第二十四話 朝の練習
予鈴の前に、校舎はいつもより静かだった。静か、という言葉は便利だが、きょうの静けさはただの無言ではない。音が一度、手のひらに集められて、数を確かめられてから、そっと机に戻された感じがする。空気の皺が伸びたみたいに、蛍光灯の白がやわらかい。
放送室の赤いランプは点かない。それでも全校に合図が落ちた。まず、無音の一分。砂時計を逆さにしても砂が降ってこない一分。次に、チョークの粉を指で弾く小さな音が三つ。ぱち、ぱち、ぱち。耳の中に小鳥が三羽、順番に飛び立つみたいな小ささ。結衣が決めた「朝の練習」の合図だった。
内容は簡単で、でもよく効く。深呼吸三回。吸う二拍、吐く二拍。廊下を歩幅に合わせて一往復。同時に違う歌を小さく口ずさむ。そして、点をひとつ、どこかに打つ。黒板でも、机の木目でも、床板の節でもいい。点は点だ。大きくても小さくても、点は点。
一年二組では、みのりが黒板の前に立って、腕を広げた。合唱の指揮みたいに手首でゆるく波を作りながら、声を張る。
「深呼吸、すー、はー」
教室の空気が「整う」より「重なる」に近い感じで動く。大きく吸った子の空気と、小さく吸った子の空気が机の足もとで少し混ざって、足首に涼しい触感を置いていった。合わせようとするより、重ねようとするほうが、この学校の朝には合っているらしい。窓の桟は冷たく、黒板の粉は白く、紙の花は折り目の角をひとつか二つ増やす。
体育館裏では青木が口に小さなチューナーをくわえ、Aの音を探しては外し、探しては外す。外すたびに本人が笑うから、外れた音がちょっと可愛く聞こえる。
「きょうはわざと最後に外します」
「いつも外れてるよ」
上級生に言われ、青木は耳たぶを赤くして、もう一度吹き、ちゃんと当ててから、みんなが廊下に出る直前、約束どおりにわざと外した。音がわずかにずれて、廊下の木が気持ちよさそうにきしんだ。ズレは生き物の証拠だ――この学校の生徒はもうそれを知り始めている。
かわいい小ネタは朝の練習の合間に勝手に生まれて、勝手に根づいた。図書室では紙の花の折り選手権がひっそり開かれて、勝者の花は空席の机に供えられる。出来栄えだけじゃなく、触ってきもちいいかどうか、鼻先に近づけたときに紙のにおいがちゃんとするかどうか――そういう評価がつく。家庭科室ではプリンのカラメル焦がしすぎ選手権が始まって、焦げたにおいが廊下をゆっくり移動する。焦げすぎはダメ、と掲示された横に、焦げすぎが好きな人のための小皿が用意される。細部のくだらなさは、コピーできない原本を濃くする。くだらなさを愛でる手つきが、学校に戻ってきたのだ。
私は来校者名札を胸に、廊下の柱に軽く背を当てた。名札の氏名欄に散らばる点は、もう数えられないほど増えている。粉みたいに見える日もあれば、雨上がりの空の粒みたいに見える日もある。名はない。けれど、点はある。点があるなら、きょうの分の居場所は作れる。
朝の練習が校舎を一巡し終えるころ、問題の気配が動き出した。整理パートナーズが持ち込んだ「コピー機の獣」が、こともなげに教室の隅で口を開ける。正体は自動要約掲示板――クラスごとの出来事をつるりとまとめ、感情のノイズを削り取るやつだ。吐き出された紙は端っこがきれいに揃っていて、角が立っている。見た目はいい。読めば早い。薄い。
「昨日の出来事:掃除分担/合唱練習/図書室静か」
黒板の端にちょこんと貼られた要約紙を、何人かが「便利」と言って写真に撮る。便利は便利だ。私も便利は好きだ。だけど、便利のあとには、だいたい何かが落ちる。落ちたものは軽くて、うっかりするとつま先で蹴ってしまう。蹴ると、遠くまで転がる。それを拾うのがいつも遅い。
