第15話 黒板の雪
夕方の体育館は、冷たい匂いがした。ワックスと汗と埃の混ざった空気。折りたたみ椅子が規則正しく並び、壇上には校長、教頭、不知火、スクールカウンセラー、PTA役員が座る。後方の来賓席に、濃紺のスーツを着た男たちが腰を下ろした。胸元の名札には“整理パートナーズ”。笑顔の角度は崩れない。緊張した静けさが床板に吸い込まれ、磨かれた木目の上を薄く滑っていく。
大型スクリーンに「支援課(試行)」と投影される。白い文字が体育館の壁に跳ね返り、見慣れた校訓の額を青白く照らした。マイクを持った校長が形式通りの挨拶を終えると、不知火が前に出た。腕章は群青。いつもの抑揚で、簡潔に、しかし逃げない言い方で説明が始まる。
「支援課の仕事は“持てるようにする”ことです。消すのではなく、持てる形に整える。そのために三つの柱を導入します。本人同意の保存、濃度の自己管理、共有の儀式。今は仮導入です。未完成です。だから、皆さんの協力が要る」
ざわめきが広がり、手が上がる。質問は予想通りだった。
「危険ではありませんか。子どもに痛みを負わせることになりませんか」
「効率的に幸せにしてくれるサービスが、外部にあります。なぜ学校がやるのですか」
「事故が起きたら、どこが責任を取るんです」
不知火は一つずつ正面から受け止める。言葉を飾らない。やや遅れて、来賓席の男が立ち上がった。髪はかすかに固められ、ネクタイの結び目は完璧だ。マイクを受け取る所作に緩みがない。
「弊社の立場から申し上げます。私どもは“空洞”を作りません。最適化です。お子さま一人ひとりの特性に合わせ、無理のない忘却と健やかな日々の設計を提供します。費用対効果の面でも納得いただけるはずです」
言葉の角は丁寧に丸められている。丸い言葉は、疲れた心にすべり込む。後方の椅子で、何人かの保護者が小さく頷いた。夜の食卓、家事の段取り、仕事の持ち帰り。生活の中の疲れが、分かりやすい“楽”に手を伸ばさせる空気を作る。
不知火は表情を変えない。
「痛みを全部外注すれば、確かに楽になります。けれど、その楽は、あとで必ず揺り戻しを呼びます。空洞になるからです。支援がやりたいのは、痛みを“持てる”ようにすることです。持てる痛みは、背中を伸ばしても落ちない」
同時に、体育館の後方で結衣が立ち上がった。放送席の卓に指を置き、手を挙げる。
「例を出します」
彼女はミキサーのフェーダーを一定の位置で止め、ホールトーンを切った。音の尾が消える。体育館の残響が途絶え、咳払いが生で響く。金具の軋む音、スニーカーのソールが床をこする音、シャカシャカという紙の触れ合い。その一つひとつが、急に“触れる距離”に寄ってくる。
「今、ここで、私が話す言葉は、あとで誰かに引用されて、コピーになるかもしれません。でも、同じ空気を吸った時間は、コピーできません。支援課がやっているのは、この“同じ空気”の設計です。どこにも売っていない、学校にしかない基音の、調律です」
スクリーンが切り替わった。黒板の映像が映る。チョークの粉が、スローモーションの粉雪になって降る。結衣が軽くフェーダーを上げると、黒板消しを叩く音が体育館に広がった。叩くたびに白い粉が舞い、光の中で粒がきらりと跳ねる。映像の雪と体育館の粉塵が重なり、前列の父親が思わず袖で払った。袖に白が残る。払い切れない白は、触れた証になった。
来賓席の男は薄く笑う。
「演出ですね」
「演出です」と不知火は頷く。「演出に触れた手が粉で汚れる。それが学校です」
男は頷いてから、言い方の角度を変えた。
「費用対効果。数字で示せますか」
体育館が止まる。数字は、誰にでも届く言葉だ。数字は安心を運んでくる。体育館の空気に、微かな“楽”が戻りかけた。
僕は立ち上がった。声は出ない。喉は、まだ音を許してくれない。代わりに、壇上へ向かって歩く。黒板の代わりに置かれた、移動式の小さな板。チョークを一本、取る。
点を打つ。ひとつ。間を置いて、ふたつ。さらにもうひとつ。
結衣が基音を合わせる。Aの音が遠くで鳴り、体育館の空気がわずかに揃う。息が合う。点は星座になる。一本の線で結ばれて、すぐにほどける。ほどけるけれど、ほどけ跡が残る。その跡が、新しい線を呼ぶ。
拍手は起きなかった。けれど、頷きがひろがった。名札を胸に下げた母親がハンカチを握って、前を見た。スーツの父親がスマートフォンをポケットに戻した。疲れた目の担任が、ほんの少しだけ肩を下ろした。
来賓席の男は無表情に戻り、名刺を壇上の机に置いた。
「本日は失礼します」
名刺は誰の手にも渡らず、机の上で白い長方形のまま止まった。不知火はそれを見もしない。散会のアナウンスが流れ、人の流れが逆向きに動き出す。折りたたみ椅子が音を立てて閉じられ、緊張の匂いが薄まっていく。
帰り際、PTAの母親が不知火に近づいた。小柄で、握ったハンカチがくしゃくしゃになっている。
「自分の子が“痛い”って言ったら、どうすればいいですか」
不知火は少しだけ目線を下げて答えた。
「居てください。何も直さないで。隣に居ることが、支援の最初です。直すのは、あとでいくらでもできます」
