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Loop~君の悪夢を何度でもやり直す僕の話。  作者: 妙原奇天


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第2話 “編集者”のはさみと、嘘の使い方

 保健室のカーテンは、校舎のどのカーテンよりもよく陽を通す。薄い布越しの昼光に、綿の匂いと消毒液の匂いが溶ける。ベッドの端に腰を下ろした僕は、指先で紙の花の欠片をいじりながら、柊結衣に昨夜のことを話した。

「他人の夢に落ちた?」

「言い換えるなら、落とし穴の位置が分かったって感じ。ひかりの机、図書室、本棚の隙間、白い鋏、名簿棚。ぜんぶ並んだら、落ちる」

 結衣は、いつものように落ち着いていた。保健委員で放送部。髪を後ろでゆるくまとめ、白衣のボタンを二つだけ留めている。その隙間からのぞくポロシャツのグレーが、彼女の言葉を少し柔らかくする。

「脳波、測ってみる?」

「ここで?」

「ここで。眠りの縁に合わせれば、合わせて流す音で誘導できる。うちの放送室、昔の機材まだ生きてるから」

 結衣はベッドの下から金属ケースを引っぱり出した。中にはヘッドバンドのようなセンサーと、色褪せたコネクタの束。コードのビニールは固いのに、指であたためると少しずつ柔らかくなった。彼女は説明を足す。

「深い眠りに入る寸前、波がゆっくりになる。そこにノイズ混じりの音声を重ねる。完全な言葉じゃなくていい。ヒントや合図みたいなものを、夢の素材に勝手に変換してくれるはず。字幕、って言ってもいいかも」

「夢に字幕」

「できるかも、って話。やってみたい」

 白衣のポケットにボールペンを差し直して、結衣は僕の目を見た。

「綾瀬くん。怖くはない?」

「怖いよ。でも、怖いまま放っておけない」

 僕はポケットから紙片を取り出し、結衣に見せた。湿った折り目の端に、海の塩の粒が光った気がした。

「持ち帰った、らしい」

「ふうん。じゃあ、もう半分は向こうにある」

 向こう、という言い方が、どこか好きだった。場所じゃなく、相手がいる感じがするから。僕が頷くと、結衣はにやりと笑う。

「放送、夜中に流す。体育館裏、コンセント生きてる。そこで繋ぐ。先生たちは寮の巡回で忙しい時間帯。脳波は私が見る。綾瀬くんはイヤホンで合図を待って、落ちる」

「落ち方は、もう分かる」

「じゃあ問題は、落ちたあと」

 結衣はボールペンをくるりと回して、文字を空に描くみたいに言った。

「編集者がいる。上に上げる癖がある。箱を。名簿棚の上段へ。癖は、たぶん武器になる」

 その言い方が、紙を折って花にするみたいに筋道を作っていく。僕はこくりと頷いた。

「今夜、やろう」

 結衣は短く。「了解」とだけ言った。

     ◇

 夜の校舎は、白黒の世界に見える。体育館裏は風が止まっていて、天井から垂れる電球が虫の影をゆらす。延長コードでつないだアンプが、古いラジカセみたいな控えめな唸りを出していた。

「寝ないでね」

「寝るために来たんだけど」

「違う。眠りの縁に立つだけ。落ちすぎたら引き上げる」

 結衣はセンサーのバンドを僕のこめかみに当て、テープで細工して固定した。耳にはイヤホン。音はまだ流れていない。彼女はノートパソコンの画面を覗きこみ、波の形に目を細める。

「いい感じ。呼吸を整えて。窓を開けて海の匂いを思い出して」

 指先に残っていた冷たい匂いが、言葉の合図で現実に立ち上がる。僕は目を閉じ、昼間の保健室の光を遠ざけ、図書室の棚の並びを思い浮かべた。レースのカーテン、白い鋏、名簿棚。ひかりの横顔。

 ノイズが混じった女の声が、遠くから届く。

「聞こえるなら、まばたき」

 まぶたの内側に波が映る。僕はゆっくりと一度、まばたいた。結衣の声が少し近くなる。

「編集者は、選別の速度が落ちた瞬間に弱い。急ぐときほど、ミスが出る。減速させて」

「どうやって」

「気を散らせる。上段の箱を意識させる。あとは、手を繋ぐ。上書きが遅くなる。向こうの誰かと」

 向こうの誰か。ひかりの手。僕は息を整えた。耳の奥で、紙を切るノコギリみたいな音が鳴った。

 ふっと、床が抜けた。

     ◇

 落ちた先は、昼と同じ教室だった。けれど席順は五十音の逆に並べ替えられ、名札の文字が裏返しのガラスに書かれているように読みにくい。透明な板に映る黒板の文字は、記号に目録化され、ゆっくりとスクロールしていた。

