第4話 鐘を盗む日、行政が現れる
夢は礼拝堂から始まった。磨かれないまま年だけ重ねた木の匂いが、胸の奥で古い咳を誘う。天井の梁は黒く、うすい埃が灯りに浮かぶ。吊られた鐘は表面に細い傷をいくつも持ち、内側には見慣れた白いものが見えた。紙の花だ。芯は手紙の重なりでできていて、折り目ごとに誰かの文字が覗く。海の音、あさっての予定、プリンの引換券、夏祭りの約束。僕はそれらを、いちど確かに見たことがある。
ロープの根元に、鐘守の影が立っていた。胸元で白い鋏が呼吸をする。編集者だ。司書服は礼拝堂用の黒いガウンに変わっても、白の持つ温度は同じだった。目は塗られたまま、手だけが現実と同じ速度で動く。彼は無言でロープを握り、腕をひと振りした。
一回目の鐘が鳴った。鐘の口から空気が押し出され、礼拝堂の中の時間がゆるく凹む。外から差し込む光が一拍遅れて揺れ、柱の影が床に波を描いた。耳の奥で結衣の字幕が遅延する。いつもなら声と同時に来るはずの文が、二拍、三拍、遅れて天井の板に浮く。僕は額の内側を冷やしながら、タイミングを取った。
「名簿、上段の誤配が出てる」
嘘の合言葉を、鐘守の耳元に落とす。編集者は反射で視線を上へ上げる。名簿棚などこの礼拝堂にはない。けれど彼の癖は場所に関係なく働く。視線が上、次に上段、その次に空きスペース。白い鋏がほんのわずかにロープから離れた。
その隙に、僕は柱の飾り板を足場にして梁に登った。木は乾ききっていて、触れると粉を指先に残す。梁は思った以上に太く、鐘を吊る金具は錆びているが頑丈だった。ピンが一本、抜けかけたまま固定されている。誰かが何度も試した痕があった。僕か、僕以外か。考えるのは後だ。
結衣の字幕が遅れて届く。天井の木目沿いに、薄墨の文字が走る。
〈二拍後に引け。三拍目で落とせ〉
鐘は、重い。だけど、重くないふりをすると落ちやすい。僕は片手でピンに触れ、もう一方の手で梁の角を掴んだ。深呼吸をひとつ。それから、タイミングを合わせて、一気に力を入れた。錆びたピンがわずかに軋み、抜けた。支えを失った鐘が、内側の紙の花ごと、鈍い音を溜め込んで落ちた。
轟音が礼拝堂の空気を割った。床が波打つ。鳴りやまない残響の中で、鐘の内側に詰められていた紙の花がほどけ、白い花片が雪みたいにあふれた。花は花のままではなく、薄い手紙の束だった。折り目のところでほどけ、文字がひらひらと舞う。拾い上げるまでもなく、僕の目はその一枚を読む。あさって用のプリン券と書かれた紙。手書きの字。切り離し線のギザギザが可笑しいほど真っ直ぐだ。
管理人のひかりが、扉の陰から出てきた。眼差しが震える。彼女は一歩、鐘に近づき、紙の花を両手で受け止めた。指先が白に沈まず、白の方が体温に形を合わせる。
「それ、光太の、あさって用のプリン券で作ったやつ」
言葉は震えていたのに、声の中心は真っ直ぐだった。ひかりの掌に乗った紙の花は、海から上がったばかりの貝殻みたいに温かくなった。僕はその上に自分の掌を重ねる。二人分の体温で白は濃くなる。塗り潰しは温度があるほど乗らない。編集者が一歩、後ずさった。白い鋏の先にまとわりついていた薄い霧がはがれ、刃が鈍い鉄に戻る。礼拝堂を流れていた白の逆流が起こり、壁の塗り潰しがじわりと剥がれた。
そのとき、重い蝶番がきしんで、礼拝堂の扉が開いた。差し込む外光は夢の光とは違い、冷たい温度を持っていた。扉口に、ネクタイの影が立つ。グレーのスーツ、光沢のない革靴、首から下げたカードホルダー。人物は扉を閉めもしないで一歩入ってきた。目は笑わず、手は動かさず、声だけが事務の手順を運ぶ。
「夢庁・編集課。不知火。違法救助の疑いがある」
名乗りは完璧で、感情はどこにも乗らない。彼は足元の紙の花を踏まずに、真っ直ぐこちらに向かってきた。管理人のひかりは僕の手からそっと離れ、礼拝堂の奥へと下がる。影の中に消えそうなほど静かに。
「未成年の無断潜行は処罰対象だ。管理人が協力した場合、管理責任も問われる」
不知火は白い鋏の揺れを一瞥しただけで、編集者そのものは見ていないように振る舞った。ここでは行政と編集は同じ側に立っているのだと、彼の無視の仕方が教える。
「あなたが覚えているほど、現実が壊れるから」
管理人のひかりが、引き戸の影で言った。僕に向けられた視線は痛いほど正確で、でも手のひらの温かさはまだ残っている。
「じゃあ、薄めればいいって言うのか」
