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Loop~君の悪夢を何度でもやり直す僕の話。  作者: 妙原奇天


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第5話 三回以内の約束

 朝、校門のアーチの影が、通学路の白線を少しだけ冷たくしていた。登校する列の端で足を止め、僕は不知火から渡された薄い封筒を取り出した。条件書、と印字された紙は青みがかった灰色で、光を吸う。読み返すほど、文字が体温を奪っていく。

 三回以内に対象の覚醒安定を実証できなければ、当該介入記録は破棄。君の痕跡も巻き戻しの副作用として整理される。

 整理、という言葉が嫌だった。消去でも削除でもなく、整える。整っていく過程で、僕という名札の角が丸くなり、やがて剥がれ落ちる。条件書の下部には、実務担当・不知火の署名。クセのない字が、何度見ても嫌いになれないほど整っている。

 保健室の前で待っていた結衣に、紙を手渡す。彼女は端だけ目で追って、要点を口にした。

「つまり、ここから先は最少回数で最大効果を出す必要がある。三回で終わらせる。できれば二回で」

「できれば一回で」

「うん。でも欲張ると、足をすくわれる」

 結衣の声は乾いている。乾いた声は、湿った場所でもよく響く。僕らは並んで放送室へ向かった。扉を開けると、昨日と同じ機材の匂いがした。アンプの針は静かで、フェーダーの溝に粉塵が薄く溜まっている。結衣は手際よく配置を変え、ミキサーの左端に小さなプレーヤーを追加した。

「メトロノームは使わない。今日は波音のサンプル。海の呼吸に合わせて同期を取る。四拍で吸って、一拍で伸ばす。泣く役、読む役、繋ぐ役の三つ、今日は“繋ぐ役”を最優先。泣くのは最後に回す。読むのは字幕の更新でやる」

「分担、了解」

「綾瀬くんは、これ持って」

 差し出されたのは透明な小袋。中に紙の欠片が入っている。見慣れた白。プリン券の切れ端を折って作った紙の花の残り。昨夜、礼拝堂の鐘からこぼれたときに拾ったやつだ。僕はそれを制服の内ポケットへ移し、さらに机の中に残していた欠片を加えた。肌身離さず、という言葉を、文字通りにする。

「味覚は記憶に強い。咥えていれば、波に剥がされにくい。やりすぎると窒息するから、そこは自分で配分」

「分かった」

 結衣は波音サンプルの再生テストをした。スピーカーからふっと潮の匂いが立ち上がった気がして、胸がゆるむ。彼女は針の位置を確かめ、校内放送の回線とは別のラインを用意する。

「眠りに落ちる合図は、校内放送のテストを装う。誰にも文句を言われない時間帯に、ほんの数秒だけ鐘の高周波を流す。聞き取れないやつ。夢の門を叩くだけ叩いて、開けるかどうかは私が判断する」

「叩きすぎないで」

「分かってる」

 結衣は微笑んだ。白衣の袖口をひと折りしながら、声を整える。僕は椅子に腰を下ろし、イヤホンを耳にねじ込んだ。こめかみにセンサーはつけない。今日は走るより、掴む日だ。波に合わせて呼吸を深くする。吸って、吸って、吸って、伸ばす。四拍の窓が胸の内側に生まれ、その窓がひかりのいる場所へ向かって開く。

 校内放送のチャイムが鳴る。テスト、と結衣の声が短く流れ、続いて、ほんの数秒の高周波。空気がわずかに薄くなる。誰にも気づかれないまま、僕は椅子ごと落ちた。

     ◇

 夢の床に触れる前に、冷たさが足を抱いた。腰まで水に浸かった教室。窓から差す光が水面で砕け、天井に揺れる模様を描く。教科書や連絡帳がページを閉じたり開いたりしながら漂い、黒板の文字は水面の揺らぎで細かい幾何学に崩れている。天井の隅からは点滴のように雨だれが落ち、その一滴ごとに何かが消える。自分の名前の最後の一画、朝聞いたニュースの固有名詞、昨日の体育で借りたゼッケンの番号。音もなく、忘れる、が起きる。

