第18話 反転告白
夕暮れの渡り廊下は、昼と夜のあいだで長く伸びていた。窓ガラスに校庭のフェンスが斜めの縞を落とし、薄く冷えた風が、紙の花を一度だけ揺らして止む。ひかりは木箱を抱え、窓際で立ち止まった。ふたの縁に指を添え、口の中で言葉の温度を確かめるみたいに、そっと練習する。
「今日を保存」
囁いた途端、箱の中でなにかが微かに定位置に収まる音がした。音と言っても、他人には聞こえない類のやつだ。自分の鼓動と同じぐらい、あやふやで確かな音。ひかりは深く息を吸って、もう一度同じ文を、今度はすこしだけ明るい声で繰り返す。
「今日を、保存」
廊下の突き当たりには、相変わらず“予備席”の机がある。そこに挿した一輪の紙の花は、朝よりも少しだけ色を取り戻して見えた。夕陽のせいかもしれない。あるいは、ほんのわずかに、その花の紙が厚くなったのかもしれない。厚くなるというのは、誰かの手の脂が染み込むこととほとんど同じだ。
来校者名札を提げた僕――灯真は、少し離れた窓のそばに立ち、同じ色の空を見た。名前は呼ばれない。呼ばれなくても、視線のあいだに踏切の風が通る。窓の桟に指を置くと、昼の残りのぬくもりが、金属の冷たさの奥でゆっくり消えていくのが分かる。消えきる前の温度を確かめてから、僕はひかりに目だけで挨拶した。ひかりも、目だけで返してきた。
支援課の掲示板には、新しい案件が一枚貼られている。写真部・暗室の事故。現像液の混線で、全コマが真っ白に上がった。部誌の締切は今週末。部員の半分は落ち込み、残りの半分は「復旧サービスで戻せるらしい」と、整理パートナーズのパンフレットを握っていた。パンフには気の利いた言い回しが並ぶ。失敗の記録は不要。事故前のデータ復元。完全保証。親切そうで、どれも均一な光沢で、指の腹に何も残らない。
支援課の方針は、真逆だ。真っ白のコマを保存する。白は失敗の証拠だが、同時に始まりの色でもある。白を白のままで持つやり方を、学校で作る。方法は難しくなくていい。触れた証だけは、必ず残す。
放課後、写真部の部室前に集まると、部長の男子が苦笑いを浮かべて頭を下げた。彼の笑いは癖で、困ったときほど角が立つ。角が立つ笑いは、見る側に少しだけ罪悪感を配る。彼は悪くない。混線は、たぶん誰のせいでもない。
「全部、真っ白で。もう、笑うしかなくて」
「笑う前に、置いとこう」
不知火が短く言って、暗室の扉に手をかけた。結衣はミキサーのケースを持ってきてはいたが、電源は入れないままだ。卓上に置いたのは、メトロノームだけ。針は止まっている。必要になったら動かす。必要の前に音を用意して散らかすのは、今日はしない。
暗室の中は赤い安全灯で満たされている。流し台の縁に並ぶ写真の束は、どれも均一に白い。光が暴れたあとの白。目を細めて見ても、何も出てこない。白は、探しても出てこないときがいちばん白い。
「ここから、反転の儀を始めます」
不知火の声は淡々として、しかしどこかで体育館の残響を覚えている。彼女の腕章の群青が、暗室の赤の中で灰色に見える。仕分け人の分身――整理パートナーズの“技術員”に化けた影が、いつの間にか入口に立っていた。ネームプレートには、読みやすい名字。怒らない目。疲れない口元。
「弊社なら、事故前の状態に復元できます。白紙は不要です。経済的にも、心理的にも」
不知火は入口に立ちふさがり、片手で腕章を示した。
「ここは支援課の試行権限の範囲です。触らせません」
技術員は肩をすくめ、敬語の角度を一段寝かせた。笑わないまま、退かないまま、言葉の調子だけ下げるやり方は、誰にでも優しいように見えて、誰の体温も拾わない。
