第19話 法改正(試行)
市教委の会議室は、冷房の風が書類の端を持ち上げるたびに、紙同士が擦れる乾いた音を出した。長机の向こうには教育委員が五人、年代はばらばらで、視線はどれも真正面。不知火は支援課の腕章を新しく見える角度に直し、ゆっくりと頭を下げた。
「“本人同意による思い出保存”の試行を、市内五校で同時に始めたいと考えています」
スライドの一枚目に、数字が並ぶ。0組の発生率は、ここ一週間で低下。長欠の兆候を示す生徒の欠席パターンが、授業の冒頭十分快と終盤十五分に分散し、学内事故は一次予防で三件回避。不知火の説明は、短く、具体的で、嘘の入る余地がない。ただ、最後列に座った黒縁の顧問弁護士が、手元の資料を端から端までめくってから、静かな声で口を開いた。
「責任の所在はどこに置くのですか。保存したことによって二次被害が発生した場合、たとえば過去の関係者間でトラブルが再燃したとき、学校はどう守るのですか。本人同意は未成年に適用可能ですか。撤回はどのように担保されますか。選択の強制にならない仕組みは」
「全部、答えます」
不知火は頷き、次のスライドを出した。保護者同意と併走し、撤回権と非保存権を同列に置く設計。生徒が“今日は保存しない”を選ぶ自由を最初に宣言する欄。保存は対象を“守る”ためのものであって、対象を“飾る”ためではないこと。保存したくない日は、堂々と空白でいいこと。空白は敗北ではないこと。
結衣が端末を持って前に出る。スライドは一枚だけ。文字は一行。
「“保存しない”を選べる」
黙っていた委員の一人が、小さく頷いた。「選ばない自由が入ったのは大きい」。別の委員は言葉を選ぶようにして、「現場が持てる負担かどうかが鍵だ」と付け足した。負担は増える。けれど、薄めた幸福に学校を預けたままより、ずっとマシだと、不知火ははっきり言った。
顧問弁護士は腕時計をちらと見て、短く息を吐いた。「保留で」。その言い方は負けではない。勝ちでもない。玉虫色。会議の空気は、いったんそこへ落ち着く。
◇
午後の学校は、いつも通りのざわめきを装って、いつもと違う準備をしていた。印刷室では同意書の束……の代わりに、宣誓紙が輪ゴムでまとめられている。支援課が配る紙は、上半分に大きな余白があり、下半分に四つの小さな枠が並ぶだけだ。
私は、これを忘れたくない。
私は、これを忘れてもいい。
丸をつけるだけでもいいし、言葉を書いてもいい。丸をつけない自由も、ある。
みのりは「休む自由」に丸をし、青木は「最初のミス」に丸をした。ひかりは「今日」に丸をつける。書き終えた瞬間、ひかりは紙の四隅を指で押さえ、角に小さな折り目をつけた。角の折り目は、持ち運ぶときの“つまみ”になる。つまみがある紙は、引き出しやすく、しまいやすい。
私は来校者名札のまま、黒板の前で宣誓紙の束を受け取り、クラスの後ろの棚に並べた。最初の箱の棚は、朝より広くなった。ひとつひとつの箱に貼る紙のラベルはまだ白紙で、触ると木のささくれが微かに引っかかる。引っかかりは、箱がただの箱以上である証拠だ。
図書室には“返却不要コーナー”が設けられた。破れた譜面、空のフィルム袋、擦り切れた出席簿の布の端、購買のレジ袋の耳。持ち主の名前は書かない。書かない代わりに、置いた人だけが分かる並べ方で、静かに並ぶ。並べ方は、ほんの少しだけ癖が出る。癖は、持ち主の影だ。
◇
夜は、夢の中で続きの手続きが行われる。集配所の窓口には“市内五校 共同試行”の白旗が立った。旗の竿には、人が聴きとれない程度のAの音の微振動が仕込んである。仕分け人は旗の根本を掴み、無表情のまま引き抜こうとして、指を離した。竿の振動が手首に刺さるからだ。刺さるほど強くはないのに、持続する。持続する違和感は、単純な効率の邪魔になる。
「許容します。期間限定」
