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Loop~君の悪夢を何度でもやり直す僕の話。  作者: 妙原奇天


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第二十三話 心臓部

 深夜の校舎は、音を飲み込む生き物になった。廊下は長い肋骨みたいにしなり、階段はきしむ腱になって、上へ下へと筋を引く。音楽室は胸の奥の肺で、古い譜面台が横隔膜の役目をしている。体育館は腹だ。広くて、空気がひやりとして、何かが鳴ればどんと受け止める。問題は、心臓がどこにあるかだ。


「出席簿です」


 仕分け人は、いつもの無地の制服の胸に手を置いて言った。胸、ではなく、脇に抱えた厚い簿冊のほうを軽く叩く。


「朝のはい、の連なりが、ここでは鼓動です。そこへ導線を引けばよい。自動で数え、欠席を減らし、点をそろえる。楽で、空洞。最適」


 最適、という言葉をこの場所で聞くのは、靴下の上から冷水をかけられるような妙な気分がした。冷たさは確かに下りてくるが、足が濡れた感じがしない。濡れないのに、冷たい。


「支援課、潜ります」


 不知火が短く言った。彼は制度の鍵を、結衣は無音の一分を、ひかりは今日の箱を、私は手の甲の跡を、それぞれ持っていた。どれも軽くて、どれも重かった。鍵は紙一枚分の重さなのに、たぶん机より重い。無音の一分は、持つと肩にじんとくる。箱は木のにおいがする。手の甲は、汗をかくほどでもないのに、ずっと熱い。


 舞台は、巨大な点呼室だった。円形の劇場みたいに席が段になって、その真ん中に、出席簿の心臓が置かれている。簿冊は人の背丈より高く、ページがめくられるたび、どくん、と低い音が床から立ち上がった。音は太いのに、どこかで砂をかむみたいなざらつきがある。古い黒板消しの粉が少し混じっているみたいだ。


 仕分け人は心臓の上に両手を置き、呼吸を合わせる人のように、目を閉じた。鼓動が規則正しくなる。校舎全体が、その拍に引き寄せられていく。階段のきしみが、足音のないメトロノームみたいに整っていく。不知火が前へ出た。


「編集ではなく支援へ。点呼を、居るの証明へ戻す」


 仕分け人は目を開ける。光のない目に、うっすらとページの白が映る。


「非効率」


 心臓が早鐘を打ちはじめる。ページがめくれるたびに、出席番号がゼロ列に並べ替わり、空席は空席のままゼロに吸い寄せられていく。空席も、ゼロ。いちばん楽で、いちばん空洞な整列。私は喉の奥が乾くのを感じた。水を飲んでも治らない種類の乾きだ。


 結衣が指を上げ、無音の一分を落とす。点呼室の音が、ふっと消えた。心臓の鼓動だけが残る。誰のものでもない学校の鼓動。太鼓ではない。揺り木だ。揺れはゆっくりで、でも確実に戻ってくる。無音の上に、ひかりが箱のふたを開けた。踏切のテンポが木の香りに混ざり、プリンの甘さが空気の角を丸くし、紙の花の折り目が、心臓の表皮にさらりと触れた。生き物の肌が触れられたときの、あのわずかなためらい。心臓はほんの少しだけ、速度を落とした。


 私は中央に歩み出た。声はまだ出ない。出ない代わりに、泣く役と読む役と繋ぐ役を同時にやる。息を吸う。泣く役は、音を出さない。喉の奥で震えを作る。その震えが、鼓動の谷間に薄い波を立てる。読む役は、出席簿の行間を目で追うこと。名前と名前の間にある細い白。呼ばれなかった名の空白は、紙の余白みたいに見えるが、見るほどに硬さが出る。硬いから、胸を通るときに当たる。痛い、というほどでもないのに、ずっと残る。


 繋ぐ役は、掌で黒板の粉をこすって、心臓に粉雪を降らせること。粉は軽い。軽いのに、鼓動の表面にひっかかる。コピー機のガラス面では滑ってしまう粉が、ここではひっかかる。粉は原本の雑音で、鼓動はそれを知っている。心臓は少しだけ、リズムを乱した。乱れは悪い音ではない。誰かが席を引く音、鉛筆の芯が折れる音、廊下で誰かが小走りになって止まる音。全部、校舎にいるひとの音だ。