母親は泣き笑いになって、頷いた。ハンカチの角に粉が付いたまま、頭を下げる。帰り道の重さは変わらないだろう。けれど、重さの持ち方は、少しだけ変わったかもしれない。
◇
夜の校内は、昼の熱が抜けて少し冷たかった。体育館の天井を見上げると、照明の枠に薄く白い縁がついている。黒板の前に落ちた粉を、用務員が長いモップで静かにはたいた。雪のように舞う。廊下の蛍光灯が粉の一粒ごとに光を返し、床に薄く積もらせる。僕はその上をゆっくり歩いた。足跡が残る。足跡は戻る道になる。来た道と行く道が重なれば、真ん中に薄い白が残る。その白が、明日の朝の光でまた浮かび上がる。
昇降口で結衣が待っていた。いつものパーカーの袖口に粉がついている。僕を見て、口を開く前に、ほんの一瞬だけ空白が挟まった。
「……ねえ、君」
呼びかけの言葉が、名前を避けて回り道をする。結衣は自分でそれに気づいて、小さく舌打ちした。
「ごめん。今、呼べなかった。脳が負けた」
僕は首を振る。いいよ、の合図を唇だけで作る。結衣は頷き、いつもの軽い調子に戻した。
「今日の君の“点”、効いたね。体育館の空気、ほんの一瞬だけだけど、揃った。やっぱり、同じ空気はコピーできない。録音に残らない種類の説得って、あるんだな」
そのとき、不知火が手を差し出した。掌にインクの匂い。中心に小さな点が描いてある。僕も掌を出す。不知火は僕の掌に自分の掌を重ね、点を合わせた。
「これは印。君はここにいる」
それだけ言って、不知火は手を離した。点は指の熱で少しだけ滲み、でも消えなかった。僕はその点を親指で確かめ、胸の外来者名札の端にそっと触れた。名札は相変わらず空白だけれど、触れた熱が少しずつ、青いプラスチックに移っていく気がした。
体育館の裏手では用務員のラジオが小さく鳴り、遠くで体育倉庫がきしんだ。正しい雑音。校庭の砂の匂いが夜風に乗ってくる。黒板の雪は廊下から階段へ、階段から渡り廊下へ、渡り廊下から理科室のシンクの縁へと旅をして、どこかで薄く積もって止まった。明日の朝、誰かがそこに指で文字を書く。指で書かれた文字は、たとえ消しても、粉が語る。
◇
支援課の掲示板に、今日の議事録が貼り出された。手書きの文字と、プリントアウトの罫線が混ざっている。そこに、新しい案件の紙が追加された。紙の角はもう少し濃い白で、紙の手触りは他の紙と少し違う。結衣がその紙を見て、ため息をついた。
「来たね。分かってたけど」
紙には短く書いてある。
——柊結衣:字幕機能の不安定化。表示遅延、誤変換、断続的欠落。夜間増悪。
結衣は笑って見せた。悪戯っぽさを無理に貼り付けた笑いで、目の奥だけが冗談を拒否している。
「やばい、私、放送席の人間なのに、言葉がこぼれていく。夜になると特に。あのね、さっきも、体育館のフェーダーの名前が、五秒くらい出てこなかったんだよ。手が覚えてるのに、名前が消えるの。フェーダーって何、って自分に聞きながら動かしてた。これ、笑えないほうの“楽”だ」
不知火は結衣の顔を見てから、掲示板の紙に小さくチェックを入れる。腕章の群青が廊下の光で柔らかく滲む。
「次は放送席だ。今夜、入る」
結衣は頷いた。頷きながら、口を開きかけ、やめた。そこにあった名前の呼びかけは、無音で滑っていった。僕は自分の掌の点を見て、彼女の掌を取る。親指で、彼女の手のひらの中心に小さな点を描くふりをした。インクはない。でも、触れた印は、皮膚の内側に残る。
「君、字、下手」と結衣が笑う。目だけが、ありがと、と言った。黒板の雪が、彼女の肩に一粒落ちた。落ちた白は、消えずにそこにある。
◇
深夜。校舎は眠っている。渡り廊下を横切る風が、紙の花の縁をかすかに鳴らした。支援課の小部屋では、不知火が準備を続けている。結衣は放送卓の前に座り、ミキサーを撫でるように確認する。フェーダー、フェーダー、と口の中で名を繰り返す。名は、繰り返しても手からこぼれる。それでも繰り返す。手が覚えていることを、言葉に返すために。
僕は机の上にチョークを置く。粉が小さくはぜ、白い点が薄く散った。黒板の雪は、夜でも降る。降り続けて、床に薄く積もり、朝が来たら、また誰かの袖に移る。移った白が、歩くたびに別の場所へ運ばれて、校舎全体を薄くつないでいく。
名前は、消える。けれど、印は残る。印が多ければ、多いほど、名前の穴は狭くなる。支援課の夜は、そういう仕事だ。印を増やす。粉を増やす。基音を上げる。空気を合わせる。痛みを、持てる形にする。
体育館の天井で、遅れて落ちた粉が、ひとかたまり、ふわりと舞った。雪のように見えた。雪のように冷たくはなかった。指で受け止めると、すっと溶ける。黒板の雪は、溶けても、跡を残す。跡は、戻る道になる。道があれば、夜は越えられる。
夜の深さが一段増した。放送席のランプが一つ、緑に点った。結衣が息を吸う。不知火が腕章を確かめる。僕は掌の点を押さえる。点は滲まない。滲まないまま、脈の上でかすかに跳ねる。跳ねる拍に合わせて、校舎のどこかでAの音が、ごく小さく鳴った。
黒板の雪が、音に合わせて、もう一度だけ、舞った。




