第13話 集配所
ホームルームのチャイムが鳴った。
だが、担任は教卓の前で立ったまま、何も言わなかった。黒板には日付が書かれていない。出席簿を開いても、名前の欄が白紙のまま。
教室はいつもと同じように見えた。机と椅子が並び、友達が笑い、ペンの音がする。けれど、よく見ると違う。笑い声の輪郭が薄く、音が空気の中で溶けていく。誰かの机の上に置かれた消しゴムは、数分後には“誰のものでもない”ただの物体になっていた。
――0組が発症した。
結衣の放送は流れない。スピーカーは静まり返り、校舎全体が“音の抜け殻”のようだった。
灯真は“予備席”から立ち上がり、ゆっくりと教卓へ歩いた。
ひかりがその姿を目で追う。彼女にとって灯真は、もう「知らない先輩」だ。それでも、その視線の奥には、かすかな痛みがあった。
灯真はチョークを手に取り、黒板の中央に点を打った。
ひとつ。
たったそれだけで、教室の空気がひっかかった。
ゼロの中に、わずかな“一”の気配が生まれる。教師が反射的に声を上げようとして――途中で言葉が消えた。
灯真はポケットからハンカチを取り出す。角には塩の粒と、涙の跡が染みついていた。
それを黒板の点に押し当てる。
ハンカチが離れた跡に、淡い輪が残った。
“しみ”。
生徒の一人が息をのんだ。
その瞬間、教室の空気がかすかに震えた。声を出すと消えるはずの空間で、音が残ったのだ。
完全なゼロではなくなった。
それだけで、世界が少しだけ違って見えた。
だが、反動も来た。
天井から、封筒が降ってきた。
大量の封筒。
宛名も差出人もない、白い紙の束が雪のように舞う。
机の中の連絡帳が白紙に戻り、感想文の余白に描いた絵が薄墨に変わっていく。
教室の誰かが叫びかけるが、声は途中で止まる。
結衣の放送がようやく入った。
〈しみを増やせ〉
短い字幕が、黒板の上に浮かぶ。
生徒たちは、何をすればいいのか分からないまま――けれど直感的に理解した。
ポケットから、レシートを出す。
上履きのかかとの擦り減り、シャーペンの折れた芯、古びたストラップ。
自分の「濃さ」を黒板の点の周りに押し当てる。
黒板は一気に星座のような模様で覆われた。
白と黒の粒が散り、教室が光る。
その眩しさに、封筒の雨がいったん止まった。
だが、すぐに――現れた。
仕分け人。
郵便局の窓口をそのまま引きずってきたような無地の台を前に、無表情の人物が立っている。
「全消去を提案します」
静かな声だった。
「ここを丸ごとゼロにすれば、波及は止まる。効率的です」
教師が顔を上げた。
疲れ切った目をしていた。ゼロは楽だ。何も感じなくて済む。
だが、灯真は首を横に振った。
メモ帳に書く。
〈楽は必要。でも、“選べる楽”に〉
仕分け人は首を傾げた。
「選択はコストです」
灯真は生徒手帳を掲げた。
昨日、盗んだ封筒がページの間に挟まっている。
開くと、手書きの名前が濃く刻まれていた。
灯真はその手帳を、黒板の中央――点の上に置く。
ページの間から短冊が覗いた。〈あさっては今日〉の文字。
晒すのは怖かった。
けれど、隠していたら意味がない。
晒すことでしか、原本は存在できない。
ひかりが息を飲み、みのりが無言で頷いた。
数人の生徒が前へ出てきた。
折れた鉛筆。色の抜けたシュシュ。母親のメモ。
彼らの掌から、空気に温度が戻る。
仕分け人はわずかに眉を動かした。
「非効率だ」
そのとき、教室の扉が開いた。
不知火が入ってくる。夢庁の腕章が光を反射する。
「本件、特例の再評価を申請する。本人同意に基づく保存を試行する」
仕分け人は肩をすくめた。
「では、集配所で」
次の瞬間、床が動いた。
教室の床がゆっくりとベルトコンベアに変わる。
全員が立ち上がる暇もなく、視界が流れ出した。
眩しい光。
天井の高い空間。
延々と伸びるラインの上を、無数の封筒が流れていく。
ここが――集配所。
窓口の奥に、巨大な仕分け人が立っていた。
「名前を」
淡々とした声。
だが、誰も名乗れない。
名前はゼロに弱い。思い出せば、消えてしまう。
灯真は深呼吸し、黒板に押し当てた“しみ”を思い出した。
その感触を指先に残したまま、みんなに手振りで伝える。
〈“覚えていてほしい一瞬”を封筒に入れ、宛先を“自分”に〉
言葉は出ない。
けれど、それだけで通じた。
ひかりは制服のポケットから紙片を取り出した。
「お兄ちゃんの誕生日」と書かれた落書きのようなメモ。
それを封筒に入れ、自分の胸に押し当てる。
みのりは、壊れた名札のピンを。
ほかの生徒も次々と、自分の“濃いもの”を封筒に入れていく。
宛先を得た封筒は、重くなる。
ベルトコンベアが詰まり、動きが鈍くなる。
仕分け人の表情に、初めて“焦り”が浮かんだ。
「非効率……」
灯真は前に出た。
窓口の透明板に手のひらを押し当てる。
冷たい感触。
手の甲に、薄い名前の跡。
声は出ない。
だが、息の温度が透明板に曇りを作った。
そこに結衣の字幕が浮かぶ。
〈“ゼロにしない”という選択を、制度に〉
不知火が頷いた。
「夢の支援課を設立する。削除ではなく、支える方向へ」
一斉に鐘が鳴った。
礼拝堂の鐘ではない。
校舎の音。
チャイム、Aの音、踏切、体育倉庫のきしみ――それらが重なり合って、巨大な響きになる。
天井に亀裂が走った。
封筒の吸い上げが止まり、紙が舞う。
仕分け人は目を伏せた。
「前半は、君たちの勝ちです」
覚醒。
教室。
黒板の点はまだ残っていた。
生徒たちは元のクラスに戻っている。
0組は、解けた。
だが、灯真の席だけが空いている。
“予備”のラベルが貼られたまま。
名簿の空白も、そのままだ。
不知火は窓際で立ち、肩で息をついている。
「ここから先は、制度との戦いになる」
結衣がにやりと笑った。
「上等。放送の音量、上げとく」
ひかりは廊下に出て、灯真の席を振り返った。
花を一輪、机に置く。
「……ありがとう」
声は届かない。
けれど、その言葉の重さだけが、確かに残った。
夕方。
渡り廊下の端で、海の目覚まし時計が鳴った。
一度だけ。
塩の風が吹き抜け、紙の花が揺れる。
その音を聞きながら、灯真はノートに最後の一文を書いた。
〈選べる楽は、痛みに似ている〉
ページを閉じ、ポケットにしまう。
前半、終了。
次は――呼ばれない名を取り戻す旅が始まる。