 仕分け人が苛立ち、手袋を外した。指先が刃のように白く光る。彼はページの角をつまみ、切り落とそうとした。角が落ちれば、ページはめくりやすい。めくりやすいのは、だいたい危険だ。そこへ結衣の字幕が短く刺さる。


「同時に違う歌」


 点呼室の天井が、わずかに開いた。上には廊下があって、職員室があって、図書室がある。現実の校舎で、生徒たちがいっせいに違う歌を口ずさんだ。音はばらばらで、曲はそろわない。合唱の先生が見たら眉をしかめるかもしれない。だけど、場が立ち上がった。生活の音が、穴から流れ込む。心臓の表面に、その音がびしびし当たる。うるさい。だが、生きている。


 ひかりが前に出た。箱の中の紙片を取り出す。そこには空白がある。好き、の前に置いた空白。彼女はそれを心臓の上に置いた。空白は名ではない。座標だ。心臓が一拍、ためらった。ためらいは、殴られる前にまばたきをするみたいな、小さな自衛の動きだ。人間の体は、それをよくやる。学校の体も、やる。


 仕分け人は「非効率」を繰り返した。繰り返す声は冷たいままだが、言葉の芯が少しだけ湿って聞こえる。心臓は学校の歩幅に合わせはじめた。規則正しいが、不揃いを許す拍。右足と左足で歩幅が微妙に違う人でも、置いていかれない拍だ。


 不知火が鎮めの言葉を投げた。


「点呼は点呼として。そのうえで、点は各自に返す」


 心臓のページが止まり、白紙の見開きが現れた。私はチョークで点をひとつ打った。ここに居た。打った瞬間、粉が指に移り、心臓の表面に指の温度が食い込む。粉は小さいのに、存在感がしつこい。靴底についたまま家まで帰って、玄関のたたきにまだ残る。翌朝、掃除のときに気づく。面倒だ。面倒は、生きている証拠だ。


 仕分け人は、長く黙った。ページの縁に軽く手を置いたまま、目だけで天井の穴を見た。穴の向こうで、誰かの口笛が外れている。外れた音は、腹立たしいほど元気だ。


「現場の勝ちです。ですが、支払いは続きます」


 彼は窓口を畳み、点呼室の影へ消えた。足音は残らない。残らないのに、匂いがかすかに残る。インクの匂い。紙の匂い。それから、粉。粉はどこにでも移る。


 覚醒。朝のホームルームは、いつもよりゆっくりだった。担任は出席簿をめくる前に、顔を上げた。ひとりずつ顔を見る。目が合ったら、うなずく。名前を呼ばれない空席にも、ひとつ、うなずきが置かれた。誰もそれを笑わない。笑う理由が見つからない。むしろ、うなずかない理由が見つからない。


 黒板の端に、チョークで小さな追記ができた。クラス目標の下に、朝の練習という文字。それから、深呼吸三回、歩幅一列、無音の一分。書いた字は綺麗じゃない。綺麗じゃないけど、読める。読めるから十分だ。綺麗だけど読めない字より、ずっといい。


 点呼は遅い。遅いことに、誰も怒らない。遅いから、息が合う。遅いから、椅子の脚が床に触れる時間のばらつきが音楽になる。遅いから、粉が落ちる。粉が落ちるから、あとで用務員さんがほうきで集められる。ほうきの音は、学校の心臓が落ち着いている日の音だ。


 廊下へ出ると、掲示板に臨時の通達が貼られていた。整理パートナーズ、支援の看板を掲げた新しいキャンペーン。校舎内にコピー機の獣を放つ、とある。獣、と来た。紙とガラスとライトでできた獣。動物のくせに消毒液の匂いがする獣。あれは確かに獣だ。餌は、白紙と、ついでに思い出。


 不知火は紙を読み、額に手を当てて、笑った。笑い方が少し悪い。子どもが、かくれんぼの隠れ場所を見つけたときの笑いに似ている。


「練習に付き合ってもらおう」


 結衣が親指を立てた。みのりが横で「朝練だね」と笑い、青木が譜面を抱えたまま口笛でAの音を探しては外し、教師に小声で注意され、余計に外した。ひかりは箱のふたをそっと撫でて、「今日、保存」と小さく言った。その声は、誰の名前も呼ばなかった。呼ばないのに、届いた。