「では、お好きなように。効率を壊す自由も、尊重します」
結衣が、その言葉にだけ小さく眉をひそめた。けれど、反論はしない。今日は言葉で勝つ日ではない。言葉を置く日だ。
「ひかり、お願い」
僕が視線で合図すると、ひかりは木箱を脇に置き、暗室のカーテンの端を押さえた。指先に赤い光が薄く乗る。彼女はふたたび深呼吸をして、白紙の写真を一枚、流し台から持ち上げる。ひかりの手のひらの油分と、黒板の粉の名残が、白のうえにゆっくりと薄い影を作り始めた。鉛筆ではなく、手で描く影。指の腹の温度と、紙の繊維が作る、偶然の濃淡。
「白を怖がらない」
結衣の字幕が、暗室の赤に溶け込む。メトロノームはまだ動いていない。針は、止まっているから効く。止まっているものは、基準になる。
僕も一枚、白紙を持った。現像液の匂いは薄い。暗室の壁の銀の香りがわずかに残っていて、鼻の奥で金属音に近い記憶を叩く。僕は左手で写真の角をつまみ、右手の人差し指でそっとさする。指先のふくらみで、輪郭を置く。輪郭は、僕のものとひかりのものが重なるように、ほんの少しだけ内側へ寄せた。二つの影が、白紙の中で出会う。
安全灯の赤が、その影に血色を足した。赤い光のせいで、影の黒が柔らかく見える。柔らかい黒は、強い。潰れない黒は、見続けられる。
「偽造です」
技術員が、小さく息を吐いた。ため息の音は、礼儀の範囲で行われる反対意見の合図だ。彼は続ける。
「原画像を復旧するべきです。根拠のない影は、記録として不適切です」
僕は首を振った。声は出ない。だから、言葉は紙に置く。メモを一枚取り、短く書く。
〈原本は“ここに立ち会った身体”だ〉
不知火がそれを見て、頷く。結衣の字幕が追う。
「事故の白は、始まりの白でもある」
静かに、暗室の空気が入れ替わる。換気扇が少し強く回り、壁の紙がわずかに鳴った。ひかりは白紙の一枚の端に、細い文字で「今日」と書いた。躊躇いを捨てきれない線は弱い。でも、弱い線には再現できない震えがある。弱い線は、手の重さの記録だ。
僕は別の一枚の端に、手の甲を押し当てた。インクの薄い自分の名前が、紙に触れて移るほど濃くはない。けれど、体温の跡は確かに残る。押し当てたときの四拍を、現像皿の縁で鳴らす。タン、タン、タン、タン。肯定のリズム。声が出ないかわりに、手が言う。
赤の中で、音が立ち上がる。紙と紙が擦れるシャリという音。Aの音みたいに正確ではない。不揃いで、ばらばらで、でも、ここにいる人間の手が動いた音だ。音は、白に影を生む。きっかけはそれだけでもいい。
技術員は入口のところで腕を組み、無表情のままこちらを見ている。彼のやり方は、いつだって正確だ。正確さは人を救う。でも、正確さだけでは救えないときがある。支援課の出番は、そういう時刻にしか来ない。
「反転させる」
不知火が、針を一度だけ鳴らした。カチ、と乾いた音。暗室が、わずかに震えた。天井の換気扇の回転が一段上がり、流し台の上の白紙が、ふわりと舞い上がる。舞い上がった紙の白の間を、黒い“影の破片”が漂ってきた。現像に失敗したはずの写真の内部から剥がれ落ちた輪郭たちが、吸い寄せられたみたいに白紙の上に寄り集まり、パズルのピースみたいに、ところどころへはまりこんでいく。
完全な復元ではない。別の現実だ。けれど、濃度がある。濃度があれば、持てる。持てるものは、引き出しにしまえる。引き出しにしまえるものは、開けるタイミングを選べる。
ひかりは僕を見た。安全灯の赤で目尻が濡れて見える。泣いてはいない。赤いだけだ。けれど、濡れて見えるほうが、言葉が滑りやすいこともある。
