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Loop~君の悪夢を何度でもやり直す僕の話。  作者: 妙原奇天


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第3話 記憶の家と、泣く役を引き受ける

 最初に匂いが来た。畳と石鹸と、古い木の匂い。目を開けるより先に、それが鼻の奥に広がって、胸のどこか柔らかい場所を押した。次に耳に来たのは、廊下のきしみだった。誰も歩いていないのに、板が過去の人の体重を覚えているみたいに、かすかに鳴る。


 夢の舞台は学校ではなかった。灯りを落とした古い一軒家。玄関には丸いすりガラス、廊下は真っ直ぐ奥へ伸び、壁には写真が整然と貼られている。誕生日会のケーキ、遠足のバス、砂浜での家族の影。写真の端には透明の四角いコーナーが斜めに貼られていて、ところどころ白い修正液が塗られていた。塗られた場所だけ、笑っているはずの口角が消え、吹き出しのような空白が生まれている。


 靴を脱いだ覚えはないのに、裸足の足裏は畳の目を数え始めていた。指の間に、日差しで乾いた藺草のささくれが触れる。廊下を進むほど、写真の一枚一枚がこちらを振り向くみたいに、視線を投げてくる。僕は一度だけ振り返った。玄関の向こうに学校の昇降口はなかった。扉は薄く、やわらかい木の色をしていて、どこにでもある家の匂いをしていた。


「触らないで」


 廊下の突き当たりで、彼女が言った。振り向かなくても名前が分かる。水城ひかり。だけど、いつものひかりではない。制服ではなく、家の中の人間の服を着ている。グレーのカーディガン、白いTシャツ、膝の出たジャージ。髪はひとつにまとめられ、頬には薄い塗料の白が残っていた。彼女は壁の写真の列の前に立ち、腕を組んで僕を見た。眼差しは冷たいというより、冷やすための温度に調整されている感じがした。


「あなたの介入は、現実にほつれを作る」


 ひかりの言葉は、ここでは札みたいに効く。廊下の空気が少しひきしめられ、畳の目に影が落ちる。僕は一枚の写真の前で止まった。小さな男の子が、赤いバケツを持って海に向かっている。手前には女の子の背中。肩から下げたポシェットの紐に、紙で折った白い花が結わえてある。写真の右上、空の部分だけ白い修正液がはねていた。


「でも、ほつれをほどかないと、ここは全部まっ白になる」


 僕は正直に言った。嘘をはさむ余地はなかった。ここでは扉を開ける嘘もあるけれど、今は違う。ほつれは引き受けないと絡まる。絡まれば、白は広がるだけだ。廊下の奥の空気がほんの少し、柔らかくなる。ひかりは視線を写真から僕へ移した。


「あなたは誰のためにそれをするの」


「ひかりのために。たぶん僕自身のためにも」


「自分のため」


「自分の名札が薄くなっていくのを見てるから。通行許可証も、クラスのアイコンも。僕は僕のままでいたい。そのためには、ここがここである必要がある」


 言葉を重ねるほど、静けさの輪郭がはっきりした。ひかりは腕を解いた。管理人としてのひかり。夢の中で扉を開けたり閉めたりする役目のひかり。昼間の教室で眠そうに頬杖をついていた彼女とは別人のようで、でも同じ場所に重なっている。


「取引をしましょう」


 ひかりは言った。冷たい響きの中に、微かな疲れが混じっていた。


「今は学校ではなく家。家には部屋がある。あなたが開けたいのは、踏切の部屋。そこで泣く役をあなたが引き受けられるなら、扉を開ける。泣きたくないからじゃない。泣いたら壊れるから。わたしはここで立っていなきゃいけない」


「泣く役」


「夢の機能。泣く役を誰かが持つと、別の誰かが立っていられる。ここでは泣き声が重石になる」


 結衣が言っていた言葉が、耳の裏から顔を出す。字幕みたいに遅れてくる声。本当にあの放送が届いていたのか、それとも自分の頭が結衣の声を作っているのかは分からない。けれど、ここで必要なのは迷いのない一文字だ。


