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Loop~君の悪夢を何度でもやり直す僕の話。  作者: 妙原奇天


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第二十二話 支払い

 夜の集配所は、昼の顔を持たない。天井は低く、蛍光灯は薄く震え、ベルトコンベアの細かな振動が靴底から脛へ、脛から背骨へ、背骨から頭の奥へと、小さな波を送り続ける。空気が乾いているのに、紙の匂いは湿っていた。誰かがたくさんの手紙を一度に読んで、ため息を箱に閉じ込めたみたいな匂いだ。


 窓口の上には電光掲示があり、ふだんなら余裕のある明るさで文字が流れるのに、今夜は気持ち程度に暗い。読めなくはない。けれど、読む側の心に、少しだけ準備を求める明るさだった。そこに、短い文が出た。受付中。覚醒のつけ。個人で引き受ける手続き。


 仕分け人はいつもの無地の制服に、いつもの無地の顔で立っていた。彼は手元のスタンプ台に指を置いたまま、まばたきの間隔も変えずに言う。


「支援課の実験で、濃さの寄りが出ています。局所で約束が濃くなったぶん、別の場所が薄くなる。支払いを」


 不知火が一歩前に出た。靴の音は控えめだが、床がよく覚える音だった。彼は腕章を軽く整える。


「制度側で分け合う方法をつくる。持続できる仕組みに」


 仕分け人は首を横に振る。ゆっくり、だが迷いはない。


「それでは意味がありません。原本は、誰かの身体でしか担保できないので」


 原本、という言葉は今となっては教科書の用語ではない。校舎の床のきしみ、黒板の粉、紙の花の折り目。私たちは、手ざわりでその意味を知っている。


 私は来校者名札の氏名欄に浮かぶ点を親指でなぞり、手の甲の薄くなった名前の跡をもういちどたどった。声は出ない。かわりに、結衣が短い字幕を掲げる。条件を。


 仕分け人は、それなら、という調子で窓口の引き出しを開け、紙を一枚、音もなく出した。紙はずいぶん白く、角が鋭い。角を指で軽く弾くと、ほそい音が出た。


「簡潔です。あなたが受け持った覚醒の重さを、あなた自身の痕跡から差し引く。差し引いた分だけ、あなたは名指しされなくなる。学校で、外で、履歴の上で。ただ居る。その状態に整えます」


 ひかりが短く息を飲む音がした。胸に抱えた箱の中で、紙の花が小さく擦れ、薄い音が箱の板に吸われる。彼女はゆっくり口を開いた。


「好き……は言う。空白のままでも、言う。だから」


 そこで言葉は折れた。宛名は呼べない。呼べないけれど、言葉はすでにここにある。私はうなずき、仕分け人の差し出した申請書の署名欄に、ペンで点を打った。名のかわりに点。点の丸みは、震えた手にもわかるくらい不格好だったが、丸は丸だ。


 仕分け人は受理印を静かに下ろす。スタンプの出来はやたらと整っている。点の上に受の字。意味がよくわからないのに、妙に胸に残る組み合わせだ。印の赤は少し乾いていて、紙が軽く鳴った。


「では、支払いの儀式を始めます」


 手順は三つ。数字で数えたくない夜なので、ことばにする。まず、泣く役。それから、読む役。最後に、つなぐ役。ひとつめとふたつめは、もう何度もやってきたことだ。最後のひとつは、やっているようで、まだやっていない。場へ返す、という言い方になる。


 まず、泣く役。礼拝堂の鐘は鳴らない。代わりに、結衣がミキサーの電源を完全に落とし、目を閉じて私の背にそっと手を置いた。冷たくも熱くもない手。そこにあるだけの手。無音というより、音を入れない一分が始まる。


 私は泣き声を出さない。泣き声は音の仲間で、音は場を揺らす。今は揺らさない方が、揺れが深く届く。肩だけがゆっくり上がって、ゆっくり下がる。背中の奥で古い砂の粒がころりと転がる。胸の中で、踏切の赤が点滅する。手の甲の名前の跡が、じわり、と熱をもった。


 ひかりは箱を抱きしめ、爪先で木の縁を押さえた。小さなささくれが指に食い込む。痛い。だが、その痛みは慰めのほうに寄る。痛いから、持てる。持てるから、落とさない。落とさないから、ゆっくりと軽くなる。


