第二十五話 踏切に花
放課後の校門を出ると、風がひとの名前をひとつ抜き取っていくみたいに冷たかった。十一月に入った空の白さは、牛乳をひと口飲んだあとに残る薄い甘さに似ている。校舎の窓はどれも同じ形で、でも今日の窓は、朝の練習で残った粉をほんの少し抱えたまま、夕方の斜めの光を受けていた。黒板の雪は昼のうちに掃かれて、廊下の隅に寄っている。用務員さんはいつも完全には取りきらない。取りきらないほうが、帰り道がわかりやすいからだ。
ひかりは木箱を胸に抱え、うなずくとも首を傾げるともつかない角度で、校門から左へ曲がった。前髪を留める小さなピンは、あの事故のあと新しくしたものらしい。ピンの銀色が、夕方の赤を薄く跳ね返す。箱の中身はいつも通り。音、におい、手触り、言葉。重さは軽くも重くもなく、ゆっくり歩けば歩きに合わせて箱が胸の前でうなずく。ひかりは歩調を踏切のテンポに合わせる。まだ遠いのに、赤の点滅は心臓の裏側で予告を始めていた。
「風、冷たいね」
そう口に出して、ひかりは自分で笑った。誰も隣にいないのに、会話の形は自然と立つ。会話の影がひとつ、夕暮れの道におちる。影はひとり分なのに、返事をしたみたいに揺れた。たぶん風のせいだ。風のせいにできることは、風のせいにしておく。
踏切は町の縫い目だ。金網の向こうに商店街が透け、遠くのクリーニング店の看板はいつも洗い立てみたいに白い。アーケードの端にある花屋は、店主が花粉症なのにいつも笑顔だ。ひかりはベンチに木箱を置き、ふたを開ける。紙の花が一輪、落ち着いた白でそこにいる。薄い花びらの端に触れると、すこし冷たい。冷たさは指の腹ではなく爪の縁から入ってくる。冬の入口はいつもそこだ。
箱のふたの裏には、空白付きの紙片が貼られている。好き、とだけ書いて、宛名は空白のまま。初めてこれを書いた夜、手が震えた。震えた字は嫌いではない。震えているのに読める字は、がんばった跡がちゃんと見える字だ。がんばった跡は、他人に見せるとき恥ずかしいけれど、ひとりで持つぶんには心強い。
指先が土に触れた。道の土と、線路の土は手ざわりが違う。線路の土は小石が多く、爪の下にすぐ入り込む。冷たさは爪の縁から、音は指の骨から、においは袖口から、それぞれ体内に入る。ひかりは紙の花の茎を、枕木の間のわずかな隙間に探り入れた。木は古く、でも乾きすぎていない。雨を覚えている木の色だ。
遮断機が下りる。赤い点滅が、きょうはやけに一定に見える。一定は安心で、安心はときどき寂しい。ベルが鳴り始めた。カン、カン、カン、カン。四拍。何度も聴いてきたはずの音なのに、ひかりの喉の奥のほうで新しく鳴る。息の出口が少し狭くなって、胸のなかが少し温かくなる。
金網の向こうを、少年が歩いていた。細い背中。制服の肩の縫い目が、赤い点滅に照らされてほんの一瞬だけ浮き上がる。振り向かない。振り向かないけれど、手の甲が額の高さまで上がって、一点を空中に描いた。見えない黒板に点を打つみたいに、そこにひとつだけ座標を作る仕草。ひかりは息を詰め、思わず一歩踏み出した。踏み出してから、遮断機に気づく。足元で黄色と黒のしま模様が、ちょっとだけ笑っている気がした。笑っているのは自分の足かもしれない。
列車の気配は、遠くのほうで風になって現れる。風が先に来て、音が遅れてくる。先に来るものはだいたいやさしい。遅れてくるものはだいたい重い。ひかりは木箱からプリンの蓋を取り出し、赤い光にかざした。屋台のロゴの縁が、夕方の光で少し金色に見える。夏に食べられなかった甘さが、蓋から空気へ溶けていく。甘さは温度だ。言葉にできないものは、温度で覚える。