 名簿棚の上段には、「消したい日」と書かれた箱がいくつも積まれている。白い紙箱は角が擦れて、指で持ち上げた跡が残っている。箱の側面には、鉛筆で薄く「波の音」とか「三限目の記憶」とか書かれているものもある。読み取れた瞬間、その文字がすっと白く塗られて消える。

 廊下の端。司書服の影が、棚の手前で箱を持ち上げては上段に戻す動作を繰り返している。胸元の白い鋏が蛍光灯の光をひっそりと跳ね返す。その所作は癖そのものだった。重い箱でも、まず視線を上へ。上段の余白を確認してから、両手で持ち上げる。棚の中段には、手をかけない。

 癖は武器になる。結衣の声が、雑音に混じって届く。

「編集者は、順番を崩されるのが嫌い。上段から触る。だから視線を釘付けにする材料を上に置いて」

 僕は棚の横に立つと、わざと中段の箱の角を引っかけた。床に落ちる音が教室の壁を跳ね返る。編集者は一瞬こちらを向いたが、すぐに視線を上へ戻す。まるで落ちた箱は現実ではない、とでも言うように。そして上段の空きを気にして、また箱を持ち上げる。

「焦ってる」

 僕は小さくつぶやいた。箱の蓋のすき間から、海の音がわずかに漏れているのが分かった。音は視線を連れていく。上段、海、上段。

 管理人のひかりはどこだ。教室の後ろ、用具入れの影。そこに、彼女がいた。眠っている。制服の袖には白い塗料がついている。夢の中の彼女は目を開けない。けれど、僕が近づくとまぶたの縁が微かに震えた。

「今日、君の古いあだ名で呼ぶ人に会った」

 嘘をひとつ、準備していた。僕はひかりの耳元に声を落とす。言った瞬間、自分の胸が少し詰まる。まだ誰にも聞かせたことのない約束を破るみたいで、喉が乾く。

 ひかりのまぶたが開いた。目の焦点はすぐには合わず、僕の肩の向こうをしばらくさまよった。やがて、ほんの少し笑う。

「それ、どのあだ名?」

「紙の……」

「秘密。正解を言ったら目が覚めちゃう」

 ひかりは指先で僕の袖をつまみ、立ち上がると、教室の後ろの扉に手をかけた。誰も触らない扉。昼間は鍵がかかっていた扉。扉の向こうは、斜面のきつい階段だった。白い塗料の匂いが濃くなる。

「屋根裏、案内する。編集者が来る前に」

 階段は、角度が不自然だった。途中の踊り場が、教室の出席番号みたいに番号で区切られている。二十四、二十三、二十二。逆順。僕とひかりは、手すりに触れないように上った。触れたところから白く塗りつぶされそうな気がしたからだ。

 屋根裏は、校舎の骨組みがむき出しで、梁の間に紙の箱が詰め込まれていた。窓はないのに、海の音がした。探さなくても分かる。音は一つの箱から漏れていた。

「目覚まし時計。海を閉じ込めたやつ。お兄……じゃなくて。弟が作った」

 ひかりは言い直した。嘘でも真実でもない、夢特有の言い直し方。僕は箱を覗く。安い目覚まし時計のベルのところに、透明なフィルムが挟まれている。そこに海辺で録ったノイズの波形が印刷されているみたいだった。

「鳴ると、海が来る。朝、起きられるように。夏祭りで当たったプリンの蓋。そこに書いてあった景品を、弟が全部集めようとしてた。紙の花もそう。折り方を教えてたら、いつの間にか私より上手くなってた」

 ひかりは箱の中身をひとつずつ触れた。触れるたび、指先の位置に白い点が灯り、すぐに消える。編集者の白ではなく、記憶が呼吸する色だった。

 そのとき、階段の方で音がした。鋏が手すりに当たる金属の音。白い塗料の匂いが強くなる。編集者が来る。踊り場の番号が、白に塗られてゆく。

 僕はひかりの手を取った。彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐに握り返してくる。結衣の声が、砂混じりの電波みたいに届く。