思わず、声が喉から出た。鐘は二回目を鳴らし始める。時間は綺麗に等間隔で落ち、音の輪が礼拝堂の梁を渡っていく。不知火は一切の起伏を持たない声で続けた。
「編集は社会の安定のためにある。濃すぎる思い出は事故を招く。踏切で立ち尽くす人間、教室で時間を止める子ども、目覚めない家族。どれも、過濃な記憶の結果だ」
言い返す言葉は最初から決まっていた。考えるより先に、口が動いた。
「薄められた幸せは、幸せじゃない」
不知火の眉がほんのわずか、動いた。驚きでも怒りでもない。彼はカードホルダーに指をかけ、そこから薄い板を取り出した。光を持たない灰色の板。彼がそれを空気に向けると、礼拝堂の白がそこへ吸い込まれる。
「では、証明しなさい。三回以内に対象を安定覚醒させられるなら、特例救助を認める」
「三回以内」
「鐘は夢と現実の境界に鳴る。三回の間にやれることだけが、やってよいことだ。四回目は一方的にこちらが介入する。強制覚醒。以後、その対象への無断潜行は禁止」
不知火は事務的に告げると、灰色の板を指で弾いた。鐘の二打目が鳴りきる瞬間、僕の視界は白く跳ねた。礼拝堂の梁が遠ざかり、紙の花が紙でなく白い点に戻り、管理人のひかりの輪郭が薄くほどける。不知火のスーツの皺だけが鮮明で、それも直後に白に溶けた。
目が覚めた。机の木目が目の前にある。心臓の鼓動は礼拝堂の鐘とずれていて、耳の中ではまだ二回分の残響が渦を巻く。窓の外の空は白く、チャイムの予告音が廊下に漂っている。呼吸を整えて顔を上げると、教室はいつもの騒がしさだった。だけど、ひとつだけ違うものがある。掲示板に貼られた新しいポスターだ。
夢の衛生週間、と書いてあった。カラフルなイラストの真ん中に、眠っている顔のシルエット。下には、小さな文字で注意事項が並ぶ。過度な夢見の回避、睡眠習慣の見直し、相談窓口の案内。隅には連絡先と、小さく夢庁のロゴ。不知火のいた部署の名前が印刷されている。
保健室で待っていたのは、その不知火本人だった。白衣ではなく、朝と同じグレーのスーツ。柊結衣は壁際で腕を組み、いつもの白衣のまま彼を見ている。保健室のカーテンは半分引かれ、窓の光は薄い布越しに柔らかくなっていた。消毒液の匂いが鼻に残る。
「編集は社会の安定のためにある。濃すぎる思い出は事故を招く」
彼は繰り返した。廊下で靴音が止まり、遠ざかる足音と重なって、不知火の言葉は図書の読み上げみたいに聞こえた。僕は机の縁を握り、指先の汗で木目を濡らす。
「薄められた幸せは、幸せじゃない」
さっきの言葉をもう一度置く。結衣が顎を上げる。彼女の目は不知火をまっすぐ見ていた。怖がるより先に、構造を見抜く目だ。
「ならば証明しろ」
不知火の目が、ほんの少しだけ僕ではなく結衣をかすめた。彼女の白衣のポケットから、古いボールペンのクリップがのぞいている。
「三回以内に対象を安定覚醒させられるなら、特例救助を認める。形式は問わない。だが、他者への過剰な影響を避けること。強制覚醒の権限は常にこちらが持つ」
「条件はそれだけ?」
結衣が口を開いた。声はからりとしている。
「時間は」
「夕刻の鐘を基準とする。今日を一回目と見なす。次の夕刻までに二回目、その次が三回目。三度の鐘が満了するまでに、対象を安定させろ」
「対象は水城ひかり」
「現時点での管理対象は彼女だ」
不知火は机に薄いファイルを置いた。開くと、淡い青の紙に印字された文章が出てくる。項目は多いが、読む気になれない。僕の視線は気づけば保健室の壁にある鏡に向かっていた。そこに映る僕の顔は、少しだけ薄い。輪郭はあるのに、色が落ちている。結衣が指で机を二度叩いた。
「やってやろうじゃん」
彼女は短く言い、僕の方を見た。目で合図を送る。波は大丈夫、と言っている目だ。センサーは使える、字幕は届く、鐘は止められる。僕は頷いた。不知火は腕時計を見て、無機質な動きで立ち上がった。
「君の出席番号、確認しておけ」
意味のわからない一言を残し、不知火は保健室を出た。扉が閉まる音は静かで、だが扉の向こうの空気だけが冷えていくのがはっきりと伝わった。結衣が肩をすくめ、無言で保健室の窓から廊下を覗く。誰もいない。僕たちは職員室の名簿棚まで一緒に歩いた。
