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Loop~君の悪夢を何度でもやり直す僕の話。  作者: 妙原奇天


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第16話 字幕が壊れる日

 深夜の放送室は、昼間の熱を手放した楽器みたいに冷えていた。防音ガラスの向こう、真っ暗な廊下に非常灯が二つ、緑の点で浮かぶ。コンソールの上で、ミキサーのフェーダーは印の位置に揃えてあって、誰が見ても「ここから上げない」の約束が分かる。柊結衣はヘッドホンを首に掛け、モニターの波形を見ていた。基音のAは、毎夜同じ高さで校舎を縫うはずだった。けれど今日は、その緑の線が、見えない指に撫でられているようにゆらぎ、揺れ、かすかな波頭を作る。


「……私の手が、遅い?」


 自分に言い聞かせるように呟いた瞬間、耳の奥で砂嵐が走った。ザーッ、と古いテレビのチャンネルが外れたみたいな音。ディスプレイに文字化けした字幕が勝手に流れ始める。結衣がかつて打ったことのある言葉が、覚えのないフォントで帰ってくる。


〈アリガトウヲイワナイケンリ〉

〈アナタノコエハコエデハナイ〉

〈ラクトカイッテ ラクシテナイモノダケ オオキクナル〉


 行送りの乱れたテロップが、画面の下のほうからにじみ上がり、設定していない速度で流れていく。フェーダーは上がっていない。ホールトーンも切ってある。それなのに音が勝手に変調し、モニターの波形は腹の底で笑うように歪んだ。ヘッドホンを耳に当てると、基音の裏に別の音が混じっている。自分の声の残滓。夜の残り香みたいな、過去の放送の埃。結衣はヘッドホンを外し、両手で耳を塞いだ。イヤーパッドの合皮が少し冷たい。


 やばい、と口が勝手に言った。やばい、という言葉を自分で嫌いながら、他の言い方が見つからない。画面の字幕は流れ続ける。文字の縁が多すぎて、目が痛む。結衣はミキサーの電源を落とそうとして、指を止めた。消すだけなら簡単だ。けれど、この夜がなぜ起きているのかを、明日の朝に説明しなくてはいけない。説明は、誰かのためにある。彼女は深呼吸して、波形の上に手のひらを翳した。温度が戻る。波形の揺れは止まらない。目の奥で、別の字幕が点滅した。


〈ジブンノコエニ タイシテ ツコウリョクガ タリナイ〉


 結衣はスクリーンを閉じた。翌朝、説明すればいい。今夜だけは、眠ろう。ミキサーの電源をきちんと落とし、フェーダーを下げ、卓の上をハンカチでひと撫でして、鍵を掛けた。帰り道、渡り廊下に紙の花の擦れる音がした。花びらの縁が眠気を撫でる。眠りは落ちるものだと知っている彼女が、眠れないまま夜に沈んだ。


     ◇


 朝の支援課会議。不知火は腕章を指で整え、ホワイトボードに短く書いた。


 柊結衣:言語の飽和


 会議室の窓から差し込む日差しで、細かい粉塵が浮いている。粉は昨日の体育館からまだ旅を続けているらしい。結衣は椅子に浅く腰掛け、手を膝に置いている。指先の震えはない。ただ、落ち着きすぎている気配がある。言葉の多い人間が、急に静かになるときの静けさだ。


「意味の飽和だ」


 不知火は淡々と言った。


「この数週間、君の“語り”が制度の穴を言葉で埋め続けた。無音だった場所に意味を流し込み、穴に蓋をし、橋を架けた。仕事として正しい。だが、言葉の供給には上限がある。言語そのものの筋肉が疲弊している。飽和した言葉は、ノイズに変わる。ノイズ化する前に、沈黙の介入が必要だ」


