第6話 代読者
昼休み、図書館の一番奥。辞書の棚と地図帳の棚のあいだにある細い通路で、喉の奥が急に焼けるみたいに熱をもった。飲み込むたび、真ん中に置いた釘がこすれる音がする。昨日、踏切の部屋で泣いたときの負荷が残っているのだと分かっても、体は納得しない。水筒の水をひと口飲んで、もうひと口飲んでも、燃えた跡は消えなかった。
戻りのチャイムが近づく前に保健室へ行くと、不知火が待っていた。白衣は着ない。グレーのスーツのまま、カーテン越しの光を背にして立つ。柊結衣は壁際で腕を組み、事情を知っている顔で僕の喉を見た。
「次の周回、君は読み上げを担当してもいい」
不知火は紙をめくらずに言った。予め決めていた台詞を、目線を外して置くみたいに。
「だが、声帯損傷は夢でも現実でも反映される。記録の破棄は君の痛みをも消すが、結果も消える」
消す、ではなく消えると彼は言った。誰が消すわけでもない、と言い訳できる言い方。僕は唇を一度湿らせ、うなずいた。痛む。痛むけれど、「それでも読む」と声に出そうとして、掠れしか出なかった。痛みは声の重さと交換できる。なら、交換する。
結衣が一歩前に出た。
「読み上げは私の字幕で補助する。今日は言葉そのものを運ぶのが役目。音は出なくても、読み上げの意志を同期できるはず」
彼女は放送室の鍵をくるりと回し、ポケットの中で鳴らした。音が小さくても、合図は十分だった。
昼休みの終わり、僕らは放送室へ走った。結衣は電子黒板のケーブルをミキサーに挿し直し、校内回線と夢への補助回線を別にする。字幕の遅延補正は昨日より一段階上げると言って、フォントを太くし、縁取りを濃くした。彼女の指はいつもどおり速いのに、一つひとつの動きに迷いがない。
「代読者の宣言を、どう出すか決めよう」
結衣が言い、黒板に仮の文を打つ。
私は読む。持ち主の代わりに。痛みは私へ移る。
「短くて、嘘が入らない文。夢は宣言に弱い。宣言は、やりとりが少ないほど強い」
僕はうなずき、ポケットの内側で紙の欠片の位置を確かめた。舌先に触れれば、そこに味の記憶が戻ってくる。あさって用、と殴り書きの跡があるプリンの蓋。光太の字。僕の喉はまだ痛い。痛いなら、使えばいい。使うほど、次に進める。
チャイムが鳴り、テスト放送の合図が流れ、ノイズに混じる高周波が一瞬だけ空気を薄くした。落ちる手応えはすぐに来た。椅子の座面がすこし下がり、背もたれが遠のく。耳の中の水が、誰かの指先で揺さぶられた。
◇
落下先は、図書館だった。ただし学校の図書室ではない。棚は見上げるほど高く、天井に届く前にさらに梁があり、その上にも棚が積まれている。背表紙はすべて無地で、代わりに棚の側面に日付が刻まれていた。平成の最後の土曜日、最初に買った鉛筆をなくした日、とか、体育祭の朝の雲がちぎれた日、とか。刻まれた日付の下には、刺繍みたいに細い糸が絡んでいて、その日に「不要」と判断した記憶が、布に縫い付けられている。布は薄く、少し引けばほどけそうで、ほどけない。
司書台の向こう、白い手袋をした編集者が座っていた。胸の鋏は見えない。手袋の左右の指先だけが光を吸って、動けば動いただけ淡い影を作る。彼は糸をつまみ、鋏を使わずに、指の腹の白で糸を断ち切った。糸は驚くほど静かに切れて、そのまま上段へ送られる。上段。ここでも癖は変わらない。上へ。上へ。
階段の踊り場に、ひかりがいた。膝を抱え、額を膝の上に伏せている。制服の肩に細かい埃が降りて、すぐに消えた。ここは彼女の台帳だと直感した。棚の中央の机に、一冊だけ別格の台帳が置かれている。革の表紙には押印があり、「光太の誕生日」とあった。印のインクは朱で、少し滲んでいる。その台帳に近づこうと足を踏み出した瞬間、床に張られた糸が絡まり、僕の足首に巻きついた。引くと増える。ほどこうとすると、別の糸が手首に触れる。体を支える棚板の硬さだけが現実で、他は布と糸の海だ。
天井の梁に結衣の字幕が投影された。光が印画紙にしみ込むみたいに静かで、けれどはっきりと読める。
〈代読者の宣言を〉
〈読めば、持ち主の代わりに痛みが移る〉
読む。読まなければ、ここで動くものはない。読むとは、所有者の代わりに声を開くこと。代わりに開いた声に、痛みが移る。痛みは現実に持ち越される。分かっている。分かっているけれど、喉の奥はもう焼けているし、これ以上焼けるのなら、焼ける先を選びたい。