「……」
口を開き、空白を呼ぶ。名前ではない、宛名でもない、でも確かに誰かに向いた形。唇の形は、場に残る。誰にも聞こえなくても、形は残る。形が残れば、音はあとからでも追いつく。追いつくのに時間がかかっても、追いついた瞬間の温度は落ちない。そういうふうに、何度も練習した。
列車が来た。風圧が紙の花を倒しかけ、ひかりは慌てて両手で押さえる。指先に土と粉が混ざってつく。粉が汗を吸い、白が灰に変わる。顔に当たる風は塩の匂いを連れていて、海の目覚ましが遠くで一度だけ鳴った気がした。気のせいかもしれない。でも、気のせいを否定しすぎると、心が痩せる。ひかりは気のせいを、そのまま持つことにした。
列車が過ぎる。風の線がきれいにほどけて、空気が戻る。踏切のベルが鳴り止み、赤がまだ二回ほど点滅してから、遮断機が上がった。花は枕木の間に立っている。揺れは残っているけれど、倒れるほどではない。立っている花を見るのはいい。立っているものは、見ている側の背筋も勝手に伸ばす。
線路の向こうで、少年が一瞬だけ立ち止まった。そう見えただけかもしれない。振り向かない。振り向かないまま、もう一度だけ、額の高さに手の甲を上げて、点をひとつ描いた。夕方の光がその動きに薄く引っかかって、見えない点の輪郭が少しだけ見えた気がした。ひかりは涙で視界をにじませながら、同じ高さに点を描き返す。空気の中の点と点が、見えない線で結ばれる。線ができれば、地図になる。地図があれば、迷っても戻れる。
ひかりは箱のふたの裏から、空白付きの紙片をそっと剥がした。紙片は空気を吸って少し反り、手の中の温度でやわらかくなる。花の根もとに差し込むと、赤い残照を受けて薄桃色に見えた。薄桃色は頬の色に似ている。恥ずかしいときと嬉しいときで、同じ色が出る。ややこしいけれど、そこが人間のかわいいところだ。
背後で足音が砂利を踏んだ。静かに、でも確かに音が残る踏み方。不知火が少し離れて立ち、ひかりの背中に合わせて小さく礼をした。腕章の群青は夕方に溶けて、ただの布みたいに見える。彼はいつも通りの声で、いつもより少しだけ低く、言った。
「行ってよかったか」
ひかりは振り向いて、頷いた。頷くと目じりが温かくなる。笑うと涙がこぼれる。泣き笑いは忙しいが、忙しさは、きょうの分の生きている証だ。
「今日になった」
言いながら、手の甲で頬を拭った。粉が指に移って、指が白くなる。白い指は、夕方の色に強い。強い指で、紙の花の茎をもう一度押さえた。花は、ちゃんとそこにいる。
スマホが震えた。結衣からの短いメッセージが二つ届く。無音の一分、明日の朝も。ありがとうを言わない権利、今日も守れた。ひかりは画面に親指をそっと滑らせて、絵文字も句読点も使わずに、了解、とだけ打った。了解の字は角ばっていて、でも尻尾のところだけ丸い。丸い尻尾は、猫みたいで安心する。
「帰ろう」
不知火が言う。言うだけで、先を歩かない。並ぶ距離は変わらないのに、ひかりの歩幅はさっきより少し小さくなった。帰り道の歩幅はいつも小さくなる。小さくなるのは弱さではない。小さくするのは、持って帰るものが増えたからだ。箱の重さは行きよりも少しだけ増した。増した分だけ、中身が減っていない証拠だ。
校舎では、同じころ。視聴覚室の薄暗さは、放課後の定番メニューみたいに落ち着く味をしていた。カーテンは古く、ひっぱると少しだけ手に粉がつく。椅子はどれも微妙に高さが違って、選ぶときに毎回悩む。悩んで結局、昨日と同じ椅子に座る。それが灯真の習慣だった。
