第17話 最初の箱
放課後の図書室は、いつもより少しだけ薄暗かった。高い棚の上段で、夕陽が本の背から背へ移っていく。窓を半分だけ開けてあるから、紙とワックスの混ざった匂いに、外の風の乾いた匂いが重なる。支援課は今日は教室を出て、この場所で集まることにした。静かすぎると眠くなるし、うるさすぎると気が散る。図書室の空気は、その中間を固く守っている。
閲覧机の上に、同じ形の木箱が三つ。ラベルは白紙。ふたの縁は丸く削られ、指でなぞると、木目がぬるい波のように返ってくる。側面には四つの小さな枠が彫り込まれている。音、におい、手触り、言葉。入れるのは、それだけだ。たくさん詰めれば良くなる種類の箱じゃない。むしろ、少ないほうが強い箱だ。
「名前は後でいい。まずは中身を決める」
不知火が言って、タブレットを閉じた。腕章は群青。肩に力は入っていないけれど、背筋の線はまっすぐだ。結衣は卓の角に腰掛け、短いメモをいくつか並べる。走り書きの文字が、今日に限ってやけに丸い。彼女は長く話すかわりに、四角い紙片に一行ずつ書いて、相手の目の前に滑らせる。
ひかり、みのり、そして一年生の青木。三人の前に、それぞれ一つずつ箱が置かれた。
「対象は三人同時。本人同意の保存の試行、第一回目」
不知火の声は淡々としている。重要な場面ほど、余計な抑揚を捨てる。灯真――つまり僕は、声を出さず、箱の角を撫でるだけにした。木のささくれが指の腹に当たる。痛いほどではない。けれど、曖昧でもない。原本の証拠は、たいていこういう微細な痛みだ。コピーの表面は、たいてい滑らかすぎる。
「音は?」
結衣が一枚目の紙片をひかりに渡す。ひかりは少し迷って、鉛筆でひらがなを四つ書いた。
「ふみきり」
その言葉だけで、図書室の奥の空気が少しだけ赤くなるように感じた。彼女の箱のふたを開け、音の枠のところに紙片を滑り込ませる。ふたを閉めると、箱の中から、遠いところで鳴る金属の打音が、ほんの少しだけ上向いて消えた。
「においは?」
「プリン」
ひかりの答えは早かった。笑いそうになるのをこらえたのが分かった。笑いを押し戻したときの頬の筋肉の柔らかさが、彼女の「今」を教えてくれる。結衣が小さなプリンの蓋の切れ端を差し出す。銀色の円の一部。箱の中に入れると、ふたの裏に甘い匂いが薄く貼り付いた。
「手触り」
「紙の花の折り目」
ひかりの指が、無意識に折り目を作る形になる。空気の中で、三角が二回続き、花がひとつできた気配がした。
「言葉」
ここで、ひかりは長く迷った。鉛筆の芯の先が空中を泳ぎ、空気に点を打っては消し、どれもそこには残らなかった。数十秒の黙考のあと、彼女は短く書いた。
「今日」
箱はそれだけで重くなった。今日という言葉は、軽そうな顔をして、重い。持ち歩けば、底がすぐすれてくる。すれる音が、歩く音に混ざる。
「次、みのり」
学級委員の彼女は、順番が回ってくる前から、選び終えている顔だった。迷っているふりをしない。迷ってないふりもしない。きちんと考えて、きちんと選ぶ。
「音は体育倉庫のきしみ。においは床用ワックス。手触りは出席簿の布の端。言葉は――」
彼女は、ひかりのほうを一度だけ見た。
「休んでいい」
箱の中で、体育倉庫のドアが小さく開いた。ワックスの匂いは、体育館の天井の高い空気を連れてきた。出席簿の布の端は、手の汗を吸って、少し重くなる。言葉は、重さではなく温度を持っていた。温度は箱の木目に移り、中から外へ薄く滲む。
「青木」
一年生の彼は、真っ直ぐな背中で座っていた。吹奏楽部の腕章が制服の袖に見えて、本人はそれを恥ずかしそうに隠そうともせず、そこにあるままにしている。