仕分け人は短く告げ、吸い上げ口の圧を一段弱めた。天井の口が少しだけ静かになる。静かになった吸い上げ口は、逆に意識される。意識される機械は、雑音に弱い。雑音は、支援課の味方だ。
◇
試行一日目の朝。校内放送に、無音の一分が挿入された。結衣はミキサーに触らず、目を閉じて呼吸を整える。無音の一分は、廊下の足音と椅子の軋みと、黒板消しの布のしめった音を拾い上げる。無音が終わると、合成鐘が薄く鳴った。鐘の基音にはAが薄く重ねられ、紙の花の擦過音が床鳴りに溶かされている。誰にも気づかれないぐらいの音圧で、校舎全体が一度だけ深呼吸した。
昼休み、最初の箱の棚の前で、生徒たちが箱を出し入れする。箱のふたを開けるときは、誰もが無意識に音を小さくする。小ささは礼儀ではなく、必要だ。小さい音は、記憶の繊維に絡みやすい。大きい音は、繊維を切る。切ったほうが良いときもあるが、今日は違う。
図書室の“返却不要コーナー”には、午前中だけで二十点以上が並んだ。消しゴムの欠片は袋に入れず、そのまま置く。粉が出るからだ。粉が出るものは、場に刻みやすい。場に刻まれた粉は、掃除で消える。消えたあとに薄く残る輪郭が、今日の在処になる。
反動も、すぐ来た。整理パートナーズの現場員が学校の一角に折りたたみ机を出し、無料整理会を始めた。保護者向けの説明会はうまい。疲れた大人の耳に届く“安全”の手ざわりを、彼らは知っている。机の上には新品の透明な箱が積まれ、中身を“まるごと任せる”セットが用意されていた。箱はきれいで、角が丸く、指ざわりが良い。良すぎる。滑って、持てない。
現場員は校門の外へ箱の中身を運び出す。ゴミ袋には、匂いの綿、粉のついたチョーク、紙の花を折る途中で破けた紙。ひかりが走り寄る。息を切らして、袋の取っ手を掴み、抱える。
「これは、捨てない」
現場員はマニュアル通りに微笑み、「選択は尊重します」と一歩下がった。選択を尊重するという言い方は正しい。正しいけれど、責任の重さをぜんぶ個人に残す。個人が抱えるには重すぎるとき、学校が間に入る。支援課の仕事は、重さの分配だ。
◇
午後。体育館で合同ワークショップが開かれた。タイトルは「原本を守る方法」。プロトコルは三つだけ。①身体に刻む(匂い・手触り・テンポ)②場に刻む(床鳴り・粉・光)③他人に託す(放送・合唱・無音)。結衣はマイクを使わない。手話みたいな所作でテンポを示し、Aの代わりに呼吸を合わせる。「吸って二拍、吐いて二拍」。短い指示で、体育館の空気が少しだけそろう。そろった空気は、すぐに崩れる。崩れるから、覚えられる。
ひかりは客席の端で、自分の箱を膝に置いて、ふたを開けたり閉めたりしていた。箱の内側の木目が、彼女の指の腹でゆっくり濃くなる。濃くなったところは、そこだけ時間が厚い。厚みは、後から触っても分かる。
講堂の後方で、不知火が市教委から届いたメールを受け取った。件名は「試行について(保留)」。本文は丁寧だが、要するに併用だ。支援課の試行と整理パートナーズの介入を並走させること。現場は勝っても、制度は真ん中で止める。真ん中は便利だ。誰の顔も立ち、誰の責任も薄まる。薄めた責任は吸収されやすく、跡が残らない。
不知火は悔しさを飲み込み、端末を閉じた。結衣を見ると、彼女は短い頷きだけ返した。現場は、原本主義で行く。制度が玉虫なら、現場は濃い色を置く。
◇
夕刻。教室に戻ると、空席の机は今日も定位置にあった。誰の席でもない机の上に、ひかりは花を置き、木箱のふたをトン、と二度叩いた。今日の音。今日のリズム。彼女は誰にも聞こえないぐらいの小さな声で、「今日、保存」と言った。言い終えると、顔に静かな影が落ちて、すぐに消えた。消えるまでに、ちょうど四拍かかった。
私は廊下の端からそれを見て、来校者名札の氏名欄にペンで点を一つ、また一つ、書き足した。点は小さい。小さい点が二つ並ぶと、ものの名前に見えることがある。見えるだけで、名前ではない。呼ばれないから、名前ではない。けれど、点があると、空白が少しだけ明るくなる。