 灯真は頷き、メモに〈何も言わない訓練〉と書いた。筆圧を強くしない。カタカナにも数字にも逃げない。ただ、その行を黒く濃くする。


 結衣は苦笑いした。目尻が少しだけ柔らかい。


「放送部なのに、無言の訓練? 皮肉が過ぎるよ」


「放送部だから、できる」


 不知火が返す。


「無音の一分で、校舎の基音を取り戻せるのは、放送部だけだ」


 結衣は肩をすくめ、片手を挙げた。「了解」。その短い返事だけで、どれだけ多くを理解しているかが伝わった。理解の密度は長さに比例しない。彼女自身が、何度も証明してきたことだ。


     ◇


 準備は手順で進む。放送室のガラスに紙の花を貼る。貼りすぎない。角だけ。結衣が花の並びを微調整し、反響を抑えるために厚手の毛布を卓の下に垂らす。ミキサーの電源は落としたまま。フェーダーは触らない。触れない場所に置く。触らない勇気。結衣は笑い、眉をしかめた。


「ねえ、やっぱり可笑しい。私、放送部だよ?」


 灯真は親指を立てた。声は出ない。けれど、親指が上がる速度と角度に、迷いは映る。迷いを見せてよ、と結衣は一瞬思い、それを自分で笑った。迷いを見せるのは勇気だ。今日の放送は、勇気の練習だ。


「無音の放送は、放送部が一番うまくできる」


 灯真がメモに書いた言葉を、結衣はそっと読んだ。読みながら、何度か唇の形で同じ言葉をなぞる。言葉は音にならず、唇だけで輪郭を作る。その輪郭が、今日の行動の枠になる。


     ◇


 入眠。落下。結衣の夢は、字幕だらけの教室だった。黒板の上にも、天井の角にも、窓の桟にも、机の側面にも、白いテロップが流れている。重なった字幕の影が視界を暗くし、ひらがなの尾は尾に絡まり、句点が粘ついて床に落ちる。歩くと、踏んだ音の上に「歩いた」と字幕が乗る。息を吸えば「吸って二拍」。吐けば「吐いて二拍」。意味の木目が過緊張でささくれ立ち、椅子に座る音にまで解説が追いかける。


 編集者は今回は、黒い帯を持って現れた。放送でよく見る「テロップ消し」の黒帯だ。彼は無表情で、画面の下から上へと帯を滑らせ、一段一段、字幕を引き剥がしていく。敵ではない。むしろ、呼吸を与える役。消し過ぎれば空洞になるから、消し過ぎないように帯は幅を保ち、速度を保ち、黒の質感を保つ。黒は色ではなく、余白だ。


 灯真は結衣の隣に座った。椅子の脚が床を噛む。声は出ない。スイッチもない。何かをするのではなく、居る。机に手を置き、指先で四拍を刻む。Aの音がない世界で、別の基準を探す。静脈の鼓動は、思ったより正確だった。結衣は最初、落ち着かない。落ち着かない、という言葉が、彼女の頭上に字幕で出る。


〈シャベレナイノコワイ〉


 字幕のフォントは角ばっていて、やや古い。結衣は自分の上に現れたその言葉を見上げ、苦笑を無理に形だけ作った。


「しゃべれないの、怖い」


 声にならない声が、喉の奥で跳ねて消える。灯真は肩を寄せ、無言のまま目を閉じた。目を閉じる、は合図だ。合図は音でなくてもいい。合図は目でも、呼吸でも、触れた気配でもいい。


 編集者が黒帯で一段、字幕を消す。黒い帯が流れた後に残るのは、ガラスを拭いたみたいな透明な筋。結衣はその空白を指でなぞる。指先に何も触れない感触が、逆に触れた証になる。次の一段。さらに空白。窓から朝の風が入る。字幕の密度が少し下がり、教室の天井が高くなる。天井が高くなるだけで、呼吸は胸まで届く。


 空白の筋が五本になったあたりで、結衣は自分の椅子を引いた。黒板の前に立つ。黒板は、夢の中でも黒板だ。表面のざらつき、チョークが最初に滑るときの微かな拒否。手がその拒否に負けない力で押して、細い白を置く。彼女はいつも、他人のために文字を書いた。今は、自分のために、点を打つ。ひとつ。点は点でしかないのに、黒板は点を受け入れた。