僕は中央の台帳の近くまで体を捻って進み、両手で角を持った。革は冷たく、乾いている。表紙を開くと、紙が息を吸って、空気が一度だけ膨らんだ。活字ではない。手書きだ。あの子の字と、母の字と、ひかりの字と、混ざっている。最初のページの一文目に、手を置いた。深呼吸をして、声が出ない喉で、唇だけで読み始めた。
声は、出ない。音にならない。けれど、言葉は通る。ページの行間が風になってめくれ、僕の胸骨を小さな拳で叩くように文字が入ってくる。読むと、読まれる。紙に書かれた夏が、胸いっぱいに広がる。
海沿いの夏、プリンはあさってに残すって約束。
踏切でお兄ちゃんは僕の手を強く握った。
赤い灯りが線路の向こうで滲んでいく。
読み進めるほど、喉に塩水がこみ上げた。涙は出ないのに、鼻腔の奥が痛い。痛いのは、向こうから来るものをまっすぐ受けた証拠だ。ページの端にあさってのプリンの絵が描かれている。チープな線で、丸が二つ。あさって用、と小さく書き添えてある。ページの角に、白い粉がこぼれた痕。砂。僕の舌は無意識に紙の欠片を探していた。味はある。甘くない甘さ。あれは夕方の約束の味だ。
編集者が苛立った。白い手袋の指先が台帳の角に触れ、鋏を使わずにページの角を切り取ろうとする。だが糸が固くなった。僕の唇の動きに合わせて、布の目が締まる。切断は進まない。糸は、読む者を守るためにあるのだと、そのとき知った。不要、という札は、言葉を尽くさないと貼れない。貼られた札を剥がすのも、言葉の役割だった。
踊り場のひかりが、顔だけ上げて僕を見た。膝の上の指がわずかに震える。
「読まないで」
弱い声だった。弱いのに、強かった。意味が重たかった。
「読まれると私のほうが軽くなる。それは、あなたが……」
軽くなるのは、彼女の側から痛みが離れていくこと。離れた痛みは読み手に移る。僕は首を横に振った。読み進めるしかない。ここで止まれば、白は上段を埋め直す。上段が埋まれば、下段は見えなくなる。
ページの底へ向かう。行は細くなり、字は幼くなる。鉛筆の芯をこぼしたみたいに、ところどころ黒い丸がある。そこには、はっきりと「おにいちゃんへ」とあった。光太の字だ。ゆっくりと、表紙の押印と同じ朱がページの隅に滲む。泣いていないのに、鼻が痛い。声を出そうとした。喉は音を拒んだ。掠れだけが漏れた。
結衣の字幕が追いかけてくる。梁の陰から、文字が僕の唇に合わせて現れた。
〈“おにいちゃん”は、君だ〉
それは僕に向けた言葉ではなく、ページの向こうの誰かに向けた言葉だった。だが、僕の胸を打つ速さで映ったので、僕の中にも入ってきた。僕は読み続けた。呼気だけで言葉を出す。音は出ない。出ないことが、かえって言葉を鮮明にする瞬間がある。音が付いた途端にこぼれるものが、音の手前で残る。
編集者が最後の手段に出た。棚の上段を丸ごと白く塗りつぶし、台帳ごと持ち上げようとする。白は一斉に広がり、糸を飲み込み、紙の角を鈍らせた。棚が軋む。上段は上段のまま、重たさを知らない。だが、読み終わったページは重かった。読まれた文は重さを得る。重さは上へ行きたがらない。
ひかりが立ち上がった。階段の踊り場から降りてきて、台帳の反対側の端を両手で押さえる。押さえる手は細く、でも、白に塗られない。管理人の手は、ここでだけ現実と同じ硬さを持つ。
「誕生日は、消さない」
ひかりが言った。宣言は短い。短いほど強い。僕は頷き、最後の章を一緒に読んだ。声は出ない。出ないけれど、読む。読むほど、梁の高窓から光が差す。粉塵が雪みたいに舞い落ち、白い粉のはずなのに、床に落ちる前に透明に変わる。編集者は椅子を静かに引き、不知火と同じ無表情で退いた。退く、という言葉だけが合っている。負けるでも、諦めるでもない。ただ退く。上段は埋め直せる。けれど今日のぶんは、ここに残る。
台帳の表紙を閉じたとき、喉がぐしゃぐしゃに潰れていることに気づいた。声を出そうとしても、空気だけがすべっていく。ひかりが僕の手を握った。冷たい指が、さっきの読まないでの意味をおろしていく。彼女はやさしい。やさしいのは、誰かが痛いということを自分の重さに足す行為だ。僕は握り返し、うなずくだけうなずいた。