 窓側の壁際に、非常灯がついていた。赤が水中でゆらめく。踏切の赤と似ているが、ここでは漂っているだけで、遮断機のような意思はない。その赤の向こうで、ひかりが窓枠に立っていた。片手で上框につかまり、足場を探している。制服の裾が水に濡れて重く、髪の先から水滴が何本も落ちる。彼女は、泳がない。泳いだら崩れると知っているみたいに、立つ位置を計算している。

 黒板の前、腰まで水に浸かった床に影ができた。ダイバーの格好をした編集者が、こちらへ向かってくる。胸に白い圧力計。目は相変わらず塗りつぶされ、息の泡は見えない。手は素早く、間違えない。彼は両脇の棚から記憶の箱を拾い上げると、一定間隔で上段へ持ち上げた。上段が好きなのは、ここでも同じだ。棚は沈み、天井に近いほど白に近い。彼は白へ向けて、淡々と積む。

 息が浅くなるのを感じて、僕はポケットから紙の欠片を取り出した。ほんの少し、口に含む。紙の味。プリンの甘さは抜けていて、薄いインクと紙の繊維の味だけがする。舌に触れた瞬間、腹の底の呼吸が落ち着いた。味覚による記憶固定。結衣と保健室で試したときは半信半疑だったが、いまは信じるしかない。息継ぎのたびに舌で紙を押し、四拍のリズムを口の中で作る。

 水面に文字が浮いた。結衣の字幕だ。けれど、水の揺れが文字を裂く。反射した文字が上下逆になり、読み取るのに一拍ぶんの遅れが出る。目を細めると、ところどころ読めた。

〈呼吸は四拍で。三拍吸って、一拍で手を伸ばせ〉

 簡潔な指示。反論はない。僕は机と椅子を足場に、ひかりに近づく。重い木の感触が水を吸ってさらに重くなる。足が沈み、バランスが崩れそうになる。床下から吸い込む音。排水口が渦を作っている。渦は見えないのに、ふくらはぎを絡めとる。ひかりの方からも水が引く。彼女は窓枠にしがみつき、足で壁を探り、影のうすい部分に体重を分配している。

 編集者は胸の圧力計を見て、光を一段上げた。白いライトが教室の中央を切り、僕とひかりの間の水流が強くなる。手を伸ばしても届かない距離を、物理で作る。椅子の背もたれを蹴ると、たちまち反動が反対方向へ返ってくる。白の物理はクールで、厄介だ。

 僕はポケットからプリンの蓋を一枚取り出し、水面に滑らせた。銀の面が光を拾い、天井へ反射する。手首をひねって、左、右、中央。指先でサインを送る。三拍後に飛ぶ。ひかりは目を細め、ほんのわずか顎を引いた。理解の合図。言葉を張れば泡になる。手話に似たやり取りのほうが、ここでは早い。

 三拍、吸って、吸って、吸って。一拍で、伸ばす。机の天板に両手をつき、水しぶきを上げて飛ぶ。ひかりの手首が視界の端をよぎる。指は冷たい。掴んだ瞬間、皮膚の温度が伝わる。掴んだ、という実感が、掌の骨まで入ってくる。結衣の字幕が水面を切って現れた。

〈繋ぐ役、成立。上書き遅延〉

 文字は短く、必要なことだけを言う。ひかりの肩が震え、目の焦点が揺れた。彼女は僕の手を見て、次に僕の顔を見た。唇が動く。

「……あなたが覚えてくれるほど、現実で誰かが忘れるの」

 彼女の声は恐怖ではなかった。責任でできている声だった。管理人の声色。泣く役を引き受けた僕に、別の重みを渡そうとする。離せば楽だ。離さなければ、誰かの線が薄くなる。教室のどこかで、誰かの名前の一部が剥がれ落ちる。