代償はとうとう極まってきた。帰り際、放送室から出てきた結衣が私のほうへ早足で来て、口を開いた。
「ねえ、……」
そこから音が抜け落ちた。唇は形だけを作り、空白がその形に入る。音は来ない。彼女の目は迷わず、まっすぐこちらを見る。呼べない。けれど、合図は取れる。合図が取れれば、作戦は続く。
「大丈夫」
結衣は自分の胸に指で小さく丸を描き、親指を立てた。言葉はない。意思はある。私は同じ仕草で返す。仕草が揃うと、体育館で合わせた呼吸の感触が、ふっと戻る。戻った空気は、もう少しだけ持つ。
◇
夜。不知火は市教委の会議録に目を通し、法務担当と短い電話を終えてから、支援課の掲示板に新しい紙を貼った。
本人同意による思い出保存ガイドライン(案)
――校内実装の手順
一、保存しない自由を最初に示すこと
二、本人の言葉を、書式の上に置かないこと
三、箱はきれいすぎないこと
四、場の“汚れ”を掃除で完全に消さないこと
五、第三者が守る時、守った証拠を残すこと(雑音・粉・匂い)
紙の下のほうには、特記として「“他人に託す”は強制しない」とあった。託さない権利は、救いではなく、盾だ。盾を持つ練習から始める。支援課は、武器の作り方ではなく、持ち方から教える。
掲示板の前に、いつの間にかひかりが立っていた。彼女は紙の一行目をじっと見て、それから私の顔を見た。名前は、呼ばれない。呼ばれない代わりに、彼女は箱のふたをすこしだけ開けて、私に見せた。中には、今日という言葉と、踏切の音の紙片と、プリンの匂いを吸わせた綿と、紙の花の折り目。折り目は朝より一段深く、触ると爪が少し引っかかる。
「持ってていい?」
ひかりは、問いというより確認みたいに言った。私は頷いた。頷きは一拍。許可は二拍。三拍目で、ひかりはふたを閉じた。閉じる音は、体育倉庫のドアと同じぐらい頼りないのに、なぜか安心できる音だった。
◇
夜の校門の外で、整理パートナーズの車が、静かに待っていた。運転席の人は笑っている。笑っている顔は疲れない。疲れない笑いは、長持ちする。長持ちする笑いは、場の色を吸う。吸われた色は、うっかりすると戻ってこない。戻ってこない色は、箱で守る。箱は軽い。軽いから、持ち運べる。持ち運べるものは、逃げ場になる。
市教委からは、その夜遅くに正式な“保留”の通知が届いた。試行は継続。ただし整理パートナーズとの併用を条件に。玉虫色の文面の最後に、小さく“現場裁量を尊重”と書いてある。尊重という言葉は便利だ。責任を減らしてくれる。減った責任は、現場に降りる。降りてきた責任は、粉になる。粉になった責任は、黒板の下にたまる。たまった粉を、誰が払うか。払う手が、学校の仕事だ。
不知火は通知の画面を閉じ、机の上の紙の花を指で弾いた。音は出ない。出ないけれど、その動きだけで、部屋の空気が少しだけ動く。動いた空気は、紙の匂いを運ぶ。
「現場は原本で行く」
彼女は短く言って、電気を消した。廊下に出ると、蛍光灯の下で白い粉が浮いて見えた。粉は雪に似ている。雪は、積もると路面の傷を隠す。隠した傷は、雪解けでまた出る。出たときに、前より深くなっていることがある。深くなった傷は、触ると痛い。痛いなら、冷やす。冷やすためのタオルは、体育倉庫にある。
◇
帰り道。踏切の赤が、いつもより一拍長く点いた。風が旗を裏返すたび、看板の文字が一瞬だけ崩れて読めなくなる。私は踏切の音に合わせて、ポケットの中で指を四拍叩いた。タン、タン、タン、タン。遠くから犬の鳴き声がして、すぐに止んだ。犬は名前を使わない。匂いで覚える。匂いで覚えれば、名前が消えても困らない。困らないやり方に、すこしだけ救われる。