「引き受けるよ」


 ひかりは頷き、廊下の奥の襖に手を伸ばした。襖の縁に貼られたラベルに、細い字で「踏切」と書かれている。紙の端は触りすぎて柔らかくなっていた。彼女が襖を引くと、冷たい風が顔を撫でた。風の中に、金属の匂いと油の匂い。赤い光が繰り返し瞬き、部屋の床全体が警報灯の赤に染まっていた。


 踏切の部屋。畳は見えず、赤い点滅が染みになって広がっている。枕はプリンのパッケージで、硬いフィルムが波打っていた。カーテンは夏祭りの屋台ののぼりで、たこ焼きや金魚すくいのひらひらが風もないのに揺れている。壁には標識の十字。遮断機の斜めの黒と黄色が床を横切る影を落としていた。


 ひかりは部屋の真ん中で立ち止まった。足元の赤が、彼女の足首を染める。影は淡く、水たまりの上に立っているみたいだ。


「ここで泣くなら、今。編集者が来る」


 足音はなかった。けれど、扉の隙間から白い刃がゆっくりと差し込まれ、次に銀の鋏の片端が見えた。白い。塗った白ではなく、もともと白い材質が光っている。鋏は少しだけ開いたり閉じたりを繰り返し、空気の層を試すみたいな動きをした。閉じるたび、部屋の赤が一拍だけ暗くなる。鋏が狙うのは壁に貼られた細いラベルだった。筆圧の弱い字。光太の誕生日、と書いてある。


 ひかりの目がそこに釘付けになる。喉が動きかけて止まり、彼女の肩が細かく揺れた。


「泣いたら壊れる」


 自分に言い聞かせるような声。ひかりの目は乾いている。乾いているのに、部屋の湿度が上がっていくのが分かる。警報灯の赤が水の底の光みたいにゆらぎ、床の影が波になる。鋏がラベルの端に触れる。紙の繊維が一本、音を立てずにほどけていく。


 僕はひかりの横に立った。喉に指を添え、息を吸う。うまく泣けるかどうか、経験がない。泣くときの身体の使い方を、考えたことがない。でも、ここは夢だ。夢の機能として、それを引き受けることができるなら、方法はあとからついてくる。僕は黙って唇を噛み、喉を開放した。


 最初は音にならなかった。喉の奥に錆びた釘が一本刺さっているみたいで、息がそこでひっかかる。もう一度。腹の底から押し上げる。今度は釘が抜け、かわりに痛みが音になった。泣くというより、叫ぶに近い声。勝手に涙が出る。目の周りが熱くなり、鼻に潮の匂いが満ちる。僕はうまく言葉にできない声を、赤い床に投げた。投げるたび、床の赤が一瞬だけ薄くなり、鋏の動きが鈍る。


 天井に文字が滲んだ。にじむのに、はっきり読める。


〈泣く役は夢の機能。誰かが引き受ければ、別の誰かは立っていられる〉


 結衣の字に似ている。放送で見た黒板の字にも似ている。天井の木目に沿って文字が流れ、文字は警報の赤に照らされながらも消えず、次の一文を置いていく。


〈泣き声は上書きに重石をかける。白は重くなり、刃は鈍る〉


 編集者の足元が、赤の上でゆるく溶けた。足の輪郭が波の縁のように崩れ、白い刃先がラベルから離れる。鋏は一度だけ空を切り、次に、ゆっくりと閉じた。部屋の空気が少し楽になる。僕は涙と鼻水で呼吸を乱しながら、胸に手を当てた。中にあるのは、小さな紙の花だ。いつのまにか、こちらの手の中に戻ってきていた。湿っていて、でも形は崩れていない。