私は要約紙の前に立ち、チョークで点をひとつ打つ。紙の上じゃない。黒板の木枠のささくれに、こつ、と、打つ。指にちいさなトゲが刺さった。痛みはおとなしく、でもはっきりしている。抜こうとすると、余計に奥に入っていく種類のトゲだ。私は抜かないことにした。そのままにしておくと、次にドアを開けるとき、トゲの存在を思い出す。忘れないが、痛みに引きずられもしない。ちょうどいい。
「要約、きれいすぎるね」
みのりが横に来て、要約紙の余白に自分の字を足した。休む自由、と手書き。指のあとでインクがほんのすこし伸びる。伸びたところが心地いい。青木は別のペンで「最初のミス」と書き、最後に顔文字を添えた。顔文字は少し古い型で、思わず笑ってしまう。掲示板は綺麗なまま、汚れを受け入れた。そういう掲示板なら、まだ学校に置いておける。
ひかりは朝の練習の締めに、自分の箱から紙片をひとつ取り出した。空白のまま、好き、の紙。彼女は日付の横にそれを貼る。空白は空白のまま。空白に向かって、彼女はそっと微笑む。それは誰にも宛てられていないのに、宛て先に届く。そういう笑いがある。
廊下を一往復。歩幅の点は、生徒が増えるほど柔らかくなった。最初の日は堅くて、足の裏が変にこそばゆかったけれど、いまは踏むほどに弾みが出る。私が踏むと、床が「よし」と言った。ほんとうにそう聞こえた。気のせいの可能性は高い。でも、気のせいは悪くない。
午前の中頃、コピー機の獣が本気を出した。要約の紙を空腹の鳥みたいに次々吐き出し、黒板の隅だけじゃ足りず、教室の掲示板や廊下の掲示板にまで、勝手にぺたぺた貼り始める。朝の練習さえ「呼吸三回/歩幅一往復」と箇条書きにして貼り出す。やった感はある。やった感はやばい。触れた証が削られる。削られたところはきれいで、きれいなところはすべる。
廊下の向こうで、不知火が立ち止まった。腕章の色が群青に近づいて見えるのは、蛍光灯のせいか気のせいか。彼は短く指示した。
「壊すな、詰まらせろ」
壊すな、は大事だ。詰まらせろ、も大事だ。結衣が放送室から合図を送る。無音の一分のごく短い版。生徒たちは廊下の床板の点へ歩幅を重ね、同時に違う歌をもう一度口ずさむ。きのうとは違う歌。きょうののどに合う歌。体育倉庫のドアが、遠くでひとつ、いい音で鳴る。粉が舞い、吸入口に入る。コピー機の獣は鼻を鳴らし、紙を半分だけ吐き出して止まった。プリンターの前で嘆く声がいくつか上がる。
「故障です」
整理パートナーズの担当者が眉間に皺を寄せ、薄い笑みをした。便利な笑い方だ。困っていないふりが上手い。
「予期せぬ物質を検知しました。衛生上の問題が」
「衛生上、ね」
教頭が横に立って、胸ポケットからハンカチを取り出し、コピー機の側面をとん、と叩いた。粉がふわっと舞って、教頭の袖口に白がつく。教頭はそれを払わずに、袖をまくった。
「教育上、きょうはこのままで」
担当者は言葉を選ぶあいだ、ほんの一秒、無言になった。無言の間に粉がさらに舞い、廊下の光に雪のように見えた。雪に見える粉は、だいたい気持ちを揺らす。揺れた気持ちは、動く。
可視化が必要だ、と誰かが言った。誰かが、は私かもしれないし、結衣かもしれない。ひかりが要約紙の横に、真っ白な写真を貼った。反転の儀式で作った、白に影を描いた一枚。白は始まり。要約が結果の紙なら、白はこれからやることのための紙だ。生徒たちが白の周囲に、小さな点や短い言葉を置き足していく。
「おなかすいた」
「眠い」
「今日」
「あとで泣く」
泣く、と書いた子は、隣の子に小突かれて笑った。泣くつもりだが、笑っておくのはタダだ。白い紙の上の文字は、うすくて、でも触ると指先にざらりと手応えがある。要約は触っても何も返さない。白は触れば触るほど、指に何かつく。