 つぎに、読む役。台帳は厚く、紙は薄い。ページをめくると、空気が少しだけ甘くなる。甘いといっても、お菓子の甘さではない。夏の海の前の日の、冷蔵庫から出した器の口の匂いに似ている。「光太の誕生日」と押された台帳を開く。私は唇だけで文字をなぞる。音にしない読み方は、読むこちらの身体に遠慮がない。文字は胸骨をくすぐらず、叩く。まっすぐ叩く。叩かれた場所から、ささくれた昔の光景がじわりと滲んでくる。踏切の赤。手のひらの汗。「あさって」の味。すべてが音にならないまま、胸の底で形を持つ。


 仕分け人は初めて目を細めた。彼に表情があるのだと、ここでわかる。いつもと同じ顔のはずなのに、まぶたの開き具合が、わずかにちがう。彼は書類に短く線を引き、受け取りました、と言った。役所のことばに似ているのに、今夜は、まったく冷たく聞こえない。


 さいごに、つなぐ役。返す先は、校舎。だから、ここで完結しない。ここから持って帰る。私はひかりの箱から紙の花を受け取り、ローラーの上に、そっと擦りつけた。粉が舞った。ローラーの黒に白がひとひらついて、ベルトの音がほんの少しだけ鈍る。結衣が小さく笑う。


「こういうの、好き」


 好き、の重さは軽いのに、場に残る。用務員さんがいれば、たぶん苦笑して、あとでちゃんと掃除してくれる。掃除をする手があるのは、学校のいいところだ。


 不知火は腕章をもういちど正し、仕分け人の目をまっすぐ見た。


「個が払って、場の負担が減るのなら、制度で持ち運べる形に拡張できる。責任も含めて」


「検討します」


 仕分け人の声は変わらない。ただ、彼の視線の置きどころが、さっきより少しだけ遠くなった。遠くを見ているふりをして、近くの誰かを見るときの距離だ。


 儀式が終わると、電光掲示の文字がふっと切り替わった。支払い済。胸の中にも、同じ文字が出た気がした。来校者名札の氏名欄では、点がふたつ分、にじんで、紙の繊維におやつを吸われたみたいにやわらかく消えていく。胸の空洞は、痛くない。痛まないことが、代わりに痛かった。


 帰り道、昇降口に入る前の風が、靴ひもをひとこすりした。ひかりが立ち止まり、私の袖をつまむ。袖をつまむ指は冷たくなく、温かくもない。そこにあるだけ、の指。


「ありがとうを言いたいのに、誰に言えばいいかわからないとき、どうすればいいの」


 私は黒板に点を打つときの力加減を思い出しながら、ひかりの額の前の空気に、そっと点を描いた。指先の粉が、空気の中に小さな輪郭をつくる。宛先のない、ありがとうの置き場所。ひかりは少し顔を上げ、そのまま涙を落とした。涙は粉をぬらし、額の前に見えない円をつくった。見えないのに、ある。あるのに、軽い。軽いのに、消えない。


 校舎を出ると、夜のにおいが少しだけ塩っぽかった。海は遠いのに、鼻の奥が海を思い出す。遠くの交差点で信号が切り替わる音がして、街路樹の葉が一枚だけ表を見せた。風の向きが変わる瞬間の、ちいさな「よいしょ」が聞こえた気がした。誰の声だろう。きっと、誰のでもない。


 その夜のうちに、支援課に書簡が届いた。封筒は厚手で、角がつぶれていない。手に持つと、ちゃんと重い。仕分け人から。心臓の調子が悪い。全消しの準備に入る、と短く書いてある。心臓、と聞くと、胸に手を当てる人が多いけれど、学校の心臓はもう少し大きくて、場所がはっきりしない。体育館の梁かもしれないし、昇降口の砂落としの網かもしれないし、音楽室のドアノブかもしれない。


「行く。学校という獣の心臓へ」


 不知火が顔を上げたとき、蛍光灯の光が眼鏡の端で跳ねた。彼の声は普段より低く、よく通った。獣、という言い方は、学校に失礼じゃないか、と一瞬思ったが、すぐに納得した。体温があるという意味では、言い方として近い。獣の心臓を怖がらずに撫でる練習は、ここまでの全部でやってきた。


 結衣は親指を立てた。ひかりは箱を抱きしめ、ふたの縁に頬を寄せた。箱の板は冷たいが、ほんの少しだけ、持ち主の温度を覚えている。私も来校者名札の空白を指でなぞり、目を閉じて歩幅を合わせた。歩幅は、場の音と仲良くなる一番やさしい方法だ。歩きながら、体育倉庫の扉を思い出す。あの、よくできたきしみは、学校のどの音より、ほんとうに学校の音だった。