◇
現実。保健室の白いカーテンが揺れて、結衣がのぞき込んだ。僕は喉から音が出ないことを示すみたいにくちびるを開いたが、息しか出ていないのは自分が一番よく分かっていた。結衣は急がない人なので、机の引き出しから小さなノートを出して渡してくれた。筆談で書く。
終わりは近い。
彼女は真顔で頷いた。頷き方に種類があって、これは決意のときのやつだ。
「次で決める。固定化の儀、校内全域でやる。音、文字、匂い、触覚、全部重ねる。私が放送で全域同期を取る。綾瀬くんは、読む。出なくても読む。名前は、誰かが読めば残る」
不知火は窓際で沈黙したまま、規定書のページを一つ閉じた。わざと音を立てないで閉じる人だ。紙は、音のしないときほど重い。
「個人の覚醒が社会の安定に寄与するなら、私は結果を受け取る」
彼は珍しく主語を私にした。それが彼の妥協の仕方だと、ようやく分かった。役所の人間が個人に降りてくる笑い方ではない。結果なら受け取る。過程は知らない。その線引きが、彼の仕事を成立させる。
だが、代償は進む。結衣がスマホを開いて眉をひそめた。昨日のやりとりが丸ごと消えていた。スレッドの冒頭には、新規メッセージはありませんとだけ表示されている。壁際の時計の下をクラスメイトが通り過ぎ、僕の肩に当たっても振り返らない。謝る代わりに、身体の輪郭が薄くなったみたいな顔をする。顔は見えるのに、名前だけが見えない。
保健室から廊下に出る。夕暮れが早い。窓ガラスに礼拝堂の尖塔が映り、尖塔の影が渡り廊下に梯子を描く。ラジオのボリュームが切られたみたいに、廊下の空気は無音だった。放送が流れているのに音がない。掲示板の隅に貼られた校内放送のスケジュールだけが、意味を持っている。次の放送。固定化の儀。校内全域。
喉を押さえ、深呼吸を試した。痛みは残っている。残っているけれど、さっき夢で受け取った痛みの輪郭は、意外と薄い。代読の痛みは、読む行為そのもので薄まる。読むほど、体の中に居場所ができる。居場所ができると、痛みはそこを住処にして、暴れない。暴れない痛みは、耐えられる。
図書室の前を通ると、昼に僕が立っていた通路に、誰かの置いた紙片が落ちていた。拾い上げると、あさって用のプリン券の端っこだった。切り取り線に沿ってぎざぎざの歯があって、指に触れると少し痛い。あさっては、来ない日だ。来ない日だと知っていて、あさって用に残す。残すという行為が、来ない日に意味を与える。意味があれば、あさっては来ないまま残る。
放送室に入る。結衣は電子黒板に大きく文字を出していた。全域同期のための宣言。彼女の字は癖がないが、息がある。読みやすいが、冷たくない。僕はその文字を目で追い、喉の奥で反芻した。
私は読む。持ち主の代わりに。痛みは私へ移る。
名前を呼ぶ。呼んだ名前は、残る。
礼拝堂の鐘はもう息を吸っている。三回、という時間の形は分かりやすいが、残酷でもある。数えることは、切りの良さを連れてくる。切りよく終わらせる技術は、現実を動かすとき役に立つ。それでも、切りよく終わらないものの方が、たぶん多い。だから代読者はいる。終わり方を、読んで渡すために。
結衣がマイクの前に立った。フェーダーの上に置いた指が、呼吸の拍に合わせて少しだけ上下する。彼女は僕を見た。目だけで合図をする。
行こう。
僕はうなずき、喉を押さえ、もう一度だけ大きく息を吸った。痛みはそこにある。あることを確認して、胸の中の扉をあける。扉の向こうは海沿いの夏で、踏切で握られた手で、赤い灯りが滲んでいく景色で、その全部に名前が付く。名前は軽い音ではない。呼ぶのに力がいる。力なら、まだ残っている。
夕暮れの廊下に、無音の放送が流れ始めた。音はないのに、誰かの視線が窓の外へ引かれる。影が梯子のように長く伸び、校舎全体に段差を作る。僕はその段を一段ずつ踏み、固定化の儀の準備に向かった。読むために、声がいらない夜に入るために。名前を置く台を運び、紙の花を鉢ごと抱え、礼拝堂の方角を見る。
息を吸って、吸って、吸って。一拍で、読む。声が出なくても、文は進む。進む文の上に、明日のためのあさってを置く。置いたあさっては、たぶん、もう消えない。そう信じるほかない夜へ。僕は代読者として、歩き出した。