「光太」


 僕は紙の花を抱いて、名前を呼んだ。声はさっきより静かに出た。泣く役を続けながら、その隙間から言葉が出た。


「おかえり」


 海の音がした。海はここでは遠くにあるのに、耳のすぐそばにあるみたいに鮮明だった。波が何か小さいものを砂に返す音。微かな笑い声が、その波のリズムに混じって響いた。泣く声の奥で、笑い声がちゃんと聞こえる。笑い声のために泣くのは、少しだけ気持ちがいい。鋏は扉の向こうで目を伏せるみたいに角度を変え、白い刃が光を失った。


 ひかりが僕の肩に手を置いた。彼女の指は冷たく、塗料の粉がまだ残っていた。ひかりの目は乾いている。乾いているのに、潤って見える。


「ありがとう」


 彼女はそれだけ言って、踏切の部屋の赤をゆっくりと落としていった。遮断機の影が薄くなり、屋台ののぼりが布に戻る。プリンの蓋の枕は、透明なプラスチックの表面に小さな水滴を残していた。僕は涙で濡れた頬を袖で拭き、深く息を吐いた。泣く役は、たしかに重かった。けれど、重さの分だけ床板が耐えてくれた。


「約束どおり、扉は開けた。次はあなたが決めて」


 ひかりは小さく笑い、指で部屋の外を指した。廊下の先に、まだ開いていない襖がいくつも並んでいる。そこに薄い札が差さっていて、見えた瞬間に白く消えた。僕はうなずき、紙の花を胸に押し当てた。


「また来る」


「来なくてもいい。来られるなら来て。来られないときは、誰か別の手を探して」


 ひかりの声は、管理人の声だった。部屋の赤が最後のひとかけらまで沈むのを確認して、彼女は襖を閉めた。閉めきらない隙間から、海の音がひとつぶだけ漏れた。僕はそこで目を閉じた。足元の畳が、僕の体重を受け止める。廊下の写真の笑顔が、白の下から少しだけ戻ってくる。


 目を開けたとき、机の木目が目の前にあった。


 現実の教室。昼間の光。授業の合間のざわめき。机の上には、白いハンカチが一枚、きちんと畳まれて置かれている。端に、小さな塩の粒が乾いて光っていた。指で触ると、ザラッとした感触がある。ひかりがこちらを見る。眠たそうに目を上げて、ハンカチを見、それから僕を見る。


「置いた?」


「置いてない」


「じゃあ、誰が」


 ひかりは首を振った。覚えていないという顔。けれど、ハンカチの端を見つめる目の奥で、何かがうごめく。覚えたくないものを、覚えている目。僕は何も言わず、ハンカチを胸ポケットに入れた。そこには目覚ましのベルはない。ただ、布が肌に触れて冷たかった。


 放課後。昇降口で学生証をカバンから出した瞬間、違和感があった。顔写真が、ピンぼけになっている。輪郭はあるのに、目の位置が薄い。背景の色ははっきりしているのに、顔だけが霞んで見える。代償が視覚に来ている。焦れば焦るほど、写真の自分が遠くなる。


 放送室に行くと、結衣が機材のダイヤルをひとつずつ確かめていた。マイクのポップガードのゴムを直し、アンプの針の位置を目で追い、古いスイッチに一度だけ息を吹きかける。彼女は僕の顔を見るなり、学生証を取ってライトにかざした。


「焦点がずれてる」


「知ってる」


「鐘の音だ」


 結衣は椅子を引き、机に地図を広げた。学校周辺の簡易な地図。礼拝堂の絵が赤い丸で囲まれている。そこから伸びる線の先に、踏切がある。


「トリガーは鐘。三回鳴る前に、手を繋ぐか、鐘を止める。学校の鐘じゃない。礼拝堂の鐘楼の方。夕方の回数が増える日は、夢の白が広がりやすい。だから、止める」


「止めるって、どうやって」


「盗む」


 結衣は笑った。からかう笑いではない。作戦を立てるときの顔だ。彼女は手の甲で顎をさすって、地図の鐘楼の印をもう一度丸で囲んだ。


「鐘は大きい。まるごとは無理。だけど、鳴らす仕組みは止められる。紐を切るでも、輪に楔を打つでもいい。夢に入るトリガーを鈍らせる。鐘の音が弱くなれば、編集者の刃も鈍る。泣く役を次も引き受けるとしても、回数を稼ぎたい」