「手を繋いで。上書きが遅くなる」

 階段の下から、白がじわりと上がってくる。塗りつぶしはゆっくりだが確実で、踏みしめた段の輪郭が薄くなる。僕はひかりの目を見て、小さく息を合わせた。

「ごめん」

「なにが」

「嘘、ついた。古いあだ名で呼ぶ人には、会ってない。でも、あだ名を知ってるかも。君が忘れたくないなら、忘れない手伝いができるかも」

 ひかりは、ほんの少しだけ、笑った。僕の嘘は、誰かを傷つけるための嘘ではなかった。扉を開けるための合鍵みたいな嘘。彼女の目に、それが映ったらしい。

「じゃあ、許す。ここは嘘が効く場所だから」

 編集者の影が階段の曲がり角に現れた。胸の鋏が、屋根裏の暗がりで白く浮かぶ。顔は塗りつぶしのまま。足音は静かで、でも確実に近づいてくる。

 僕は箱のひとつを持ち上げ、わざと屋根裏の床に落とした。乾いた音で跳ね、蓋がずれて中身がこぼれる。紙の切れ端、プリンの蓋、鉛筆の短い芯。音に釣られて、影が一度こちらを見る。けれど次の瞬間、いつもの癖で視線は上段へ吸い上げられた。棚の最上段の余白。そこに何があるか、何が足りないか。彼はまずそこを確かめずにはいられない。

「今」

 僕は目覚まし時計を懐に滑り込ませた。ひかりの手を引いて、屋根裏の板のすき間を跨いで移動する。編集者は上段を埋める段取りに一瞬だけ没頭している。その瞬間だけ、世界の速度が落ちる。結衣の言葉どおりに。

「綾瀬くん」

 ひかりが指先で僕の手の甲をとんとんと叩いた。彼女の指は、塗料で少しざらついている。

「ありがとう。目覚まし、鳴らして。朝の音で、思い出せることがある」

 僕は頷いた。編集者がこちらへ向き直る。白い剪定ばさみの刃が、光を吸い込んで輪郭を失う。僕はひかりの手を強く握った。握った分だけ、塗りつぶしの速度が落ちる。白が階段の途中で澱むみたいに止まった。

 耳の中で、海が鳴った。

     ◇

 次の瞬間、僕は現実に戻っていた。体育館裏の夜風が肌を撫で、電球の下を虫が横切る。耳からイヤホンが半分外れ、こめかみのセンサーが少しズレて汗に貼りついていた。胸ポケットの内側で、目覚まし時計が静かに震えている。ベルは鳴っていないのに、確かに海の音がした。

 結衣が僕の顔を覗きこむ。モニターの波形は落ち着いているが、彼女の視線は僕の胸元に吸い寄せられた。

「持ってきたの?」

「たぶん、そう」

 僕たちは体育館の裏口から昇降口へ移動した。夜風は乾いているのに、どこかで潮の気配がした。昇降口のガラス戸を開けた瞬間、僕の胸の中で海がひと際大きく鳴る。廊下の奥で掃除当番の誰かが足を止め、振り向いた。

「今、海の音しなかった?」

「気のせいでしょ」

「でも」

 さっきまでの足音が、潮にさらわれた砂みたいにあやふやになる。廊下の掲示板のポスターの一行だけが白く抜け、そこに書かれていたはずの部活動の告知が思い出せない。代償は目に見えない速度で進む。僕は額に手を当て、深呼吸をした。

 保健室の前で、結衣が僕の肩を軽く叩く。

「ひとつ確認。通行許可証、見せて」

 保健室に出入りする生徒の名前が書かれた札は、いつも壁のホワイトボードの横に掛かっている。僕は反射的に自分の名前を探した。そこにあったのは、見知らぬ名前のカードだった。同じ番号、同じ色の札。だけど、綾瀬灯真ではなく、別の名前。

「これ、誰の」

「ううん。私も知らない。さっきまでは綾瀬くんのだった」

 結衣は顎に手を当て、少しだけ黙る。考えるときの癖。彼女にも癖があって、それが僕を落ち着かせる。

「代償。名前の線が細くなる。だからこそ、戻す材料を増やす。接点、音、匂い。連絡先」

 彼女はスマホを取り出して、僕の名前を検索した。画面に現れたのは、未登録番号だけだった。通話履歴に一度もないのに、メッセージだけが残っている番号。そこに貼られた僕のアイコンは、クラスのグループと同じく彩度が低かった。