 私は来校者名札の空白に点をひとつ足した。空白に点を打つ作業は、ボールペンの芯を押し出す感触に似ている。最初のひと押しは重いが、いったん出れば素直に走る。走りすぎないように指で軽くブレーキをかける。止めるときは、紙の繊維を少しだけ感じるところでやめる。そこでやめると、インクがふくらまない。ふくらむと、あとで触ったときに手が汚れる。


 朝の光は、夏の終わりの麦茶みたいな色だった。冷蔵庫の奥から出してきたときの、うすい水滴がついたコップ。誰かが、今こそ一番おいしい温度にした、という顔で置いていく。ありがとう、と言う前に一口飲む。言わなくてもわかるときは、わざわざ言わない。それもマナーだ。言えないときの練習にもなる。


 点呼のあと、ひかりが空席の机に花を差し、ふたをそっと閉めた。箱の隅に昨日の粉が残っていて、彼女の指先が白くなる。指先を見て、彼女は笑った。粉がつくと、人は少し笑う。粉は、笑わせる。掃除のときは、ちょっと困らせる。困るから、笑う。笑うから、だいたい何とかなる。


 昼の放送で、結衣は無音の一分を挟んだ。ほんの少しだけ、最後に音を合わせた。Aの音は使わない。呼吸と、足音だ。足音は、合わせようとするとずれる。ずれるのに、なぜかそろう。そろう音を、心臓は覚える。覚えた心臓は、夜になっても、勝手に揺れている。


 放課後、点呼室のことを思い出す。あの白紙の見開きは、まだそこで待っている気がした。粉がゆっくり落ちて、足跡がついて、また誰かが消して、また誰かが打つ。消すと打つの往復運動で、ページはやわらかくなる。やわらかい紙は、破れやすいが、指にやさしい。やさしさは破れやすい。破れやすいものは、大抵、良い。


 帰る前に、体育館の裏の引き戸を、一度だけ開け閉めした。いいきしみが鳴った。音は一瞬、喉の奥の乾きをやわらげた。ひかりが横で笑って、私の袖をつまんだ。つまむ力は弱い。弱いのに、止める力がある。


「明日の朝、遅くてもいいから、ゆっくりうなずいて」


 私はうなずいた。うなずきは返事の中でいちばん静かな種類で、静かなのに、相手はだいたい満足する。うなずかれると、人は少し強くなる。強くなると、手を離せる。離せると、歩ける。歩けると、心臓が勝手にうれしくなる。


 空は早く暗くなっていく。踏切の赤がひとつ点いて、消えて、点いて、消える。テンポは少し揺れている。揺れているのに、待つ人の足は自然に合う。誰かが外しても、誰も怒らない。怒らないのに、ちゃんと渡れる。こういう拍は、学校に向いている。


 明日の朝、コピー機の獣が吠える。ガラスの上で花の粉が滑る。滑る粉を、校舎の床が拾う。拾った粉が、黒板の雪になる。雪が降れば、足跡がつく。足跡がつけば、帰り道ができる。帰り道ができれば、点は増える。点が増えれば、心臓は喜ぶ。心臓が喜べば、点呼は遅くなる。遅くなれば、うなずきが増える。うなずきが増えれば、朝は、少しだけ楽しくなる。


 楽、という言葉が、空洞のほうに寄らないように。楽の前に、手で触れるものを置く。粉、きしみ、箱、空白。どれもくたびれて、どれも元気だ。私は来校者名札の空白を撫で、点をひとつだけ足した。小さい点。小さいほど、長持ちする。長持ちする点は、朝練の合図に似ている。誰も聞いていないのに、みんなが知っている音。そんな音で、心臓を撫でに行く。


 夜更け、校舎がまた寝息を立てはじめる。廊下の肋骨はやわらかくなり、階段の腱はほどよく伸びる。音楽室の肺がかすかに鳴って、体育館の腹が空気を抱え込む。私は小さく息を吸って、吐く。吸って、吐く。吸って、吐く。そのたびに、出席簿の鼓動が、紙の厚みをひとひら拾って、また返す。拾って、返す。その往復の中に、私たちはいる。呼ばれない名の空席にも、ちゃんと拍が届く。届いた拍に、花が少しだけ揺れる。揺れた花は、明日の練習に備えて、箱のふたの裏で、そっと折り目を整えた。

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