家の前まで来て、鍵を差し込もうとして、やめた。鍵穴は、完全に違う家のものになっていた。ポストのチラシは“居住者各位”のまま。呼び鈴の履歴には、誰の名前もない。ないことに、慣れ始めている自分がいた。慣れるのは怖い。怖いけれど、慣れなければ続かないこともある。続けるために、今日を保存する。保存した今日を、明日に連れていく。明日は、制度に箱を載せる手順を、クラスの言葉に直す。
名札の氏名欄に、もう一つ、小さな点を足した。点が増えるほど、空白は模様になる。模様には、読み方が後からつく。後からつく読み方は、たいてい合っていない。合っていない読み方でも、最初のうちは役に立つ。役に立つなら、使う。使いながら、直す。直す権利は、支援課が持つ。持つなら、守る。守るなら、濃くする。濃くした分だけ、誰かが忘れる。忘れた分だけ、誰かが立てる。立った人の足元に、粉が落ちる。粉はまた、黒板の下にたまる。
踏切が上がり、線路の向こうの歩道に、コピー用紙を抱えた少年が立っているのが見えた。白い紙は、新品だ。光沢が均一で、角が立っている。彼は私のほうを見た。目が合う。名前は呼ばない。呼べない。呼べないまま、視線だけで通り過ぎる。通り過ぎたあと、背中が少し小さくなる。小さくなる背中は、守りやすい。守りやすいものから守る。
◇
夜更け。放送室の窓に、紙の花の影が映った。結衣は机に両肘をつき、顔を伏せて一分だけ眠った。起きると、ミキサーの上に自分で書いた付箋がある。字は丸く、短い。
「明日は、黙る」
黙る日を作る。黙る日は、箱のふたを開けない。開けない箱も、持ってていい。持ってていいと、誰かが言う。言う人がいる限り、箱は空でも意味を持つ。意味があるから、捨てられない。捨てられないから、そこに溜まる。溜まったものを、時々、粉にする。粉は、雪のように降る。降った粉は、靴の裏で鳴る。鳴った音は、今日の終わりの合図になる。
私は窓の外を見て、静かに手を上げた。誰も見ていない。見ていないから、気楽にできる。気楽にできる動作が、いちばん体に残る。残った動作は、明日を始めるときの最初の一歩になる。
市教委の保留は、現場にとっては前進だ。併用の条件は、現場にとっては敵だ。敵がはっきりしているのは、ありがたい。ありがたいと感じる余裕があるうちに、やることをやる。やることは全部、もう紙に書いた。書いた紙は、粉と同じぐらい頼りない。頼りないものを集めて、場にする。場ができれば、名前がなくても居られる。居られる場所があるなら、大丈夫だ。
空は薄く曇って、星が少ない。星が少ない夜は、校庭の照明が強く見える。強く見える光の下で、紙の花は白く、折り目は暗い。暗いところを指でなぞると、指が黒くなる。黒くなった指を、私はズボンで拭いた。拭いた跡は、今日だけの模様になる。模様は、明日には薄くなる。薄くなったあとに残るのは、触った事実だ。事実が残れば、続きが書ける。続きは、明日の議題にする。
コピーの逆襲は、これから始まる。均質で、傷がなく、角が丸く、光沢が同じで、匂いがない。匂いがないものは、早く広がる。早く広がるものに、ゆっくり効く方法を、学校の言葉で作る。ゆっくり効く方法は、手間がかかる。手間は、誰かの放課後を奪う。奪った放課後の穴を、支援課で埋める。埋めるために、人を募る。募る紙は、明日の朝に配る。紙の端は、わざと少し曲げておく。曲がった端は、指に引っかかりやすい。
私は目を閉じて、踏切のテンポを思い出した。タン、タン、タン、タン。四拍。肯定。声がなくても、今日の締めくくりはできる。締めくくった今日を、箱に入れ、ふたを押さえ、二度叩く。トン、トン。音は小さい。小さい音は、長く持つ。長く持つ音は、明日に届く。
明日。原本を守る方法を、実装する。コピーの逆襲に対して、場と手と匂いで、具体に。負け方を学び、勝ち筋を薄く引き、厚みを足す。厚みは、持てる。持てるものは、渡せる。渡せるものが増えるまで、私はここにいる。名前がなくても、ここにいる。ここにいることを、今日も保存する。