「音はA。においは金管の油。手触りは譜面の角。言葉は、最初のミス」
Aの音を紙に書くとき、彼は思わず口の中で音を鳴らした。唇がわずかに震える。譜面の角に指先を当て、紙の断面の硬さと、めくる前のわずかな抵抗を思い出す。最初のミス、という言葉には、少しだけ照れが混ざった。照れは隠せる種類の感情だけれど、隠さないほうが強く残ることがある。箱は、そういう残り方を受け止める。
それぞれの箱に、四つの枠が埋まった。あとは、宣言するだけだ。箱の四面に手を置き、自分で決めた四つを、箱に告げる。自分に向けて。未来に向けて。誰かに読ませるためではなく。
「ガイドラインの文言、最終確認」
不知火がタブレットを開き、固い語を柔らかい語に置き換える。保持者の権利→持ってていい権利。保存期間→忘れなくていい期間。外部への提供→見せるときのルール。本人同意→自分で決める、の証拠。不知火の指は、法律の言い回しを、教室の日本語に翻訳していく。専門家が専門家のために書く言葉は、子どもに届かない。その距離を詰めるのが、今日の仕事の半分だ。
結衣は短いキャプションを作っていく。箱は私のルール。箱のふたは私のタイミング。箱の中身は、今日変えてもいい、明日も変えていい。変えない自由も、ある。彼女の文字は短いほど強くなり、行が短いほど余白が生きる。
僕は木箱の角に指をかけ、ほんの少し持ち上げては戻した。引き出しの上げ下ろしの練習みたいに、角度と重さの関係を体に覚えさせる。箱は、持ち出すために作るのではない。ただ、持てるようにするために作る。持てると知るだけで、何も変えなくても変わることがある。
「入るよ」
不知火の一言で、図書室の空気がひとつ縮み、ひとつ伸びた。昼間に借りられなかった本が、夕方にだけ息をするみたいに、ページの隙間から風が漏れる。結衣が電気を一つ落とす。外の明るさに合わせて、部屋が自分の暗さを決める。
落下。
◇
夢の礼拝堂は、いつもより明るかった。窓は高く、床は冷たい。祭壇の上に白紙の束が置かれている。支援課 定款。タイトルだけ印刷済みで、本文は白い。白紙のくせに重いのは、そこに何かが書かれる予定だからだ。予定は、ときどき最初から重い。
三つの木箱は、祭壇の手前に並んだ。光の角度で、ふたの縁が金色っぽく見える。編集者は現れない。かわりに、仕分け人が窓口を引きずってきた。郵便局の時と同じ、無地の台。笑わない、怒らない、疲れない顔。チラシの束を持っていて、枚数は尽きない。
「箱の管理は弊社が。無料で。安全です。効率がいい」
その言い方の丸さは、体育館で聞いたものと同じ角度だ。丸い言葉は、眠い頭にやさしい。けれど、やさしすぎる言葉は、あとで眠気を重くする。僕は黒板の雪が落ちたあとの床の白を思い出し、仕分け人の視線から目を逸らした。
「本人がやる」
不知火が前に立った。仕分け人は肩をすくめ、窓口の透明板を指で叩く。指先は冷たくも熱くもない。板は、境界の音を出さない。
「儀式は単純です」
結衣の字幕が、礼拝堂の壁に短く浮いた。文字は薄い。薄いけれど、滲まない。
「四面に触れ、宣言する」
ひかりが最初に箱へ手を置いた。左の側面。右の側面。奥。手前。掌の温度が木に移る。彼女は息を吸い、吐き、目を開けた。
「今日を保存する」
踏切の音が礼拝堂の鐘と同じ高さで鳴り、重なって、少しだけ速くなる。プリンの甘さが空気の中で薄く広がり、紙の花の折り目の感触が、指の腹に残る。彼女の「今日」は、今日の中でも午前と午後を選ばず、全体でひとまとまりになった。箱がそれを受け取り、ふたの裏に貼った。
みのりが続く。手を置く動きに迷いがない。無理に強くもしないし、弱くもしない。
