第14話 支援課、仮始動
朝の職員会議室は、窓のブラインドが半分だけ降ろされていて、斜めの光が長机を切り分けていた。コーヒーの匂いと、印刷したばかりの紙の温度。前方の黒板に、不知火がチョークで大きく文字を書く。
編集課 → 支援課(試行)
手慣れた書き方なのに、筆圧が少しだけ強い。白が濃い。灰色の腕章だった帯は、今日から薄い群青に替わっている。色が変わっただけだ、と言ってしまえばそれまでだけれど、空気が張り詰めるのが分かった。呼吸が揃う。紙がめくられる音が一瞬遅れて重なり、その遅れが、会議の始まりを告げる鐘みたいに聞こえた。
「名称の変更は小さなことです。ただ、仕事の向きは変わる」
不知火は黒板の前から一歩下がり、スライドを投影した。三つの柱、とスライドの見出しにある。
① 本人同意の保存――対象者が「覚えていてほしい一瞬」を自分で明示すること。
② 濃度の自己管理――濃い記憶の取り扱い手順を、学校単位で身につけること。
③ 共有の儀式――校舎の音・手触り・匂いを使って固定化すること。
教頭が慎重に手を挙げる。スーツの袖口から覗く腕時計の金属が、蛍光灯の白を弾いた。
「“支援”とは具体的に何を指すのでしょう。編集課は、危険な濃度を消す部門でした。支援課は、何を増やすのですか」
「持てるようにすることです」
不知火は迷わず言った。
「消すのは簡単でした。薄くすればいい。けれど、持てる形に整えるには、関わる手間がいる。本人同意を取り、濃度を測り、校舎の“基音”に合わせて固定化する。負担は増えます。けれど、コピーのような幸福を配り続けて学校を空洞にするより、ずっとましだと、私は思います」
誰かが小さく咳払いをして、別の誰かが配布資料を裏返した。責任はどこに、事故時の説明はどう、保護者への文面は。現実の質問が順番に飛ぶ。会議室のドアが五分ごとに小さく開いて閉まる。遅れて入って来た若い教師が、黒板の「支援課」という文字を見て立ち止まり、腕章の色に視線を落としてから席へ向かった。
放送室から中継が繋がる。スピーカーにノイズが混ざり、それすら意図したように聞こえた。結衣の声が明るく場に入ってくる。
「技術側はノイズ耐性を上げます。ミキサーの“基音”にAの音と“紙の花の擦過音”を常時重ねる。コピーを通さない音を、床鳴りと壁の中に染み込ませます。基音は目立たせず、でも必ずそこにある。校舎の素の音を太らせるだけ。毎朝の試運転は私がやります」
担任たちの顔に、半信半疑の影が走る。音で何が変わるのか、という目だ。不知火はスライドを切り替えた。廊下の蛍光灯のちらつき、机の木目、窓の桟の冷たさ。写真が三つ、並ぶ。
「第一段階は“くだらなさ”の共有です」
ざわり、と静かな笑いが起きた。不知火は頷く。
「くだらない、と笑わせる。笑いは固定化の敵ではありません。コピーは匂いに弱く、音の継ぎ目に弱く、手触りに弱い。そこに校舎の“原本”が残ります。原本に寄りかかるのではなく、原本を手の内に置く。支援課は、そのやり方を教えるところだと、まずは思ってください」
会議が終わる頃、黒板の「支援課」の文字は、擦られて少し薄くなっていた。けれど、板の木目に食い込んだ粉の白は、蛇口の水垢みたいに残っていた。落とそうと思えば落とせるけれど、落とさずにおく理由を、僕らは今日手に入れたのだと思う。
◇
午前の授業が始まる前、全クラスに新しいルーチンが導入された。朝の会で“本日の固定化”を一項目。担任が黒板の端に小さく書く。