来校者名札の氏名欄は白いまま、点がいくつもの星座みたいに散っている。何座かはわからない。占いは当たらないほうが、きょうはいい。空白は空白として、点は点として、胸の上で揺れている。
灯真は自分の箱を開けた。音は海の目覚まし。箱を開けるたび、耳の奥で一度だけ小さなベルが鳴る。鳴るのは本当かもしれないし、記憶が鳴らしているだけかもしれない。どちらでもいい。においは塩風。窓を閉めきっていても、鼻の奥に潮の気配がやってくる。手触りは黒板の粉。指先に乗せると、汗を吸って灰になる。言葉の欄は、空白のまま。言葉だけは、箱に入らない。身体から離れない。離れないのは厄介だが、離れないものがひとつくらいないと、人間の形が崩れる。
灯真は手の甲に自分の人差し指を当て、点をひとつ描いた。爪の先で軽く押すと、皮膚が少し白くなり、遅れて血の色が戻る。痛い。痛いけれど、痛みは居るの合図だ。居るの合図を、今日ももらった。誰から、と聞かれたら困る。困るから、誰にも聞かれない場所で、灯真は点を増やす。点は増えるたびに軽くなり、軽くなるたびに確かになる。不思議だが、そうだ。
窓の外の渡り廊下に、チョークの粉がまだ少し舞っていた。掃除の終わった校舎の空気はすっきりしていて、でもすっきりしすぎない。残った粉が、今日がたしかにあったと知らせる。粉は記録ではない。記録にはならない。記録にしないままでいいから、粉は強い。
机の端に置いた来校者名札の角が、蛍光灯の光をひとつ受けてちかっと光った。光は小さく、しかしはっきりしている。はっきりしたものは、見失いにくい。見失いにくいものがひとつでもあると、夜は短くなる。
夜の短さは、人によっては悲しい。宿題が終わっていない人は特に。けれど灯真は、夜が短くなるほうを選ぶ。選ぶ権利は、支援課がずっと守ってきた。ありがとうを言わない権利と同じくらい、選ばないでいい権利と同じくらい。
スマホが震えた。画面に不知火からの連絡。仕分け人からの書簡の転送だった。文面は淡々として、しかし体温がないわけではない。むしろ、ないふりが上手い体温だった。
明朝、全校最終調律。同意なき保存は不可。
要するに、選べないものは全部ゼロにする。選べるならいい。選べないなら消す。論理は単純で、単純な論理はときに強い。強いものに対抗するには、面倒くさい方法が効く。面倒くさい方法は、練習してきた。毎朝の合図、無音の一分、歩幅の点、同時に違う歌。面倒くさいものは、習慣になるまでが勝負だ。習慣になったら、逆に強い。
灯真は返信を打たない。打たなくても、意味は届く。ミキサーの電源を切る、と結衣が送ってくるのが見えた。無音で迎える。短い言葉は、深く置ける。深く置ける言葉は、長持ちする。
視聴覚室の時計は、教室の時計よりいつも少し遅れている。遅れているのに、焦らせない。遅れているほうが、息が合うこともある。灯真は箱のふたを閉め、軽く二度叩いた。叩く音が、自分の鼓動の外側にひとつ、二つ、輪を作る。輪が広がって、壁に当たり、戻ってくる。戻ってきた輪は、さっきよりもやわらかい。
校門を出たひかりは、木箱を抱え直して、不知火と並んで歩いた。並んで歩く距離の中に、いつもより小さな笑いがいくつか落ちている。踏むと、靴底が小さく鳴る。鳴った音が、背中の筋肉に伝わって、肩の力が抜ける。抜けた肩は、明日の朝、もう一度入れ直せばいい。入れ直し方は知っている。
「明日の朝も、練習」
「ああ」
不知火は短く答え、前を見た。前を見るのが上手い人は、足元を見るのも上手い。足元に点があるかどうかは、明るさよりも習慣に左右される。習慣は、指で粉を弾く小さな音の回数で決まる。回数は三つ。三つで足りない日は、四つ鳴らす。四つ鳴らしたら、誰かが「多い」と笑う。笑う人がいるなら、それでいい。