 僕はそれでも離さず、口に含んでいた紙の花の欠片をひかりの手に握らせた。指を開かせ、掌の真ん中に置いて、包む。柔らかい。濡れているのに、崩れない。喉の奥で息をひとつ押し上げた。

「これは、光太の“あさって用”だ」

 言葉を短くする。説明は要らない。ひかりの瞳孔がわずかに開く。手の温度が上がる。掌の皮膚が紙に移る。紙の白が、彼女の体温で濃くなる。編集者の圧力計が乱れた。針がふらつき、白いライトが一瞬だけ弱まる。結衣の波音が同期を取り戻す。海の呼吸が教室の水面を揃え、二回目の鐘のうなりが遠のく。

 ひかりの指先が、僕の親指の付け根をとん、と叩いた。離すな、ではない。離せないね、でもない。次、と言っている。ここで止めるのではなく、次へ繋げる。僕は頷き、彼女の手首をもう一度握り直した。握り直すたびに、指の節が現実に近づく。現実の骨は、夢の水では溶けない。

 天井の角で、光が丸まった。海月の子どもみたいなものが浮かび、呼吸のたびにかすかに形を変える。ひかりはそれを見上げ、やっとのことで僕の名前を呼ぼうとした。最初の音で喉が止まり、次の音がわずかに漏れる。名前が声になりきる前に、白が視界の端を叩いた。

 戻る合図だった。

     ◇

 目が覚めると、昇降口の匂いが海に変わっていた。潮の薄い匂い。靴箱の埃の向こうに、波の音の記憶が混じっている。誰も気づかない。僕の鼻だけが覚えている。ポケットの内側がじんわりと湿っていて、指先に紙の繊維が残っていた。

 放課後、家に帰る。玄関の前で、表札に指を滑らせた。黒いプラスチックの板に白い文字。綾瀬。昨日までそこにあったはずの「瀬」の最後の部分が、剥がれ落ちていた。綾の右に小さな穴。綾〇。笑えない冗談みたいな表札。ポストには学校からの通知。封筒の宛名は、居住者各位。名前はない。家という単位に向けられた手紙。僕に向けられたものではない。

 玄関の内側で息を吐き、靴を脱ぐ。廊下の空気がわずかに軽く、部屋のドアの取っ手がいつもより冷たい。母の声は台所からしているのに、呼びかけは届かない。届いたとしても、僕の名前は途中で薄まる。返事をしても気づかれないことがある。今日がその日なのか、明日がそうなるのか。考えても、答えは出ない。

 スマホが震えた。結衣からのメッセージ。短い文に必要な情報だけが載っている。

 タイムリミット、残り二回。

 既読をつけると、すぐに追いメッセージが来た。放送室で作戦会議。今夜、二回目の鐘。波音のパターン変更、字幕のフォントを太く、コントラスト強め。味覚固定の代替案として、塩飴も用意。泣く役は保留。読む役は私。繋ぐ役は綾瀬くん。既に決まっていることを、もう一度決め直す。決め直すたびに、線は太くなる。

 夕方、学校へ戻る。校庭の隅に、いつの間にか小さな鉢が置かれていた。誰が置いたのか、名札はない。中には紙の花がいくつも挿してある。濡れた紙を乾かして、茎に緑の針金を巻いたやつ。ひとつ、風が吹くたびに首を振る。夕風の角度で、花びらが一枚だけ色づいて見える。白のはずの紙に、薄い桃色が滲む。夕焼けの色が紙に染みただけかもしれない。それでも、色は色だ。白一色の中に変化がある。

 僕は鉢の前にしゃがみ込み、その一枚を指で支えた。紙の端は硬く、指の腹に角が当たる。色は、風が止んでも消えない。視界の端で、体育館の天井が揺れた気がした。三回目の前触れではない。二回目の鐘が、現実の天井から滲み出す直前の揺れだ。時間は、もうほとんど残っていない。

 放送室のドアを開けると、結衣が機材に囲まれて座っていた。白衣の袖を肘までまくり、髪を高く結い直している。彼女は顔だけこちらに向け、手で合図した。早く座って、息を合わせて、落ちる準備をして。言葉は要らない。僕は頷き、イヤホンを耳に押し込み、背筋を伸ばした。