「質問」
彼女は呼吸を整えた。短く吸って、短く吐いて、一拍置く。言葉が落ちる場所を、先に空ける。
「あなたは、私を好きなんですか」
反転の告白。誰かが誰かに言うときの順番を逆にした言い方。返事の難易度は、上がる。上がるけれど、質問が先にあると、世界はすこしだけ優しくなる。僕は喉に手を当てた。声は出ない。出ないから、嘘がつけない。
現像皿の表面を、四拍で叩く。タン、タン、タン、タン。間隔は均等。速くも遅くもなく。最後の一拍のあと、もう一度、同じ四拍を、同じ速さで繰り返す。肯定のリズム。否定のリズムは、三拍で止まる。肯定は、四拍で続く。
ひかりは目を閉じた。長く閉じない。短く閉じる。閉じたまぶたの裏に、赤が広がる。彼女は一拍置いてから、白紙の裏に何かを書いた。シャッ、という短い摩擦音。あて名。けれど、名前は書けない。名前は、まだ書けない。彼女は代わりに、小さな印を描いた。ハートに見える。そう見えるなら、たぶん、それで合っている。
結衣の字幕が、今度は本当に短かった。
「保存」
その一語のあと、字幕は消えた。消えて、暗室の赤が、ただの赤に戻った。
◇
覚醒の後、写真部の壁には、新しい集合写真が貼られた。白に影を描き足した“反転写真”。輪郭線は細く、ところどころ指の腹の跡が濃く、笑い声は余白のノイズにそのまま残った。誰かの髪の跳ね方に指で影が足され、誰かの頬のくぼみに赤の名残が沈んでいる。部員たちは写真の前で立ち止まり、何度も近づいては離れて眺めた。
「これでいい」
部長が小さく言って、黒板に次の撮影計画を書き出した。テーマは“間に合わなかったもの”。締切に間に合わなかった文化祭のポスターや、雨で中止になった試合の空っぽのスタンド。失敗という言葉を、日常の端でこすり直す。擦り直すたびに、色が変わる。
整理パートナーズのパンフは、ゴミ箱に丁寧に畳まれて入っていた。捨て方まで几帳面なのが、この学校の良さで、悪いところでもある。悪いところをそのままにしておくのも、今日は許される。
代償はまた進んだ。昼休み、ひかりは“予備席”の机に、紙の花を一輪、そっと置く。誰かの目を盗むんじゃなく、誰でも見えるように、真ん中に置く。彼女は箱を抱いたまま、机の前で立ち止まり、小さく声を出す練習をした。
「好き」
宛先は、呼べない。呼べないから、空白が挟まる。空白は、息の置き場でもある。彼女はその空白を大事にして、言葉をもう一度、同じ高さで置く練習をした。
放課後、支援課に公式通達が届く。整理パートナーズ、学校向けパッケージ提供開始。初月無償。保護者個別契約の流入、多数見込み。文面は丁寧で、語尾は丸い。丸いほど、背筋が冷える。不知火は紙を置き、奥歯を一度だけ噛みしめた。
「法改正の試行を、先につなげる。制度のほうから、あの箱を守る」
結衣は短い相槌で答える。「やる」。彼女の短さは、今では十分な情報量を持つ。
夜。踏切の赤はいつも通り点滅している。風が一度強くなり、赤が薄く揺れた。ひかりは携帯のメモを開き、画面に小さく文字を打ち込んだ。
( )好き
括弧の中身は空白だ。空白のまま保存する。中身がないのではない。中身は呼べない。呼べないものを、呼べないまま持っている。これは弱さではなく、準備だ。括弧は、言葉が入る準備のかたちをしている。
僕はすこし離れた場所で、踏切のテンポを机の脚で刻んだ。タン、タン、タン、タン。赤が二回、三回。風が抜け、匂いが変わる。遠くで、海の目覚まし時計が一度だけ鳴る。鳴って、すぐ止む。止むまでの一秒が、今日の終わりの合図だ。