家へ向かう角で、不知火は立ち止まり、小さく会釈して別れた。ひかりは木箱を抱え直し、もう一度だけ踏切のほうを振り返った。赤はもう消えていて、黄色が少し残光を広げている。残光は、今日の名残。名残は、悪くない。名残があるから、明日が今日の続きになる。
玄関のドアを開ける前に、ひかりは箱のふたをそっと叩いた。中の空気がわずかに動いて、プリンの甘いにおいが鼻の奥を一周していく。甘いにおいは、疲れの端をやさしく押す。押したところが、明日の朝には軽くなる。軽くなるなら、寝られる。
灯真は視聴覚室の電気を消し、ドアを静かに閉めた。閉める音は、きょうはほとんどしなかった。ほとんどしない音は、耳が喜ぶ。耳が喜ぶと、目が強くなる。目が強い夜は、あまり長くいらない。短い夜でいい。
廊下の端で、結衣が両手でミキサーの電源を確かめ、赤いテープの位置を親指でなぞった。無音の一分を明日の朝に置く準備。置く場所はもう決まっている。黒板の上。蛍光灯の脇。靴箱の上の紙の花の影。そのどれもが、無音を受け止める輪郭を持っている。
「無音で迎える」
彼女は誰にともなく言った。言葉が出てしまったのは、たぶん癖だ。癖は簡単には直らない。直らないままでいい癖もある。彼女の癖は、きょうは良いほうに出た。
夜の校舎は、静かに息をしている。息をしている校舎に、明日の朝、音がひとつずつ帰ってくる。帰ってくる音の前に、まず無音が敷かれる。無音は薄い布だ。布があれば、粉が落ち着く。粉が落ち着けば、点が見える。点が見えれば、名前がなくても居場所は作れる。
仕分け人の書簡の文末には、判を押すみたいな句点がきっちり打たれていた。きっちりした句点は、きっちりした朝を嫌う。嫌うなら、なおさらこちらの朝を整える必要がある。整えると言っても、きっちりではない。深呼吸三回、歩幅一往復、同時に違う歌、点をひとつ。やることは、いつも通り。いつも通りがいちばんむずかしくて、いちばん強い。
ひかりは寝る前に箱のふたを開け、花の茎の土をほんの少し整えた。指の腹についた土が、洗面所で水に溶けて、排水口の銀色に薄く残った。残った土は、朝になったら消えている。消えるものは、消える前に触っておく。触っておけば、消えても残る。矛盾みたいだが、ほんとうにそうだ。
灯真はベッドに横になり、手の甲の点にもう一度、そっと触れた。痛みは静かで、でもはっきりしている。はっきりしたものがひとつでもあるなら、眠れる。眠りに落ちる前、耳の奥で海の目覚ましが、確かに一度だけ鳴った。明日の朝、無音の一分の直前に、もう一度鳴るはずだ。鳴らないとしても、鳴ったことにする。鳴ったことにしてしまうくらいの強さが、いまの支援課にはある。
窓の外で、踏切の赤が最後にひとつ、目をひらいた。目はすぐ閉じ、夜は夜として、学校を包む。包まれた学校の心臓は、きのうよりすこし柔らかい拍を打っている。柔らかい拍は、固い朝にも負けない。
最終通告は届いた。明朝、最終調律。同意なき保存は不可。選べないなら全部ゼロ。それでも、こちらは準備を済ませてある。無音で迎える。粉で支える。点で座標を打つ。歩幅で場を固める。笑いで端を丸くする。くだらない小ネタで角を落とす。プリンの蓋を赤い光にかざし、紙の花の折り目をもう一折り増やす。
花は、踏切の枕木のあいだで、小さく揺れていた。揺れるたび、花びらが鳴る。鳴るたび、今日が明日に渡される。渡し方は覚えた。練習はした。あとは、やる。
次回、最終話。夢の底で、また会おう。