 Aの音はない。代わりに、自分の血の音が鳴る。耳の後ろで、高鳴りと落ち着きが交互に押し合う。結衣はチョークの先で、黒板に、初めて音のない字幕を書く。


〈(無音)〉


 括弧で囲まれたその言葉は、言葉ではない。意志だ。括弧の間に、沈黙が座る。編集者の黒帯が止まり、彼は軽く礼をした。消す役目は終わったらしい。彼が去っていく足音の上にも字幕は出なかった。黒板の前に残ったのは、点と括弧だけ。教室の空気は、点と括弧の周りで姿勢を正す。


 結衣は肩で息をした。これでいいのか、という問いが頭の隅で顔を出す。問いに答えるための言葉を探す癖が、まだ体に残っている。癖が声帯を探し、喉の奥で迷い、舌先でほどける。そのほどける音も、今日は字幕にならない。なるべきではない。灯真は黒板の端に手を添え、目を閉じた。閉じた目の裏で、四拍が続く。四拍に、無音の括弧が重なる。四拍の上に、括弧が乗る。括弧は軽い。軽いものは、固定化しにくい。だから、今日だけは、括弧の中に紙の花を一枚置いておく。結衣はそう思い、指先で空中に小さく花の形を描いた。


     ◇


 覚醒。放送室のミキサーの電源は切れたまま。コンソールのランプは一つも灯っていない。結衣はマイクの前に座り、時計を見た。長針がちょうど十二を指す。彼女はマイクに手を伸ばし、触らない。ボタンを押していないのに、校舎に音は流れない。無音の放送が始まる。無音は、放送だ。放送は、無音を運べる。結衣は背筋を伸ばし、目を閉じ、一分間、何も言わない。


 校内に流れるのは、何もない音。何もない、は何も起きない、とは違う。誰かの咳払い。誰かの椅子の軋み。誰かがシャープペンの芯を出す、細いクリック。購買の戸棚が閉まる音。理科室で水道の蛇口が空回りする音。合唱部の発声が遠くの空気を押す。原本の生活音が校舎に戻る。無音の一分が終わると、教室の空気は軽くなり、生徒たちの囁きが自然に戻った。囁きは戻って、すぐに散り、それぞれの机の上で「今日の固定化」のくだらなさに笑う。笑いは基音の友だちだ。


 結衣はマイクから手を離し、卓の端に置いていた紙の花を一枚、胸ポケットにしまった。胸ポケットの布が少し膨らむ。膨らみの重さは、ほとんどない。そのほとんどない重さが、彼女を内側から支えた。


     ◇


 副作用は残った。結衣は一時的に長い文章が打てない。打とうとすると、単語が途中で砕ける。句読点が過剰に増え、つぎはぎが痛む。だから短く言う。


「今は、これで、いい」


 区切った言葉は、輪郭が立った。輪郭が立つと、重さのかけ方が分かる。分かった重さは、一つ先の動きを軽くする。灯真は親指を立て、二度、四拍に合わせて小さく上下させた。拍に、言葉はもう乗らない。拍だけで、いいときがある。


 昼休み、ひかりが放送室の扉に寄った。ガラス越しに手を上げ、入っていい、と目で聞く。結衣は扉を開け、ひかりを中へ招いた。ひかりは胸ポケットからプリンの蓋を取り出し、机の上に置いた。蓋の銀が、昼の光で少しだけ眩しい。結衣は笑い、蓋の縁を人差し指で叩いた。カン、カン。踏切のテンポが、二度だけ放送室に宿る。


「字幕、壊れかけてるんだって」


 ひかりの言葉は遠慮がない。遠慮がないのに、刃がない。結衣は頷き、短く返す。


「うん。今、直さない」


「直さない?」


「うん。直そうとすると、壊れる。今日は、置いとく。君の蓋みたいに」


 ひかりは蓋を指で押さえ、結衣の胸ポケットの紙の花を見た。紙の花は、そこにあるだけだ。そこにあるだけが、支えになることもある。ひかりはそれを目で確認して、放送室を出た。扉が静かに閉まる。静けさは、今日の味方だ。