机の木目を指でなぞって五拍。
窓の桟の冷たさを二秒。
廊下の蛍光灯のフリッカーを一回、数える。
「くだらない」と誰かが笑う。笑いながら、指は素直になぞる。なぞった指先が、木目の節に引っかかって、ほんの少しだけ乾いた音がする。くすぐったいような、目に見えない静電気のような。窓の桟に額を近づけた生徒が「冷た」と声を漏らし、隣の席の子に笑われる。笑われたほうも笑う。笑いの輪郭が、いつもより濃い。
黒板の左隅では、結衣が仕込んだ基音が、誰にも分からない音量で校舎に流れている。Aの音は筋道を作り、紙の花の擦過音がそこに生き物みたいな不規則を与える。床鳴りが、音を仲間だと認める。今日の教室は、うるさくも静かでもなく、ちょうどいい密度で満ちていた。
一方で、反動も始まった。
昼休み、教頭が職員室の郵便受けから厚みのある封筒を取り出した。差出人欄に、整ったロゴがある。“整理パートナーズ”。保護者宛のパンフレットが挟まっていた。「思い出の整理、まるごとお任せ。効率的に健やかな日々を」。料金プランは三段階、成果保証、事故時の補償。フォントの太さ、大きさ、写真の余白。完璧に整った“安心”の言葉。
教頭はパンフレットを裏返し、ため息をついた。その紙の裏側には、さっき不知火が配った「支援課の手順」が透けて見えていた。二枚の紙は、互いの言葉を薄く侵食し合っている。どちらかが勝つわけでも、重なるわけでもない、よくある現実の重なり方だった。
◇
放課後の昇降口で、ひかりは空いたままの“予備席”を振り返り、花を一輪、机に残して廊下に立っていた。花びらはまだ紙の乾いた音がする。僕が近づくと、彼女は会釈をして、それから真っ直ぐに問いを投げた。
「忘れたくないことって、どうやって決めるの?」
僕は声が出ない。代わりに、指先を見せる。チョークの粉が爪に白く残っている。黒板の中央に点を打つ仕草をしてみせる。ひかりはすぐに頷いた。
「じゃあ、私は踏切の風。いつもは行き過ぎるだけの風を、今日だけ覚える」
それは彼女にしては、たぶん大きな宣言だった。踏切の赤い警報と一緒に通り過ぎる風は、匂いも温度も毎回違う。名前をつけるには曖昧すぎる。曖昧すぎるからこそ、コピーは苦手だ。ひかりがそれを選んだことが、ただ嬉しかった。僕は花の茎に触れず、机の木目にそっと指を置いて五拍数えた。ひかりは笑わなかった。笑わないまま、目だけで〈分かった〉と返した。
◇
夜。支援課の最初のケースカンファレンスが会議室で開かれた。対象は、数学教師の鷹野。痩せて神経質そうな、人の話を最後まで聞く癖がある先生だ。最近、授業の板書が白く飛ぶ。テストの採点をすると、赤ペンの線が“空白”に引っ張られて、点数が消える。彼の机の上には、消しゴムのカスが出ないタイプの消しゴムが、使われないまま二つ乗っていた。
「夢へ潜る段取りを組む」
不知火が短く告げる。会議室の窓枠には、紙の花が縁取られている。風でわずかに擦れる音が入ってきて、結衣が小さく笑った。
「正しい雑音」
僕は頷いて、ポケットの中の短冊を確かめる。あさっては今日、のカスレ字。チョークで汚れた指先が、その紙の端を確かめるみたいに触る。不知火は腕章を撫でて、いつものより一拍遅れて目を閉じた。
「入る。消すのではなく、持てる形に」
◇
落下。黒板の海。
最初に見えたのは、白ではなく、透明だった。教室の黒板が水平線になって、そこから数式の泡がいくつも浮かび上がっては、音もなく弾ける。プラス記号は表面張力に耐えきれず流れ、イコールの二本線は波打ち際で崩れて砂になる。チョークの粉が海月のように漂い、誰も書かなかった文字の骨組みが、海底に白い珊瑚のように積み重なっていた。
