第二十話 原本を守る方法
朝一番、職員室の隣にあるコピー機ルームが、見慣れない色で光っていた。いつの間にか看板が掛け替えられていて、文字はやたらとやわらかい。「学習支援コーナー」。壁一面、まぶしいほど白い箱が並ぶ。ふたを開けると光が走り、台の上の紙を平らに押さえるための透明な板が、冷たい窓みたいに指先を跳ね返した。机の上には宣伝の紙が山。そこには、こう書いてある。
思い出を、劣化なく保存。
言い切る声は強い。強いので、弱いものは押される。面白がった生徒たちが、ポケットから折りたたんだ紙の花や、びっしり落書きしたノートを取り出しては、順番に光の台へ載せていく。ふたが閉まり、白い光がすべって、しばらく待つと、するすると新しい紙が吐き出される。線はくっきり、色は一定。やけに整っている。
その瞬間、本物の紙から、粉の手ざわりが消えた。机に置くと、すべりが良すぎる。指でつまんでも、爪に引っかかるところがない。紙のふちをなぞっても、あのかすかな毛羽立ちがない。耳の奥で、ちいさく音が鳴った。機械の準備完了の合図みたいな音。手の中の紙は黙っていて、かわりに音だけがこちらを見てくる。
支援課は、黙って見ているつもりはなかった。不知火は背中に薄い群青の腕章をつけ、コピー機ルームの正面から廊下をひと区画押さえるようにして、教室ひとつ分のスペースを確保した。黒板は動かさない。机を横に向けて、奥から手前へゆるく続く列に並べる。机の天板には薄い線。何人もの鉛筆がなぞって磨いた木の光。そこを印刷ラインに見立てる。こちらはこちらで、公開の授業だ。
「原本を守る方法。今日から実装します」
放送も、長いスライドも、ない。結衣は放送室からやって来て、ミキサーのない手ぶらのまま、教卓に立った。いつものように滑らかな説明は付けず、指だけで合図する。深く息を吸って、吐く。息を吸う長さは、ひとりぶん。吐く長さも、ひとりぶん。揃えない。揃えると、揃える人の音になるから。
「きょうの柱、三本」
結衣が指で三回、机を叩いた。小さな音が、机の木に吸い込まれる。
「ひとつ。自分の基準は、自分で持つ。息と歩幅。無理に揃えない」
「ふたつ。場に、壊れる音を入れる。きれいな音ばかりにしない」
「みっつ。同時に、ちがう歌を歌う。合唱じゃなくて、寄せ鍋」
最後の言い方に、生徒たちからうっすら笑いが起きた。寄せ鍋か、と誰かがつぶやく。鍋なら、にんじんも大根もそのままでいい。千切りにしなくても、ちゃんと煮える。そんな顔だ。
用務員さんが、古い引き戸を体育倉庫から運んできた。ところどころ塗装が欠け、取っ手は金属の角が丸くなっている。開け閉めすると、きしむ。胸に響く、情けない音。けれど、この音は、まっすぐで、嘘がない。油をさしすぎていない音は、場を少しだけ丈夫にする。不知火はその引き戸を廊下の真ん中に立てかけ、片方の教室とコピー機ルームの間に、わざと一枚、古い壁を置いた。
「よし。試運転」
結衣が指で、三、二、一、みたいな形を作る。声には出さない。生徒たちはばらばらに、歌いはじめた。流行の曲でもない。名前のない鼻歌。体育のあとに自然に出る、息の調子みたいなやつ。誰かはゆっくり、誰かは速め。しゃくりあげる人もいれば、ほとんど喉に乗せない人もいる。声がぶつかり、ほどけ、うすい波みたいに廊下を往復する。誰も指揮をしないし、誰も合わせようとしない。それでも、空気に芯があらわれた。揺れているのに、倒れない感じ。
さっそく、向こう側で動きがあった。コピー機ルームの光が、わずかに落ち着かない。透明のふたの隙間から、白い粉が舞いこみ、台の上で丸まって沈んでいく。機械は小さな声で何かを言う。こちらには聞こえない言葉だけど、困っているときの音だということはわかる。紙の端に残った小さなほこり、指の汗で濡れた狭い面、ノートの綴じ目のほつれ。そういうものは、光に写らない。写らないのに、そこに残る。残ったものは、機械のごきげんを損ねる。
「予期しないものを検知、だって」
見学に来ていた一年生の青木が、ルームの表示パネルを見て報告した。言葉の意味はうすいけれど、こちらのやり方が、向こうのやり方にとって邪魔になっていることだけは、あからさまになった。邪魔でいい。邪魔は、生き物の動きだ。
廊下の端で、仕分け人が姿を見せた。制服はいつも通りの無地。顔には表情がなく、声にも角がない。彼は白い台車の横に立ち、目線の高さだけ少し低くしてみせる。
「非効率。故障が予想されます」