「綾瀬くん」

 結衣が呼ぶ。声は静かで、眼鏡の縁に少しだけ反射が走る。

「もし、次で声が出なくなったら、どうする」

「出なくなる?」

「泣く役と繋ぐ役を重ねた反動。喉が夢に持っていかれる。呼ぼうとしても音にならないことがある。今日、ひかりがそうだった」

 彼女はモニターを指で弾き、波形の一部を拡大した。ひかりの呼気に合わせて生じる小さな揺れ。呼ぼうとした名前の手前で、線が途切れている。名前が、声の形になりきれなかった証拠だ。

「そのときは、代読する」

「代読?」

「代読者になる。対象が出せない音を、代わりに出す役。ひかりが呼びたい名前を、ひかりの代わりに読む。夢の中の読み手。私は放送で補助できるけど、夢の中で口を開けるのは綾瀬くんだ」

 代読者、という言葉が、放送室の空気に静かに落ちる。読む役は、いつも誰かが引き受けてきた。黒板の文字を読む人。伝言を読む人。朝礼で作文を読む人。夢の中で名前を読むのは、初めてだ。名前は軽くない。軽くないものを、代わって背負うことになる。

「やる」

 答えは、迷う前に出た。決めないで落ちると、必ずどこかでためらう。ためらいは白に食べられる。決めてから落ちる。

「じゃあ、準備する」

 結衣はメトロノームのアプリを閉じ、波音のサンプルを選び直した。今度は浜ではなく、防波堤の音。規則的に打ち寄せて、規則的に返す音。四拍の窓を保ちながら、強弱をつけやすいリズム。字幕のフォントを太くし、縁取りを白から黒へ変える。水の中で読めるように。

「泣く役は最後。読む役は私が支える。繋ぐ役は、絶対に落とさない」

「了解」

 結衣がフェーダーに手をかけ、もう片方の手で合図を出す。三、二、一。テスト音。高周波の針が一瞬だけ振れ、空気の薄いところが校舎全体に網目を描く。網目の穴のひとつが、僕の足元にあらわれた。椅子の座面が少しだけ傾く。

 落ちる直前、窓の外で紙の花の鉢が風に揺れた。色づいた一枚が、夕焼けを抱く。紙の花は、当然、匂いを持たない。だけど、鼻の奥に塩の粒がかすかに触れた気がした。味覚の準備、嗅覚の準備、呼吸の準備。全部をポケットに入れて、僕はもう一度、夢へ向かった。

 約束は、三回以内。二回目で終わらせられるなら、それに越したことはない。終わらなくても、三回目のために線を残す。名前を読み上げる線。声が出なくなった喉の代わりに、誰かの名前をきちんとこの世で鳴らす線。代読者になると決めた喉は、もう震える準備を終えている。

 鐘は、遠くで息を吸っている。吸って、吸って、吸って。伸ばす。その合図は、現実と夢の境目で同じだ。僕は目を閉じて、四拍の窓の向こうにいる彼女の手首の温度を思い出した。冷たかったけれど、掴めば温かくなった。温かくなれば、白は濃くならない。濃くならなければ、塗り潰しは遅れる。遅らせた分だけ、読む時間が生まれる。

 波音が上がった。放送室の灯りが、少しだけ暗くなる。落ちる。落ちながら、声帯の位置を確かめる。声が出ないときの舌の動き。声が出るときの喉の開き。代読者の練習を、頭の中で何度もなぞる。

 三回以内の約束は、約束を守る者だけに与えられるわけじゃない。守ろうとする者のためにある。名前を呼ぶために、いま、この声が残っている。次に失うなら、使い切ってからにしたい。僕はそう思って、目を閉じた。

 扉の向こうで、鐘の息が止まり、鳴り始める。二打目へ。終わりではない。終わりに向かう途中で、名前を読むための頁をめくる音が、たしかにした。

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