編集者が現れる。白衣を着た採点者。顔は見えない。だが、朱だけが濃かった。彼は減点の線を残し、答案の上から白い紙を滑らせ、何事もなかったように去ろうとする。正しさだけが残り、誰の手にも触れなかった板書の温度が、海水になって広がっていく。
「支援課です」
不知火が、初めて夢の中で名乗った。彼は白衣の影の前に立ちふさがり、腕章の群青を海の光に晒す。結衣の字幕が、黒板の天の川みたいに細く走る。
〈基音:A+紙の花〉
遠くで調律のAの音が鳴った。かすかに揺れて、すぐにまっすぐになる。どこかで紙の花が擦れる。海に風が通る。
僕は黒板の端に近寄り、指先で点を打った。海水がその点の周りでいったん止まり、丸い窪みを作る。そこにチョークを滑らせる。“=1”。白が一本、もう一本。線が木目に吸い込まれる。二本線の厚みが板の節に絡み、泡が数式の文字列に戻っていく。
「消すのではなく、持てる形に」
不知火が繰り返す。彼の声は、夢の中だとよく響く。鷹野が黒板の手前で立ちすくんで、震える手でチョークを取った。板の表面に触れた瞬間、海は板に戻り、粉が指に移る。彼はゆっくりと、筆圧で刻むように「x+y=z」を書く。イコールの二本線はきれいに平行で、でも完全な直線ではない。僅かな手の震えが木目に噛み、板に生身の癖を残す。
編集者の朱が、一瞬だけ薄くなった。彼は白衣の裾を揺らし、海の端で立ち止まる。減点は必要だ、と彼は言った。必要なときもある、と不知火は返した。必要だからといって、全部に引く線ではない。線は人の手で引く。人の手で引けば、いつでも消せる。
結衣の字幕がもう一度走る。
〈固定化:筆圧/粉/基音〉
黒板の泡は消え、白い珊瑚は板の裏側に沈み、海は静かに退いていった。鷹野は最後にイコールの端を指でなぞって、粉をわざと落とさずに残した。指を開き、粉の白さを見つめ、目を閉じた。
◇
覚醒後、職員室で鷹野は白い手のままコーヒーを飲んだ。いつもは几帳面に払っていた粉を、今日は払わない。紙コップの縁に白い指紋が付く。彼はそれを拭かず、ゆっくりと座った。
「汚れは、触れた証だから」
誰に言うでもなく呟いた言葉を、偶然通りかかった教頭が聞いた。教頭はパンフレットの束を抱えたまま、ほんの少しだけ笑ってから、何も言わずに通り過ぎた。
会議室に戻ると、不知火は窓の外を見やった。支援課の腕章の群青が、外の薄曇りの空に溶けていく。校門の脇に、白いワンボックスが停まっていた。側面に、整理パートナーズのロゴ。制服を着たスーツの男が二人、校門の外で誰かに丁寧に頭を下げ、白い紙束を配っている。彼らの笑顔は疲れず、声は落ち着いて、歩幅は揃っていた。
「来るぞ。民営化の波」
不知火が言うと、結衣は椅子の背もたれを軽く叩いて、こちらを見た。
「こっちは、基音を上げるだけ。あっちは、音そのものを切り替えようとしてる」
僕は胸の名札に触れた。外来者用の青いプレート。“氏名”欄は空白のまま。昨日まで残っていた出席カードは、とうとう完全に消えた。結衣が油性ペンを取り出して、名札の右上に小さく点を打つ。
「君の一」
その点は、滲まない。触るとほんの少し盛り上がっている。名札の冷たさと指の温度の境目で、点は確かにあった。僕は頷いて、息を一度深く吐いた。喉の奥はまだ音を拒む。でも、呼吸の拍は基音と合っている。
◇