教室を出ると、家庭科室から焦げのにおいが流れてきた。焦がしすぎ選手権が盛り上がっている。焦げのにおいは、校舎の古い木の香りとよく合う。焦げすぎ派の皿のまわりだけ、人が多い。甘いものを焦がしたい気分の日はある。ある日のことを、学校の空気がちゃんと受け止めている。
私は職員玄関の外で、息を整えた。胸の空洞は広いが、風が通る。空洞に風が通る日は、空洞の存在が少し楽だ。楽、は空洞を消す言葉ではない。空洞をごまかさない言葉だ。名札の点はもう粉のように散って、名札自体がうすい雲みたいに見える。見えるだけだ。触ると、ちゃんと固い。固いところとやわらかいところが、順番に来る。
廊下の点は、増え続ける。踏んだ足から足へ、点は渡っていく。渡された点は、次の足で少し変わる。大きくなったり、浅くなったり、踵だけで踏まれて形が三日月になったり。違いは美術の授業の採点では役に立たないが、きょうの学校には効く。違いがあると、笑いがこぼれる。笑いは、粉の次に強い。
「きょう、放課後、踏切に花を置きに行く」
支援課の掲示板に、ひかりの字でメッセージが残った。丸い字。丸いが、芯がある。箱のふたの裏に軽く跡が残りそうな筆圧。
「今日のうちに」
不知火が頷き、結衣はミキサーの電源をオフにしながら「行ってらっしゃい」と短く言った。行ってらっしゃい、は便利な言葉だ。帰ってこい、の裏側だ。帰ってこい、とは言わないほうが帰ってくる。そういう日もある。
昼休み、コピー機の獣の前に列ができかけたが、列はできなかった。列はできなかったのに、要約紙は一枚、また一枚と貼られる。貼られた紙は剥がされず、周りに生の言葉と点が増えていく。汚れ、と担当者はまた言い、教育、と教頭はまた言った。言い合いではない。言葉の置き合いだ。置いた言葉の下に粉がある。粉があると、言葉は長持ちする。
午後の授業中、黒板の右下で小さな事件があった。要約紙の角が黒板消しの粉に負けて、ぺろんとめくれたのだ。誰かが指で押さえ、めくれたところに点を打って、そっと離す。紙は素直に戻り、角にだけ小さな白い山が残った。山は、午後の光で金色に見えた。黒板消しの粉が金色に見える瞬間は、日記に書くほどではないが、私には大事だ。
同時に違う歌は、午前より静かに広がった。廊下を歩くと、教室の内側から耳の端をくすぐる。鼻歌のような、ひとりごとのような、鼻の奥に響く音。だれかが外して、だれかが合わせて、合っていないのに合う。合わせようとすると外れる。外れたものを笑える人たちが、合わせ直す。合わせ直す時間が、学校には必要だ。それは、数学の授業の四十五分と同じくらい大切だ。
放課後、図書室の隅の棚に、最初の箱の列が少し伸びた。ひかりの箱は相変わらず角の丸い木で、指で撫でるとささくれが一本だけ残っていて、そこがいつも引っかかる。引っかかる場所は、地図のしるしみたいに安心する。みのりの箱は布の持ち手がついて、休む自由の札が中に立っている。青木の箱は金管の油のにおいがして、ふたの裏に小さく最初のミスと書かれている。字は震えているけれど、消えないインクで書かれている。
職員室の窓から見える空は、薄いブルーグレー。冷蔵庫から出した麦茶の色に似ている。紙コップの縁に水滴がついて、指先が少し濡れる。濡れた指でチョークを持つと、いつもより粉が多くつく。粉は多いほうが楽しい。掃除の時間が長引くけれど、掃除は、あのほうきの音のためにやっているのだ。
ひかりがメッセージの通り、廊下の端で待っていた。箱を大事そうに抱えて、細い息を吐いた。吐くと、肩がすこし下がる。肩が下がると、目の高さが変わる。目の高さが変わると、同じ廊下がいつもより長く見える。長い廊下を、私たちは歩く。歩きながら、ひかりは笑って、小声で言った。
「朝の練習、好き」
