第26話 夢の底で、また会おう
朝の校舎は、まだ夢を引きずっていた。
風が廊下の奥を抜けるたび、床鳴りが呼吸のように響く。
予鈴の前、放送室から流れるのは、何もない一分間の無音だった。
誰も喋らない。誰の声も届かない。
けれど、その“無”の中で、確かに学校は音を立てていた。
椅子のきしみ。鉛筆の先がコツンと当たる小さな音。誰かが咳をする前の浅い息。
それらが全部合わさって、校舎そのものが鳴っていた。
Aの音も、合成の鐘もいらない。
今日の始まりは、学校自身の音で始まる。
講堂の扉が開く。
壇上には、仕分け人がいた。いつもの無地の制服。いつもの無表情。
ただし今日は、窓口を背にしていない。舞台の中央に立ち、両手を広げていた。
背後のスクリーンには、淡く光る文字が浮かぶ。
〈最終調律:ゼロへ〉
不知火が前に出る。腕章の色は薄群青。顔には徹夜の影。
それでも声はしっかりしていた。
「本校の支援課はここに宣言します」
マイクがないのに、声は広がった。
「“持ってていい権利”。“忘れなくていい期間”。“ありがとうを言わない権利”。
本校はゼロにしない。どんなに非効率でも、消えないままで続ける」
言葉のあと、体育館の壁がわずかにきしんだ。
その音が拍手のように聞こえた。
仕分け人は静かに首を傾げる。
「あなたたちは、痛みを保存しようとする。なぜ?」
不知火は少し笑って答える。
「保存じゃない。共有だよ」
「苦痛も?」
「苦痛も。誰かが触れて、誰かが残すなら、それでいい」
灯真は舞台袖にいた。
名札は空白のまま。もう誰にも呼ばれない。
けれど、呼ばれないことが、彼の役割だった。
彼はゆっくり歩き出し、黒板の前に立つ。
生徒手帳も、名前も、何も持たずに。
ただ手の甲の跡を撫でながら、そこにいた。
舞台の上に、それぞれが集まる。
ひかりは今日の箱を抱えて。
みのりは「休む自由」と書かれた札を胸に。
青木はAの音をチューナーで鳴らし、あえて外す。
結衣は放送卓からマイクを握り、字幕を出す。〈(無音)〉
仕分け人が窓口を開く。空気が波打つ。
「最終調律を行います。ゼロへ」
だが、その声に被さるように、誰かの歌が響いた。
みのりが小さく、音程を外した歌を口ずさんでいた。
続いて青木が、違うメロディを。
次に、廊下の方からも声が重なる。体育館裏、図書室、家庭科室。
生徒たちが同時に、違う歌を歌っていた。
旋律はばらばら。でも、不思議と喧嘩しない。
重なりの中で、空気がふるえる。
講堂の窓ガラスがうねり、黒板の粉が舞い上がる。
結衣がマイクを握り直す。
彼女は何も言わない。
ただ、フェーダーをすべて下げ、スイッチを切った。
音が消える。
だが、その無音の中で、確かに歌が生きている。
耳ではなく、胸の奥で聴く音。
仕分け人が言う。
「非効率です。世界はあなたたちを覚えられない」
不知火が応える。
「それでいい。覚えられないから、ここにいる」
灯真は黒板にチョークを持つ。
震える手で、点を一つ打つ。
その瞬間、ひかりが箱の中から紙片を取り出し、点の上に置いた。
〈( )好き〉
名は呼べない。だが、宛先はここにある。
その重なりを見て、講堂の空気が少しだけ温かくなる。
仕分け人はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと目を伏せた。
「……現場の勝ちです」
彼の背後の窓口が静かにたたまれ、光が舞台に流れ込む。
集配所は消え、支援課のシステムに一本の新しい回線が接続される。
〈全消去:撤回〉
〈最終調律:各自の調律〉
電光掲示がそう書き換わる。
誰も歓声を上げなかった。
ただ、ひとりひとりの呼吸が、同じ拍で続いていた。
授業は、そのまま再開された。
教師は点呼を取る。
名前を呼ばず、顔を見て頷くだけ。
空席にも、ちゃんと頷く。
それが“居る”の証明になった。
昼休み。
ひかりは花を一輪、廊下の空席に置いた。
白だった花びらが、ほんの少し色づいて見えた。
「ありがとう」
小さな声で言う。宛名はない。
けれど、その言葉は、確かに届いた。
放課後。
踏切の赤が点滅する。
金網の向こうを、少年が歩く。
振り向かない。
でも、手の甲の跡が夕日に反射して、一瞬、きらりと光った。
ひかりは木箱を胸に抱え、息を吸う。
「今日、保存」
それだけを呟く。
夜。
放送室。
結衣はひとりでマイクの前に座っていた。
ミキサーの電源を入れない。
ただ、無音の一分を流す。
誰にも届かないようで、きっとどこかで届いている。
その一分の中で、彼女は微笑んだ。
「これで、いい」
不知火は職員室のデスクに書類を積み上げ、最後にペンを取った。
「制度は遅い。なら、現場で先に守る」
一文を書き添え、窓を開ける。
夜風が吹き込み、黒板の粉が舞う。
そして、視聴覚室。
灯真はひとり、自分の箱を開けていた。
音は海の目覚まし。
においは塩風。
手触りは黒板の粉。
言葉は——空白。
彼はゆっくりふたを閉じ、手の甲の跡を指でなぞる。
少し痛い。
けれど、その痛みが「居る」の証拠だった。
校舎の明かりがひとつ、またひとつ消えていく。
世界が眠りに落ちる直前、ほんの短い夢のように、
誰かの声が聞こえた。
〈ぼくは君の夢で会う。何度でも。〉
画面が黒に落ちる。
白い字幕が流れる。
そして、静かな音が残る。
椅子のきしみ。
プリンのスプーンのコツ。
踏切のカン、カン、カン。
Aの音。
そして、無音。
その全部が、まだここにある。
誰かが思い出すたびに、少しずつ、また鳴る。
それでいい。
終わりは、始まりの音と似ているから。
——完。