「休んでいい、を保存」
体育倉庫の匂いが、舞台袖のドアの隙間から入ってくる。放課後の汗と石鹸の中間。出席簿の布は、掌の汗を薄く吸い込む。吸い込むことで、滑らず、手のひらの真ん中で言葉が安定する。
青木は喉を鳴らしてから、箱に触れた。緊張が立ち上って、すぐに落ちる。彼の緊張は、上がりっぱなしにならない。上がって、落ちる。落ちる時に、呼吸が整う。
「最初のミスを保存」
Aの音が正しく鳴る。彼の口の中で鳴った音と、礼拝堂の梁で鳴った音が、途中で少しだけずれて、最後に合う。譜面の角で指先を軽く切った。痛みは驚くほど小さく、それでも血は出た。血は箱のふたの内側に、一滴、滲んだ。
「血は非効率」
仕分け人が言った。笑ってはいないが、言葉の角は立っていない。彼らは怒らない。怒らないのに、痛みを嫌う。
僕は箱のふたを四拍で叩いた。Aの音は鳴らない。代わりに、自分の鼓動が、掌から箱へ伝わる。結衣の字幕が短く浮かぶ。
〈痛みを隠さずに持つ〉
仕分け人は肩を少しだけ上げ、少しだけ下げた。「自己責任で」。その言葉は、重くも軽くも聞こえた。自己責任という語は、乱暴に使われると人を傷つける。けれど、自分で決めた箱のふたの上に置けば、責任は重さではなく、握り方になる。握り方は、練習できる。練習は、学校の本分だ。
白紙の「支援課 定款」が風でめくれた。一枚だけ、音もなく。白紙は白紙のまま、めくれて止まった。何も書かれていないのに、ページの厚みが一瞬だけ増した気がした。
◇
覚醒。図書室に、紙の花の擦れる音が戻ってくる。三人は箱を抱いて椅子に座り、目を閉じる。箱は音を立てない。箱の中で、音・におい・手触り・言葉が静かに胸に整列する。ひかりは箱のふたを指先で撫でた。
「今日は、明日に連れていく」
言った瞬間、彼女の声の高さが半音だけ落ちた。落ちたことで、声の幅が広がった。みのりは箱を膝の上で支え直し、まっすぐ前を見た。
「“休む”を教室の真ん中に置く」
青木は照れ笑いをした。笑いは小さくて、目の奥に本気の色があった。
「最初のミスを誇りにする」
ふざけて言っているわけじゃない。誇りにしようとしている。しようとしている、という未来形の重さが、箱に移る。支援課の掲示板には、すぐに新しいステッカーが貼られた。箱を持ってていい。字は太くない。太くないけれど、薄くもない。見るたびに、今日の箱の位置を思い出せる程度の存在感で貼ってある。
不知火はタブレットに指を走らせ、法的な言い回しの最後の角を取った。結衣は短い文に句点を打ち、句点を増やし過ぎないように、一度息を止めた。短い息が、文の間に小さく座る。息が座ると、行間が呼吸する。
僕は三人の顔を順番に見てから、空室になった旧視聴覚室に向かった。ここにはもう誰も来ない。椅子は隅にまとめてあって、カーテンは少しだけ傾いている。スクリーンには指の跡が残っていて、埃に指で書いた文字が、半分だけ消えている。黒板はない。かわりに、スピーカーの網の目が、黒板の雪の代わりをしている。
机の上に、もう一つの箱を置いた。作っておいた、自分の箱だ。音は海の目覚まし。においは塩風。手触りは黒板の粉。ここまでは、迷いがなかった。最後の枠、言葉。ペン先が止まった。止まったまま、長い時間が過ぎていく。腕が疲れて、握り方が変わる。ペン先は紙に触れていない。触れないまま、僕は手の甲に文字を書いた。自分の名前。箱の中には入れない。身体に刻む。名前は、もう誰にも呼ばれないかもしれない。けれど、手の甲の薄いインクは、僕にだけ読める。