夕方、校門の前に出ると、スーツ姿の男が白い微笑で近づいてきた。両手で配る紙束は、厚すぎず薄すぎず、手にちょうどよく収まる大きさ。受け取ってしまいそうになる手を、僕はポケットに入れた。男はそれでも笑顔の角度を変えない。
「思い出の整理に、不安はつきものです。私たちが、責任を持って引き受けます」
不知火が一歩前に出た。腕章が群青に光り、男の視線がそこに吸い寄せられる。
「学校の中は、支援課の管轄です」
男は礼儀正しく会釈をし、一歩下がった。けれど、後ろにもう一人いる。手には違う色の紙束。無料相談会のお知らせ。保護者会の日付。教頭が通りかかり、パンフレットを二枚受け取り、挟んだまま黙って通り過ぎた。彼の背中は、どちらにも依らないように、まっすぐだった。
昇降口へ戻る途中、ひかりが廊下の角で立ち止まっていた。紙の花をもう一輪、予備席の机に置いて、僕のほうを見た。まだ名前は呼ばない。けれど、今日の彼女の視線は、僕を確かに“今日の人”として認めている。それが分かったから、僕は黒板の前に立つふりをして、空に小さく点を打つ仕草をした。ひかりはうん、と頷いた。
夜の手前、教室に雪が降り始めた。雪と言っても、それはチョークの粉だ。昼間に何度も書いては消した白が、換気の風に拾い上げられて、ゆっくり落ちてくる。机の角に積もる前に、誰かの袖について、また離れる。窓を開けると廊下に出て、階段を下って、体育館の屋根に薄く積もる。白はどこにも定住しない。けれど、触れた場所には必ず、触れた痕が残る。
支援課の仮始動は、号令ではなく、こういう雪で始まるのだと思う。派手な式典ではなく、粉の白さで。消したら終わりではなく、消しても残るもので。
会議室に戻ると、不知火が黒板を指で撫でた。午前中の文字は薄くなっている。けれど、跡はまだ見える。彼はチョークを取り、「支援課」の下に小さく一行、書き加えた。
仮始動。全員手動。
結衣がそれを見て笑う。「ダジャレ」と。僕も笑って、窓の外を見た。校門の前のスーツ姿は、まだ微笑を崩していない。白い紙束は減り、リュックに収められ、保護者会の議題に混ざるだろう。そこから先が、たぶん本番だ。
胸の名札の「一」を指で押さえる。点は小さい。けれど、今はそれでいい。小さいほうが、増やせる。増やす手順を、僕たちは今日手に入れた。机の木目を五拍、窓の桟を二秒、蛍光灯を一回。基音はA、紙の花は擦れて、チョークは雪になる。
夜の校舎を出ると、風が踏切のほうから回ってきた。ひかりが選んだ風。僕は立ち止まり、風を一拍、二拍、三拍、数える。匂いに名前はない。ないから、原本になる。原本は擦り切れる。擦り切れるまで持つ。持てるように、支援する。
遠くで、体育倉庫がきしんだ。正しい雑音。僕はその音に背中を押され、足を一歩、歩幅を合わせた。校門の外の静けさにも基音はある。きっとある。探すのは、僕たちの仕事だ。
薄群青の帯が、夜の色に馴染む。腕章の布の温度が、手首の内側に移る。その温度で、僕はポケットの短冊を撫でた。あさっては今日。今日もまた、今日だ。明日になったら、明日の今日だ。そうやって続いていく今日の中で、僕らは小さな点を打ち続ける。打った点が、誰かの黒板の雪になる。
その雪が、明日の朝、もう一度、学校を白くする。白いまま、薄くはしない。白いまま、濃くする。支援課は、そういう色の足し算を教える場所になる。なっていく。仮始動。全員手動。粉だらけの指で、僕は胸の名札の点をもう一度、確かめた。滲まない。消えない。たしかに、ここにある。