「登録しておくね」

「うん」

 結衣は少しだけ口角を上げ、次の用件に移るみたいに姿勢を正した。

「で、向こうで何か読んだ?」

「箱の側面。鉛筆で薄く書いてあって、見えた瞬間に消えた。三限目の記憶、波の音、夏祭り。それと……」

 僕は昇降口の掲示板の端に置かれた旧い名簿帳を開いた。誰も使わない書類の山。ページのすみに、細い字があった。光太、と書かれている。苗字はない。名前だけ、こんなふうに取り残されている。

「ひかりの弟の名前、だと思う。でもクラス名簿にはいない」

 結衣はページを覗きこんで、眉を寄せた。

「いるのに、いない。書いたのに、消された。編集者が白で塗るのは、間違いだけじゃない」

 海の音が、胸ポケットの中でわずかに鳴る。僕は目覚まし時計を取り出し、ベルに指をかけた。押せば鳴る。鳴らせば、何かが戻ってくるかもしれない。あるいは、何かがまた消えるかもしれない。

「鳴らしてみる?」

「今はやめよう。証拠は少しずつ使う。癖は武器になる、って言ってたよね」

 僕がそう言うと、結衣は満足げに頷いた。彼女は白衣の裾を直し、放送室の鍵をポケットで確かめる。

「踏切に行こう。ひかりと関係ある場所。音の記憶が強い場所。光太くんの痕跡が残ってるかもしれない」

 踏切。鉄と風の匂い。遮断機が下りるときの心臓の縮む音。僕はうなずいた。嘘をひとつ、使って扉を開けた。次は、ほんとうを探しに行く番だ。

 廊下を歩くと、窓の外の風見鶏は正しく回っていた。けれど、一瞬だけ逆向きに跳ねる。朝礼のときと同じ、世界の小さな欠落が目の端にちらつく。足を止めると、結衣が振り向いた。

「戻れるからね。波の手前で引き返す方法は、必ずある」

「うん。ありがとう」

 彼女と別れて自室に戻る途中、昇降口の陰で、誰かの小さな声がした。振り向く。誰もいない。床に、紙の花びらが一枚落ちていた。拾い上げる。湿り気はない。乾いている。今度は、砂浜の匂いがした。

 僕はそれを目覚ましの裏にそっと挟んだ。鳴らす日を決めるように、ベルの位置をほんの少しだけ右にずらす。指先に残る感触は、現実だ。夢に持ち込んだ現実。現実に持ち帰った夢。

 教室で、眠そうに目を上げるひかりの横顔が、はっきりと思い出せた。嘘が扉を開け、手を繋いだ時間が上書きを遅らせた。癖は武器になった。次は踏切。線路の向こうで、まだ知らない名前が待っている。

 夜が深くなるほど、海の音は遠くなる。遠くなるのに、確かにそこにある。耳を澄ませなくても分かる。目覚ましを鳴らす前から、朝はゆっくりこちらに寄ってきている。

 僕はスマホの画面を開いた。未登録の番号に、自分の名前を打ち込む。綾瀬灯真。少し考えて、ひらがなでも登録する。あやせとうま。結衣の連絡先にも、同じようにふたつの形を残す。消されにくいように。名前の線を、少しでも太くするために。

 登録を終えたとき、通知がひとつ届いた。グループチャット。夢の共有者。誰かが、短い言葉だけを送っている。

「踏切で」

 送り主は、白いアイコンのままのひかりだった。口元だけが薄く塗りつぶされている。けれど、その塗りつぶしの端が、以前よりも少し薄い気がした。

 僕は返事を打つ。了解、とだけ。

 指を止めると、胸の内側で海が静かになった。風見鶏の影が窓に伸び、夜の輪郭に重なって消える。眠りの縁で、僕は目を閉じる。落ちるためではない。落ち方を忘れないために。嘘を使う位置を、間違えないために。

 明日は踏切。光と音が交差する場所。消された名前の線を、もう一度引き直す場所。白い鋏の届かない高さに、箱を置き直すみたいに。僕はそこで、ひかりの手をもう一度、強く握るつもりでいる。

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