 集配所の外へ出ると、用務員さんが倉庫の鍵を回していた。こんな時間に、と目で尋ねると、彼は肩をすくめて笑った。


「夜のうちに油をさすと、朝いちばんの音がちょうどよく鳴るんだよ。昼にやると、静かになりすぎる」


「きしみが必要です」


 不知火が言うと、用務員さんはうん、と短くうなずいた。


「あれは、壊れてるんじゃない。働いてる音だよ」


 働いてる音、という言い方が、妙に胸に残った。きれいすぎる音は、たぶん働いていない。働いていない音は、場の骨にならない。コピーには、おおむね骨がない。


 帰り道、犬が門のところで丸くなっていた。尻尾が「おかえり」のテンポで地面を叩く。犬は匂いで覚える。私は笑って、頭を撫でた。毛が指の間をすべっていく。鼻先が私の掌の粉を嗅いで、くしゃみを一回だけした。ごめん、と言ったら、犬は全力で尻尾を振った。くしゃみは嫌いじゃないらしい。


 翌朝のことを考える。結衣はまた、無音のいちばんを置くだろう。最後に、すこしだけ音を揃える。黒板に点をひとつ、空席に花をひとつ、踏切のテンポを四つ。名は呼ばれない。呼ばれない名のために、居場所だけを用意する。用意して、そこに座れるようにしておく。それだけでも、場の呼吸は変わる。


 私は自分の箱を開けた。音は海の目覚まし。においは塩の風。手ざわりは黒板の粉。言葉の欄は空白のまま。空白は今日も空白でいい。私は手の甲の名前の跡を、もう一度なぞる。なぞるたびに、小さな電気が跳ねる。痛みが小さすぎるとき、人はそれを痛みと認めないことがある。でも、ここにある。それで、じゅうぶんだ。


 窓を開けると、桟が少し冷たい。指で冷たさを測って、頭の中で覚える。この冷たさは、朝の印だ。印は、呼び名を持たない。持たないけれど、役目ははっきりしている。そこを触れば、今日に来られる。


 廊下の端では、黒板の雪がまだ少し積もっていた。足でふわりと踏むと、粉がひかり、足跡が星座になり、すぐに形を変える。形を変えるたび、今日の星座になる。私は小さく笑った。ちょい笑いは、場の骨だ。骨があると、空白が立っていられる。


 名は呼ばれない。けれど、点は増える。点が増えるたび、道は濃くなる。濃くなるたび、誰かが帰ってこられる。帰ってきたとき、拍手はいらない。拍手は片づけだ。用意するのは、座れる椅子と、粉のついた黒板消しと、ちょうどいいきしみ。それと、誰もいない一分。無音の一分を、誰かがそっと持っていけるように。


 夜の集配所のことを思い出す。受理印の赤は、いま見ても、胸の内側で新しい。点の上に受の字。点は小さいほど、長持ちする。長持ちする点は、呼ばれない名のために開けた席と似ている。席は空いている。空いているから、いつでも座れる。座った人の重さで、ようやく椅子は椅子になる。


 心臓部へ行く。紙に書かれた地図が役に立たない場所だ。匂いと粉と、足音で探す。遠回りになってもいい。遠回りの角にしか落ちていないものが必ずある。きしみの具合を確かめ、粉の乗りを見て、風の通り道を一度くぐる。そうやって進むと、案外まっすぐ行ける。


 支払いは済んだ。電光掲示はそう言った。けれど、支払うという言い方は、どこか数字の匂いがする。今日のはもう少し、台所っぽかった。水を少し温めて、砂糖を溶かして、置いておく。誰でも飲めるように。飲みたくなければ、飲まなくていいように。そういう台所の仕事に似ていた。学校は、台所に近い。音と匂いで準備がわかる、あの感じ。


 さあ、と私は掌の粉を払って、息をひとつ整えた。明日は心臓部。ひかりは箱を、結衣は無音を、不知火は腕章を、それぞれ持っていく。私は、点をいくつか。点は軽い。軽いものは、遠くまで行ける。遠くまで行った点が、帰り道の目印になる。


 名は呼ばれない。けれど、足音は揃う。揃った足音が、学校という獣の心臓を、こわがらせない。こわがらせないまま、そっと撫でる。その手の感触を、私はもう覚えている。忘れたくないときは、粉をひとつ指に乗せて、額の前の空気に点を描けばいい。そこに、宛名のないありがとうが、ふんわり座る。座ったありがとうは、拍手のいらない朝のはじまりに、ちょうどいい。

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