「三回鳴る前に、手を繋ぐっていうのは」


「それも有効。繋いでいる間は上書きが遅れる。だけど、ずっと繋いでいられるわけじゃない。現実の手汗は、夢の接着にはならない」


 結衣はペン先で地図の上をとん、と叩いた。彼女の指先は冷静で、声も整っていた。僕は学生証をもう一度見た。ぼやけた顔写真は戻らない。だけど、名前の印字はまだくっきりと残っている。綾瀬灯真。線は裸眼でも読める太さだ。


「鐘を止めるのは今日?」


「夕焼けが落ちる前。あの影が長く伸びる時間帯が、いちばん夢に近い。そこで仕掛ける。礼拝堂は開放日。誰も見てない塔の下までなら行ける。あとは、綾瀬くんの脚と、私の手」


「僕の脚?」


「走るの、速いでしょ」


 そう言われると、ちょっと速い気がしてくる。結衣は白衣のポケットから巻尺を取り出し、紐の長さを見積もり始めた。放送機材は片付けて、代わりに工具箱を並べる。ドライバー、ニッパー、養生テープ。学校の放送部は、案外なんでも持っている。


「泣く役は、どうだった」


 結衣はふいに尋ねた。ペンチの角を指で撫でながら、目だけこちらを見る。


「重かった。でも、立てた」


「誰が」


「ひかりが。あと、笑い声がした」


「誰の」


「ひかりの弟かもしれない。名前は、光太」


 口に出すと、名前は音になる。音になった名前は戻りやすい。結衣は頷き、メモに書いた。「光太」。小さい字で、二回。


「鐘を盗むのは、悪いことじゃない」


「知ってる」


「悪いことじゃないけど、見つかったら面倒。だから、走る」


「走る」


 結衣は笑い、工具箱の蓋を閉めた。窓の外ではもう夕日が傾き始めている。礼拝堂の尖塔の影が校庭に長く伸び、グラウンドの白線を黒く横切っていく。影の先で、風見鶏が一度だけ逆向きに回った。誰かが呼んでいる。誰かが止めてほしいと願っている。鐘は鳴るために存在するけれど、鳴らない時間があってもいい。


「行こう」


 僕は言った。胸ポケットのハンカチが、軽く呼吸したように揺れた。塩の粒が、夕日の角度に合わせて硬く光る。机の上に置いた紙の花は持たなかった。泣く役は今日一度やった。次は別の役を引き受ける番だ。紐を抜く役。刃を鈍らせる役。影を少しだけ短くする役。


 礼拝堂の鐘楼の影は、校舎の壁を這い、理科室の窓を通り抜け、渡り廊下の床に長い梯子を描いた。結衣はその梯子を踏むみたいに軽い足取りで進み、僕は半歩だけ後ろをついていく。彼女の白衣の裾が夕風に揺れ、放送部の古い鍵束が小さく鳴った。鍵の音が、鐘の音の練習に聞こえた。


 昇降口のドアを押し開けると、夕焼けは街全体を薄い金色に染めていた。遠くで、電車の音。踏切の警報は鳴っていない。今のうちに。鐘が三回鳴る前に。僕たちは礼拝堂へ向かって走り出した。足音はふたり分。地面は固く、影は長い。影の先に、塔の暗い口が開いている。そこに手を伸ばせば、届く気がした。届かなかったとしても、届こうとした軌跡は残る。名前の線を太くするみたいに。


 鐘楼の影は、夕焼けの角度に合わせてさらに長く伸びた。僕は息を吸い、速度を上げた。結衣の肩が並ぶ。彼女は笑っている。笑っているのに、目は真剣だ。落ちるための夢ではなく、止めるための現実へ。僕たちは同じ方向を見ていた。


 次回、鐘を盗む。

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