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Loop~君の悪夢を何度でもやり直す僕の話。  作者: 妙原奇天


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第二十一話 告別、呼ばれない名

 朝の空気は、昨日より一段だけ冷たかった。窓を薄く曇らせる息が、指で書いた線のかたちをすぐに消す。ホームルームが始まる前、結衣が放送室のマイクの前で静かにうなずき、校舎中に無音の一分を流した。無音といっても、完全なからっぽではない。誰かの椅子がゆっくり戻る音、黒板消しの面が受け皿に当たる音、遠くの廊下を走る靴の乾いた跳ね。音はあるのに、言葉がいない。最後に、結衣はごく小さく、一度だけ音を置いた。合図のような、背筋がまっすぐになる高さ。校舎の空気がそれに合わせて、すっと揃った。

 支援課の掲示板には、手書きの紙が一枚貼られている。大きく書くと軽くなるので、字は小さい。名の儀。呼ばれない名に、居場所だけを用意する、とある。儀式といっても、やることは少ない。黒板に点をひとつ。空席に花をひとつ。踏切のテンポを四つ。簡素なほど、逃げ場所が減って、かえって心が決まる。

 始業前の廊下で、私たちは並んだ。ガラス越しの空は薄く白く、体育館から戻るクラスの笑い声がすりガラスをすべってくる。ひかりは木箱を抱えている。箱の角は指に覚えやすい小さなささくれをつくり、その痛みで手が正しい位置を覚えるようになっている。彼女は一度、深く息を吸い、来校者名札のぶらさがる私の胸を見た。氏名欄には、今日も点が増えている。昨日までの点に、新しい点が寄り添って、まるで豆粒の星座だ。

「好き」

 ひかりは、空白を抱えたまま言った。空白の中の“君”に向けた短い言葉は、きれいに言おうとしていないぶん、真っ直ぐだった。笑いと泣きが少しずつ混ざっていて、どちらにも倒れきらない。それが、彼女の今の声の、正しい重さだった。

 私はうなずいた。声は出ないので、視線の深さだけで返す。相づちに言葉が勝手に付いてくることがあるけれど、今日はそうならない。手の甲には、薄くなった自分の名前の跡がある。インクはほとんど消えたのに、なぞると痛みははっきり起きる。痛みは、居るの合図だ。私たちは目だけで「同意」を交わすと、教室へ向かった。

 名の儀は、いつもの教室の、いつもの朝の中で始まった。結衣が黒板の上に、字幕を短く出す。無音。ひらがなにしても、漢字にしても、強すぎるので、かっこでくるんだ。黒板の縁の粉が、ふっと舞う。みのりが教室の真ん中で手を上げる。休む自由、と、今日の合図をやわらかく置く。青木が口笛で、細い音をひとつ添える。音は細いのに、その細さが場の芯になる。

 私は空席に座った。予備の、の札が座面の裏に貼ってあって、テープが古くなり、角が浮いている。座ると、椅子は控えめに鳴き、板の足が床板の溝を探す。いつもの席に座るより、少しだけ視界が低い。黒板までの距離が違って見える。私はチョークを取り、点をひとつ。粉が指に移る。もうひとつ。点は小さいほど、長持ちする。呼ばれない名の座標を作るつもりで、間隔を気にしながら、三つ目を黒の上に置いた。

 誰かが、すする音を止められなかった。誰かの椅子が、わざとらしくない角度で軋んだ。誰かのペン先が、ノートの端で小さく跳ねた。生活の音が、点のまわりに集まって、居場所の縁取りになっていく。今日は拍手はいらない、と結衣は言っていた。拍手は片づけのための音だ。片づけるものはない。

 ひかりが、箱を持って前へ出た。足取りはゆっくりで、靴底に一枚、薄い紙を挟んでいるみたいに軽い。黒板の下に箱を置き、ふたに指をかける。ぎゅっと閉めていないので、音を立てずに開く。中には、踏切の音を閉じ込めた小さな機械、プリンのふた、折り目のついた紙の花、そして四角い紙片。括弧だけが書いてある。括弧の中身は、さっき廊下で言葉になった。それでも括弧は括弧のまま入っている。黒に貼られた白の空白は、地図の余白みたいだ。行けない場所ではなく、これから書く場所。

 窓の外側で、仕分け人が立っていた。いつも通り無地の制服に無地の顔。彼はガラスの向こうから、距離を詰めずに言う。名のないものは、ゼロ。声には非難がない。ないけれど、重みもない。不知火は教室の扉にもたれて、視線だけで応じる。名がなくても、居る。結衣は黒板の上に、短い字幕をそっと置いた。いる。ひらがな三文字が、粉の雪に埋もれないように息を止める。

 私は、最後の仕事をした。生徒手帳を黒板の台に置き、記名欄を開く。白い四角は、白のままだ。そこに、紙の花の粉が落ちて、指でなぞると、うっすらと筆圧の跡が浮かんだ。目を細めないと見えない。見えないくらいでいい。見ようとした人にだけ見える。名前は読めない。読めなくても、ここに置いたという事実だけが、そこにある。