私は頷いた。頷くのは反則みたいに簡単で、でも反則ではない。簡単なのに、効く。効くから、うなずく。うなずくと、ひかりはもう一回だけ笑って、箱のふたを軽く叩いた。軽い音がした。木の鳴る音は、いい。
昇降口を出て、いつもの道を行く。踏切は遠くからでも赤い。赤は夏の終わりのトマトの皮の色に似ている。うまく剥けないやつ。剥こうとすると潰れる。潰れるけれど、味は濃い。味が濃いのはいいことだ。濃いものを薄めずに持っていくには、箱が要る。箱がなければ、舌に塩を一欠片のせる。舌は塩で我慢強くなる。塩気は、泣くときに助かる。
踏切の手前で、ひかりは立ち止まった。箱の中から紙の花を一輪取り出し、柵の向こうの、小さな支柱の根もとにそっと置く。置いたあとの指先が白い。白い指先を見て、彼女は笑う。その笑いは、朝の練習の合図みたいに短くて、しかし長く残る。赤い灯が点滅して、ゆっくりと列車が近づく。風が顔を撫で、髪を揺らし、紙の花の折り目をやさしく持ち上げた。花が小さく鳴った。紙の花は、ときどき鳴る。
列車が通り過ぎるあいだ、私たちは何も言わない。言わない代わりに、私は人差し指の腹でひかりの額の前の空気に点をひとつ描いた。ひかりが目を細めて、点の場所を目で追う。点は見えないが、そこにある。見えないものに、ちゃんと反応できる人は、案外少ない。ひかりはできる。
「また明日も、朝の練習」
彼女が言う。私は頷く。頷くほうが先に出る日が増えた。名は呼ばれない。呼べない。けれど、練習の合図は覚えた。無音の一分、粉の三つの音、深呼吸三回、歩幅一往復、同時に違う歌、点をひとつ。明日の朝も、粉は降る。粉が降れば、足跡がつく。足跡がつけば、帰り道ができる。帰り道ができれば、学校はまた学校になる。
空は淡い桃色を少し混ぜて、ゆっくりと灰へ寄っていく。踏切の赤は同じテンポで点滅し、しかし風の具合で明るさが揺れる。揺れはずっと続くのか、と考えかけて、やめた。揺れは続いていい。続く揺れの上に、私たちは毎朝同じ練習を重ねる。練習は退屈だ。退屈は、強い。
夜、放送室のランプが短く点いて、すぐ消えた。点いたのは点検のためで、消したのは結衣だ。彼女はミキサーのつまみに赤いテープを貼り直し、指をぱちんと鳴らして、自分の指先にだけ聞こえる合図を出した。放送部なのに無音を扱うのがうまくなりすぎて、たぶん困る日が来る。それでも、やる。うまくなったことは、使う。使って、また粉を落とす。
私は来校者名札の空白に、点をひとつ足した。今朝打った点よりも少しだけ小さくした。小さい点は、長持ちする。長持ちする点は、翌朝、最初の深呼吸のときにちょうどいい目印になる。目印があれば、朝は早すぎない。
校舎の窓という窓に、ほんの小さな水滴がついた。誰かが洗った雑巾のしずくが、風に運ばれてついたのだ。雑巾の水は、教室の匂いがする。チョークと紙と、体育館の床と、プリンの焦げ。それらが混ざった匂いは、説明できないのに、すぐわかる。わからせる力は、粉にある。粉は、きょうの勝ちだ。
廊下の片隅で、青木が口笛を吹いた。Aの音を、わざと外さないで吹いた。ちゃんと合った音は、夕方の校舎に似合う。すぐに誰かが別の歌をかぶせ、音はずれた。ずれたまま、夕焼けの端に吸い込まれていった。音は消えたが、足元の点は残る。残る点を踏んで、私は昇降口へ向かう。靴箱の上に置かれた紙の花が一輪、やさしく揺れて、午后の練習の終わりを告げた。
明日の朝も、粉が舞う。点が増える。きしみが鳴る。笑いが少しこぼれる。要約紙は多分まだ貼られていて、でもそのまわりに、今日の手ざわりが層になっていく。コピーの歯はそこでは滑る。滑らせておけばいい。滑って困るのは、滑りに慣れた人たちだ。
花を置きに行く、とひかりが言った。行ってらっしゃい、と結衣が言った。今日のうちに、と不知火が言った。私は頷いた。
次回、踏切に花。