職員室は午後の光の中で紙の匂いが強く、複合機の唸りが床に薄い振動を走らせていた。名簿の棚は壁際にあり、クラスごとのファイルが並んでいる。僕たちは自分のクラスのファイルを取り出し、表紙をめくった。出席番号は、進行方向に沿って並んでいる。番号のところに名前がある。あるべき場所に、僕の名前はなかった。番号だけが飛んでいる。欠番、と薄いスタンプの文字。手書きではない。事務員の仕事でもない。印刷のように均一な、存在を消すためだけの赤い言葉。
胸の奥がぞっと冷えた。学生証の写真のぼやけは、個人的な現象だと思っていた。違う。出席番号が欠番になるということは、クラスの構造に僕の穴が開いているということだ。授業の点呼、試験の配布、提出物の回収。穴は現実の手順に波及する。
「やば」
結衣がひとこと言った。だけど声は落ち着いている。彼女はファイルを閉じ、僕の肩を叩いた。
「番号は私が持つ。点呼も、プリントも、配るときに間を空けさせない。放送で補助する。だから今は、とにかく鐘」
礼拝堂の鐘楼の影が、すでに校舎の廊下に伸び始めている。窓の外を見ると、夕焼けの角度が理科室の机をゆっくりとオレンジ色に塗っていた。体育館の天井から、微かな金属音がこぼれる。誰も揺らしていないのに鳴る。夢の音が現実の天井から滲み出す。三回の鐘は境界の合図で、今日は一回目がもう終わっている。二回目はこの後、三回目は明日。時間は短い。
「準備する」
結衣が言い、放送室へ小走りで向かう。僕はその背中を目で追い、昇降口のガラスに映る自分の影に目を落とした。影は確かに伸びている。けれど、影の濃さがところどころ薄い。名前が薄くなると、影も薄くなるのか。そんなバカな、と笑えない。
廊下を曲がると、管理人のひかりが壁にもたれて立っていた。制服の襟元に指を差し込み、少しだけ息を入れている。僕を見ると、ひかりは視線を外した。夢の中ほど冷たくはないが、目を合わせ続けるのが怖い、という表情だった。
「ひかり」
呼ぶと、彼女は短く返事をした。
「不知火が言ってた。三回以内に安定させたら、特例救助を認めるって」
「信じるの」
「信じなくていい。使うだけ使う」
ひかりは目を閉じた。まつ毛の影が頬に落ちる。一拍、二拍、呼吸の間隔を測るように目を閉じ、彼女は小さくうなずいた。
「鐘の中に、光太の紙を入れたの、私。あさって用のプリン券。あれ、もう期限切れだよ」
「期限は夢の中では更新できる」
「それ、嘘じゃない」
「嘘じゃない。でも、嘘でもある。使い方次第」
ひかりが目を開け、笑った。笑いはほんの少しだけで、すぐに消えた。
「忘れないで。あなたが覚えているほど、現実が壊れるから」
「覚えないで助けるのは、できない」
僕はそう言って、ポケットの中の紙の花を指先で確かめた。乾いている。けれど、触れれば温かくなる。礼拝堂の鐘の中からこぼれた花は、現実でも形を保っている。これを濃くすることが、こちら側の武器になる。白の逆流は温度に反応する。体温、音、手触り。僕は握った拳を一度だけ開き、指先を鳴らした。
夕方の校内放送が、いつもより少し遅れて流れた。結衣の声は落ち着いていた。注意喚起、部活動の連絡、明日の持ち物。普通の放送の中に、ほんのわずかなノイズが混じる。知っている人だけが気づく、薄い合図。窓の外で、礼拝堂の鐘楼の影が運動場の白線を跨いだ。体育館の天井から、一打、二打、三打目の準備のような金属音が、現実に滲み出す。
鐘は鳴る。境界は厚くない。特例救助のタイムリミットが始まる。僕は走り出す前の位置につき、結衣からの合図を待った。紙の花がポケットの内側で微かに鳴る。海の音を閉じ込めた目覚ましは、まだ鳴らさない。使うべきときに使う。鐘が三回鳴る前に、僕らは手を繋ぐ。鐘を止める。どちらもやる。やりながら考える。
職員室の名簿で欠番になった番号のすき間に、僕は自分の名前を指先でなぞった。紙には何も残らない。けれど、指に残る木の粉の感触が、確かに今を示す。薄くされた現実に、濃い線を引き直す。たとえその線が、行政にとっては乱れに見えたとしても。
体育館の天井から鳴る音が、はっきりと三度、空気を震わせた。三度目の残響はまだ遠い。けれど、その影はもう、僕たちの足元に来ている。次回、鐘を盗む本番。特例救助のタイムリミット戦だ。僕は息を整え、礼拝堂の方角を見た。影は伸び続け、夕焼けはその上に薄い金色を塗る。走る準備はできている。握るべき手は知っている。泣く役も、嘘の使い方も、もう怖くはない。あとは、鳴る前に届くだけだ。