 儀式の終盤、結衣がもう一度、無音の一分を入れた。教室全体が、いつもよりも均等に静かになる。ふだん静かな子の静けさと、ふだんうるさい子の静けさが、同じ高さで並ぶ。ありがとうの言葉はあがってこない。言えないし、言わない。けれど、満ちる。黙っているときだけ、満ちるものが確かにある。

 隅の時計の針が、一段だけ先へ進む。日直が息を吸う。起立、礼、が始まる。授業は普通に続く。黒板の点はそのまま、空席の花もそのまま、括弧もそのまま。ひかりはノートの端に、点をひとつ打って、今日、と書いた。青木は譜面の角で指を軽く切り、血の点をティッシュで押さえながら、ちょっと得意そうに笑った。みのりは春先から使っている札を、今日は席のいちばん前に立てておく。休む自由。札の角は少し丸くなっていて、手になじむ。

 午前の授業が終わるころ、窓の外で風が旗を裏返した。看板の文字が一瞬だけ崩れ、すぐに戻る。崩れた瞬間が、やけに長く見えた。長く見えるのは、多分、誰かがそこへ目を置いたからだ。

 放課後。踏切で、赤が一定の間隔で光る。線路の向こうを、知らない少年が歩いていた。ランドセルでもなく、部活の道具でもない。制服でもない。どこへ帰るのか、想像の手が届かない。ひかりは木箱を抱えて柵の前に立ち、風に頬を撫でられた。少年は振り向かない。振り向かないのに、手の甲に残った何かの跡だけが、赤い光を一瞬返す。ひかりは、息を飲み、括弧のまま笑った。空白を抱えた笑いは、軽いのに、落ちない。

 その夜、支援課の部屋に通達が届いた。文面は相変わらず角がなく、丁寧だ。整理パートナーズが、学校の外側で、大きなことをしようとしているらしい。支援の名前を使い、編集の道具を抱えて、人の前でやさしくうなずくつもりだ。つまり、外側から、中身のふりをする。不知火は机の角を指で叩いた。柔らかい木に、小さな点が増える。

「次は、紙の名前じゃない。心臓部を抑える」

 結衣は親指を立てる。長い文を言わないときの結衣は、むしろよく通る。用務員さんはうなずいて、古い引き戸の蝶番を見ていた。音を整える準備は、いつでもできる。

 私は、誰もいない視聴覚室に入った。黒いカーテンはやさしく重く、引くときに少しだけ手を引き留める。そこに、自分の箱を置く。音は海の目覚まし。においは塩風。手触りは黒板の粉。言葉の欄は空白だ。空白は、今は空白でいい。私は手の甲を膝の上に置き、薄く残った自分の名前の跡をなぞる。なぞると、皮膚の下で、ちいさな電気が跳ねる。痛みは、居るの合図。誰も呼ばなくても、応える場所はある。

 部屋を出ようとしたとき、スピーカーの前に白い粉が落ちた。昨日の黒板の雪の残りだ。息を吹くと、粉は宙に舞い、光を一瞬だけ飲んでから、床に降りた。降りた粉は、私の靴で星座になり、星座はすぐに形を変える。形を変えるたびに、今日の星座になる。

 帰り道、校門の外に出ると、犬がこちらを見た。尻尾が速いほうの犬だ。犬は名前を使わずに、私を覚えてくれる。匂いと背丈と、歩く速さで。私は笑って、頭を撫でた。毛の流れが指の間をすり抜けていく。犬は満足そうに息を吐き、背中の毛が少しだけ逆立った。粉が一枚、犬の背に付いた。犬は気にしない。気にしないのに、その粉はしっかり残った。

 夜風が、窓の桟を冷やす。明日の朝、結衣はまた無音の一分を置くだろう。最後に、すこしだけ音を揃えて。私たちはまた、黒板に点をひとつ、空席に花をひとつ、踏切のテンポを四つ。名は呼ばれない。呼ばれないけれど、居場所はある。居場所があるなら、告別は終わりじゃない。始まりのほうに近い。

 あした。支援課は、心臓部へ行く。紙の案内板がない場所だ。そこでは、粉と匂いと、足音だけが役に立つ。私は廊下の点をもう少し増やしておこうと思う。増えた点が、誰かの靴を受け止められるように。誰かが転びそうになったとき、古い引き戸のきしみで、笑いが少しだけ先に出るように。ちょい笑いは、場の骨だ。骨があると、空白は立っていられる。

 名は、まだ呼ばれない。けれど、括弧はもう、からっぽではない。括弧の内側に、今日の粉がうっすら積もっている。指で撫でると、消える。消えるけれど、消えた手のひらが、匂いを覚える。匂いを覚えた手で、私はポケットの中の生徒手帳を軽く叩いた。台の上に置いた時の、あの重さを、もう一度だけ確かめる。

 また、明日。

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