ふたを閉める。箱は軽い。軽いけれど、持つと手首に重心が寄る。寄った重みが、歩き方を変える。歩き方が変わると、考え方も少し変わる。支援課がやりたいのは、そういう変わり方だ。形を変えずに、中身を持てるようにする。
校門の外で、犬が尻尾を振った。名前は使わない。犬は匂いで覚える。僕はしゃがんで、頭を撫でた。犬の毛は清潔で、少しだけ静電気が指に移った。犬は名前を使わないのに、僕の手の匂いを覚える。覚えられるのは、救いだ。
◇
夜。不知火のタブレットが震えた。法改正案の内部審査、通過。本人同意保存の試行、市内五校で同時に。文章は短い。短いけれど、意味の幅は広かった。同時に、整理パートナーズのサイトが更新される。学校向け包括契約、無料支援、初月無償、成果保証。彼らの広告の文言は、こちらのガイドラインの言葉を巧妙に模倣していた。持ってていい権利、というフレーズまで、ほとんど同じ角度と太さのフォントで踊っている。
「先に守る」
不知火は小さく言って拳を握った。拳の中に粉が残っていて、その粉はいくら握っても消えない。粉は、今日の体育館の雪の残りだ。校舎のどこかから、まだ旅を続けてきて、ここに落ちた。
結衣は端末を閉じ、短い文を一行だけ打った。
「まねされるってことは、効いてる」
彼女の行はそこで終わる。余白が、次の行を促しはしない。促さないのに、安心する。短い行は、夜に強い。夜は、短い文に味方する。長い文は、朝に回せばいい。
支援課の掲示板には、今日の記録の下にもう一枚、紙が貼られた。明日の予定。旧理科室のシンクの水栓の手触りの固定化、廊下の蛍光灯のフリッカー数え、窓の桟の冷たさ二秒。くだらない、と笑う生徒もいるだろう。それでいい。くだらないものは、原本の証拠だ。コピーはそこに弱い。
帰り道、踏切の赤が夜に点滅していた。夜風が赤を薄く揺らす。遮断機は上がっている。線路の向こう側の歩道に、知らない少年の影が立っていた。制服はうちの学校のものではない。髪は少し長い。背中の線に、名前がない。名前のない背中は、風の中で輪郭が薄くなる。けれど、消えない。
彼は僕を見た。見て、何も言わなかった。その沈黙は、怖さではなく、選んだ沈黙のかたちをしていた。僕も何も言わなかった。声は出ない。出たとしても、ここでは使わない。
踏切の赤が二回、三回。僕は胸ポケットの箱に指を添えた。箱は静かだ。静かだけれど、たしかにそこにある。そこにある、を持って帰る。
図書室の窓の外に、黒い空。支援課の小部屋で、紙の花が擦れる音が、小さく、小さく続いている。明日は「箱を持ってていい」を、教室の真ん中に置く。休むの隣に。今日の箱は、明日に連れていく。箱のふたは、僕のタイミングで開ける。開けない自由も、ある。
赤がひとつ消え、夜が一段、深くなった。遠くで、海の目覚まし時計が一度だけ鳴った。鳴って、すぐ、止まった。空気が入れ替わる。粉がわずかに舞い、落ちる。落ちた粉は、明日の朝、誰かの袖に移る。袖の白は、触れた証になる。証があれば、夜は越えられる。
最初の箱は、今日、生まれた。今日は、明日に連れていく。明日、また確認する。箱はそのためにある。確認するときに、僕は僕の名前を呼べないかもしれない。呼べなくても、手の甲のインクは薄く残る。残る薄さを、今日のところは、誇りにしていい。
踏切の向こうの少年が、やっと口を開いた。何かを言いかけて、やめた。やめる権利が、彼にある。その権利がある限り、ここはまだ、学校だ。
僕はうなずいた。彼は、うなずき返した。赤が、またひとつ、光った。
次は、反転告白だ。彼が何を言うにせよ。僕が何を言えなくても。ここから先は、箱の中身で会話をする。音で。においで。手触りで。そして、短い言葉で。