     ◇


 夕方、不知火の端末に内部メッセージが届いた。差出人は、市の学校連携課。簡潔な見出し。


 整理パートナーズより「無料支援」提案。来週より説明会実施希望


 本文は丁寧で、言葉は丸い。無料という文字は太く、日付は学校行事の合間を縫うように配置されている。不知火は拳を握った。握った指の根元に粉がつく。粉は今日もどこからかやってきて、彼の手に乗る。


「こっちが法改正を先にやる」


 彼は静かに言った。支援課の白い机に資料を並べ、タイトルを打ち込む。灯真はその様子を見ながら、掲示板に目をやった。今日の議事録の下に、真新しい紙が一枚、貼られている。紙の端は、いつもより厚い。


 本人同意による思い出保存ガイドライン(案)


 紙の下に、小さな箱の絵が描かれていた。立方体。蓋に、穴が一つ。箱の側面に、薄い罫線。何も入っていない。入っていないから、ここから何でも入れられる。何でも入れてはいけない。入れていいものと、いけないものを、いっしょに決める箱。


「最初の箱を作る」


 不知火が言った。結衣は頷く。短い頷き。短い頷きで、長い仕事に合図を送る。灯真はメモに〈箱:音/匂い/手触り〉と書き、その横に小さく点を打つ。点はたった一つ。たった一つの点から、箱は立ち上がる。


     ◇


 夜。支援課の小部屋は、昼間よりも広く見えた。紙の花の縁が風で擦れ、やさしい雑音が部屋に満ちる。結衣は放送卓の前で、指のストレッチをしていた。言葉は短く、指は長く。二つは喧嘩せず、同居できる。指の関節が温まり、手首が柔らかくなったところで、彼女はペンを取り、ガイドライン案の余白に小さく書いた。


「しゃべらない勇気を、教える」


 書いた文を見下ろし、線を引き過ぎないように二重線をやめる。単語に丸をつけない。句点を増やさない。夜は、余白の練習に向いている。余白は、字幕の親戚だ。親戚だから、距離を置いて、よく見る。よく見れば、必要なときにだけ呼べる。


 灯真は窓の外を見た。渡り廊下の端で、海の目覚まし時計が一度だけ鳴った。鳴って、すぐ止まる。風が紙の花を揺らす。黒板の雪は、今日もどこかから舞ってくる。床に薄く落ち、指で触れると、すぐに溶ける。溶けても、跡は残る。跡は、戻る道になる。


 名前は、まだ呼ばれない。呼ばれないけれど、印は増える。不知火はインクの点を一つ、灯真の掌の同じ場所に描いた。昨日の点の隣に、今日の点。二つの点が、指の腹で重なり、重なって見えなくなる。見えなくなっても、存在は消えない。


 結衣は放送室の電灯を落とした。暗闇の中で、機材の輪郭が薄く浮かぶ。フェーダーの名前は、今日は思い出せる。思い出せるけれど、呼ばない。呼ばなくても、手が動く。手が動いても、動かさない。無音の放送は、約束通り、一分。明日の朝、もう一度やる。


 その一分が、校舎の基音をまた少し太らせる。太った基音は、子どもたちの笑いとぶつかって、よく響く。響きは記録できない。記録できないけれど、残る。残り方を、支援課は教える。教える前に、自分たちで練習する。


 夜の終わり、彼女はマイクに向かって、小さな声で言った。


「おやすみ」


 誰にも届かない。届かないように、小さく言った。届かなくても、言ったことは残る。自分の胸の内側で、言葉は点になる。点は滲まない。滲まない点の周りに、括弧ができる。括弧の中に、明日の一分が入る。


 無音の校舎に、黒板の雪が、もう一度だけ、舞った。

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