の現場で味覚の同期を完成させ、覚醒テストへ。今日の厚塗りが乾き切る前に、次の一手を置く。置いた手は、剥がれても跡になる。跡で十分に、明日の朝は始められる。僕はそう思って、教室の扉を静かに閉めた。