家の鍵穴は、もう完全に合わなくなっている。ポストのチラシは“居住者各位”のまま。近所の犬は、匂いで尻尾を振る。犬は名前を使わない。名前を使わない世界のやり方を、少しだけ羨ましく思う。けれど、羨ましさは、今のところ、行動に変えなくていい。箱の中身を増やせばいいわけでもない。今日を保存したなら、今日は今日のまま終える。
支援課の掲示板の下段には、明日の時間割が貼られた。法改正(試行)に向けての準備会。教職員、保護者代表、生徒代表。議題は一つ。「本人同意による思い出保存ガイドライン(案)」の校内実装。反対意見は出るし、反論は短く。短さは、いまの僕たちの強さだ。
渡り廊下の窓ガラスに、紙の花が映る。映ったほうの花は、少し背が高い。映り込みのせいで、現物よりも強気に見える。強気に見える花は、夜の風で折れやすい。でも、折れた花の紙は、箱に入る。箱に入れば、折れ目は手触りに変わる。
ひかりは木箱を抱え直し、また短く囁いた。
「今日を、保存」
言い終えた瞬間、僕の喉の奥で、出ないはずの声が、出ないまま熱を持った。声にならないものは、身体のほうへ降りていく。降りていった熱は、手の甲のインクを、指先でなぞったときの温度と同じになる。なぞるたびに、名前の線が薄く強くなる。薄く強い線は、明日を連れてくる。
反転告白は、終わっていない。問いはそこで完結しない。問いは、保存される。保存される問いは、箱の中で、息をする。息をするものは、次の場面へ出られる。次の場面は、制度のほうにある。制度は、呼ばれない名をどこまで許容するか。許容しきれないなら、こちらからかたちを作る。
赤が、また一度、光った。僕は現像皿の縁を、四拍で叩く。遠くの暗室の気配は、もうここにはない。それでも、リズムは届く。届いたかどうかは、誰も証明しない。証明しない自由が、今日の僕らの味方だ。
夜の校舎に、足音がひとつ。ひかりが一度だけ振り向き、頭を下げた。宛名は、呼ばない。呼ばれない名前は、呼べないままでいい。今は、まだ。
明日、法改正(試行)。箱を、制度に載せる。載せたときに、こぼれるものがある。こぼれたものを、箱の外で拾う役を、誰がやるか。支援課はそのために、人数を増やす。増やす前に、今日を保存。保存した今日を、明日に連れていく。それが、学校でやるべき仕事の、正しいサイズだと思う。
帰りぎわ、空席の机の紙の花に、夕凪の風がもう一度だけ触れた。折り目が一つ増え、花びらが少しだけ濃くなった。濃くなった花は、暗くても見える。暗くても見えるものは、夜に強い。夜に強いものを、箱に入れる。入れた箱を、抱えたまま眠る。眠ったまま、明日へ落ちる。
落ちる前に、僕は手の甲を見た。薄いインクの線は、今日のところはまだ読める。読めるなら、十分だ。読めるうちは、書き直さない。書き直さない日が、続いてほしいと、ほんの少しだけ思った。続かなくても、箱がある。箱があるなら、やれる。
赤が、消えた。風が止まった。僕たちはそれぞれの帰り道に散った。踏切の向こうの夜は、明日に続いている。明日、僕らは、法の言葉を教室の日本語に直す。直した言葉で、箱を守る。守った箱で、人を守る。人を守るふりではなく、人を守る。ふりは白い。守るは濃い。濃いものは、持てる。持てるうちは、手放さない。手放さないと決めたら、負担は増える。負担は、学校の仕事だ。仕事があるのは、ありがたい。
僕は笑った。声は出ない。出ない笑いは、箱のふたの上で音になった。タン、タン、タン、タン。四拍。肯定。いい夜だった。いい夜は、保存する。保存した夜を、明日に連れていく。