不知火が前へ出て、用務員さんと肩を並べた。いつものスーツを脱ぎ、学校名の入った作業着に腕をとおす。袖のゴムが、手首にきゅっと当たる。
「壊したなら、直す。この学校の手で」
用務員さんは道具箱を開け、ドライバーを渡す。不知火はコピー機の脇に立ち、ふたを外すための小さな金具に、ぎこちない手つきで工具を当てた。最初のねじが外れると、ふわりと白い粉が舞い、内部のローラーがむき出しになる。黒いゴムの表面に、粉が薄く積もっていた。息をかけると、すぐに形を変える。
「これが生活の粉です。印刷にはいらないと、思う人もいるかもしれません。けれど、紙の花は粉で咲いて、粉でしおれます」
不知火の声は、硬い。硬いけれど、いつもより少しだけ柔らかい。用務員さんは静かに頷き、ローラーの表面を布でぬぐう。布は一回で真っ白になり、次の布が必要になる。布は使い捨てだ。捨てられた布は、ごみ箱の中で小さくなる。小さくなる布に、手の跡が残る。その跡が、今日の証拠になる。
私は廊下の床板にしゃがみ込み、錐を一本借りた。木の板の目を確かめ、人がよく踏む位置に、ほんの少しだけ凹みをつける。点は、目を凝らさないと分からない。分からないぐらいがいい。分からないものは、勝手に自分のものにしない。点の上に、靴の裏をそっと置く。息を吸って、吐いて、前へ一歩。歩幅は、自分の身体が決める。誰かの足の長さに合わせて伸ばしたり、縮めたりしない。点から点へ、線は自然にできる。線が増えると、廊下が廊下として立ち上がってくる。走らなくても、行き先がわかる。
「歌、続けて」
結衣が手を動かす。寄せ鍋は、いったん火を弱めると味がまとまる。強めると、湯気が立って、鼻に届く。誰かが口ずさむ古い童謡が、不意に体育の掛け声と重なり、別の誰かの鼻歌がそこに絡まる。窓ガラスに見えないうねりがあらわれ、コピー機ルームの柵を通り抜け、白い箱のふたを、ほんの少しだけ浮かせた。
最後の一手は、体育倉庫のドアだった。用務員さんが手際よく蝶番の位置を確かめ、油をさしすぎないよう布で拭ってから、思いきり開けて、思いきり閉める。きしむ。きれいじゃない。けれど、このきしみは、校舎にとっての基準になる。合成されていない音。録音ではない、いまの音。鼻につく匂いも混じって、耳の奥に貼りつく。
コピー機の表示が、ゆっくりと変わった。あちら側の人が慌ててボタンを押し、ふたをもういちど強めに閉める。けれど、白い箱の中へ入りこんだ粉は、もう隠せない。小さなエラーの文字が、どこか迷っている。迷っているエラーは、いきなり直らない。やがて、ランプがちらりと光って、見たことのない言葉に落ち着いた。
原本のみ、受け付け。
誰かが小さく拍手した。結衣が首を振る。拍手はいらない。拍手は、機械にやさしすぎる。きょうの勝ち方は、音よりも、触ることだ。
ひかりが、木箱を抱えて前に出た。箱のふたは指で撫でただけで、柔らかく鳴る。箱の角は少しささくれていて、触ると爪が守りの姿勢を作る。コピー機ルームのスタッフが笑顔で迎える。笑顔は白い。白い笑顔は、どちらにも寄らない。
「スキャンしますか。きれいに保存できますよ」
ひかりは、首を横に振った。言葉は短い。長いと、揺れる。
「これは、ここに置く」
ルームの外。廊下の棚。粉が積もり、足音が刻まれ、古い引き戸のきしみが届く場所。ひかりはそこで、ゆっくり箱を置いた。置くときの音は、ごく小さい。小さい音のほうが、長持ちする。長持ちする音は、明日に連れていきやすい。スタッフは笑顔のまま、窓のほうを見た。窓の外には、予備の椅子が一脚。座面の端に貼られた小さなテープに、かつての名前が半分だけ残っている。読めない。読めないけれど、誰かが座っていたことだけは、木が覚えている。
仕分け人は、短く肩をすくめた。彼の肩は、あまり上下しない。上下しない肩は、重いものを持ち慣れていない。
「非効率です」
「そうですね」
不知火は、あっさり認める。認めた上で、工具をかたづけ、用務員さんにねぎらいの会釈をした。用務員さんは手袋を外し、白くなった指先を見て、ぼそっと言う。
「この粉、洗っても取れないんですよ」
「取れないなら、そのままで」
不知火が笑った。笑うといっても、口元がすこし動くだけだ。笑いの音は出ない。でも、その静かな笑いは、周りの空気を一緒にくすぐる。生徒たちからも、かすかな笑いが返る。ちょい笑い。大声で笑うほどじゃないけど、口の端が勝手に上がるやつ。
公開授業は、そこでいったん区切れた。あちら側の白い箱は、しばらく沈黙。こちら側の廊下は、うすい歌と足音が続く。古い引き戸は、開けるたびにきしみ、閉めるたびにきしむ。何度か繰り返すうち、その音が少しずつ変わってくる。木が、今日の湿り気を覚えたのだ。覚えた音は、明日にはまた変わる。変わるから、今日の音になる。
午後になって、校内に黒板の雪が舞いはじめた。粉が、蛍光灯の光を受けて、ひらひら降りる。降りる粉は、床に積もると、すぐに誰かの靴に踏まれ、星座みたいな足跡になる。星座の線は、消えかけて、また増える。残ろうとして残っているわけじゃないのに、残る。そういう跡は、勝手にきれいだ。
整理パートナーズは、「安全上の観点から撤去」を申し入れてきた。粉は滑る。滑るから危ない。危ないから、取ってしまいましょう。紙の上では、とてもまっとうな理屈だ。教頭は、書類を閉じて、黒板の下を指さした。チョークの受け皿。粉が溜まっている。
「教育上の観点から継続」
短い言葉だった。短いのに、板に貼りついた粉の重さが、そのまま乗っている。教頭はいつもより少しだけ髪の毛が乱れていて、ネクタイはすこし曲がっていた。曲がっているのが、今日は頼もしい。
廊下の端で、結衣が紙片を取り出し、私の胸の名札に貼った。白い紙に、細いペンで一行。
君、きょうの勝ち。
字は丸い。丸いけれど、角があるところには角がある。紙は柔らかい。柔らかいけれど、指の温度でゆっくり形が変わる。私はそれを指で押さえ、うなずいた。声は出ない。出ないので、うなずく回数で返す。一度、二度。返事の濃さは、回数でしか調整できない。調整が下手でも、意思だけは伝わる。
放課後。空席の机に、ひかりが花を挿した。花びらの端を指で撫で、指先で、空白に、点を打つ。点はひとつ。しばらくして、もうひとつ。ふたつの点が並ぶと、宛名の輪郭みたいになる。輪郭は痛い。痛いけれど、痛くなければ、ここまで来なかったことも分かっている。ひかりは深く息を吸い、花びらに顔を近づけ、匂いを覚えるみたいに目を閉じた。
私は廊下の窓から、踏切のほうを見た。赤い灯りは、いつもより少しだけ長く点いている気がした。風が旗を裏返すたび、看板の文字がふっと崩れ、すぐに戻る。崩れる瞬間、言葉は名札を失う。名札のない言葉は、匂いだけでこちらへ来る。塩の匂い。紙の粉の匂い。体育倉庫の匂い。寄せ鍋みたいに、混ざっている。
夜。支援課の部屋に戻ると、不知火は用務員さんから借りた布を、まだ指で揉んでいた。布には粉がこびりつき、洗っても取れないと、さっき言っていたものだ。彼女はその布を掲示板の端に画びょうで留める。掲示板は紙の言葉でいっぱいだ。布は無言だ。無言のものがひとつあると、紙の言葉が急に落ち着く。
「これ、証拠にします」
「なにの証拠」
結衣が笑って聞く。笑うときの結衣は、言葉を短く切る。短いと、息が揺れない。
「きょう、ここにいた証拠」
不知火はそれだけ言って、腕章を外した。群青の布が机の角にかかり、少しだけ色が沈む。机に残る傷は、そのまま。傷は、だんだん同じ高さになっていく。そこを手で撫でると、うまく話せない日でも、うまく話せたみたいな顔ができる。顔は大事だ。うまくできなくても、今日の顔は今日だけの形をしている。
窓の外では、黒板の雪がまだ舞っていた。気温は変わらないのに、粉の降り方だけが、ゆっくりに見える。ゆっくりに見えるとき、人は、少しやさしくなる。やさしくなると、誰かの箱を勝手に開けない。勝手に開けないと、箱は長持ちする。長持ちする箱は、置き場所を覚える。置き場所が増えると、学校が広くなる。
広くなった学校の、どこに私はいるのだろう。名札の欄は、もう、だれにも埋められない。結衣でさえ、呼ぶときはメモに書く。呼びかけは、二文字。君。短いのに、息がこちらに来る。来るなら、十分だ。私は返事のかわりに、指で机を二回叩いた。トン、トン。小さい音は、長く持つ。長く持つ音は、明日に届く。
明日は、呼ばれない名前の告別だ。名前は呼べない。呼べないけれど、宛先はある。宛先があるなら、手紙は出せる。手紙が出せるなら、返事も、いつか、来る。来るまでのあいだは、粉でしのぐ。粉は軽い。軽いから、風が吹くとすぐ舞う。舞っているあいだだけは、ここにある。ここにあるもののために、廊下の点を、もう少し増やしておこう。増えた点が、明日の足音を受け止められるように。明日の足音に、ちょい笑いが混ざるように。椅子のきしみが、やさしいままでいられるように。




