第12話 夢税
蛍光灯の光が、紙の上に白く反射していた。
壁一面に広がるスクリーンには、都市全域のヒートマップが浮かんでいる。赤、黄、青。点滅する点は、人々の「忘却率」を示しているらしい。
夢庁の会議室は静かだった。空調の音すら、妙に抑えられているように感じる。
不知火が指で地図の一点を示す。
「ここが、君たちの学校だ。ほら、この薄い赤――忘却の頻度が平均を上回っている」
その声は冷静で、淡々としていた。
「……忘れることは、悪いことじゃない。人間は忘れることで進める。だが、今の社会は、少し効率を上げすぎた。コピーしたような幸福を配る代わりに、濃い約束を刈り取っている」
スクリーンの色がゆっくりと変わっていく。青い領域が広がるほど、「空っぽな安定」が拡大していることを意味するらしい。
灯真は手元のメモ帳に鉛筆で一行書いた。
〈薄めた幸せは、幸せじゃない。濃いまま失う権利が要る〉
結衣が隣で腕を組み、モニターを見つめている。
「“権利”を制度にするって、どうすればいいの?」
不知火は苦笑を浮かべ、別の資料を開いた。
そこには、郵便局のような施設の設計図。ベルトコンベアに封筒が流れ、上空に吸い上げられていく映像。
「ここが“集配所”だ。毎晩、全国から『今日の忘却』がここで仕分けられる。個人申請は通らない。あくまで社会全体の最適化が優先される」
「……つまり、忘れることも“制度化”されてるってこと?」と結衣。
「そうだ。誰かが深く覚えていると、全体のバランスが崩れる。だから“税”として回収する。――夢税だ」
その言葉を聞いた瞬間、灯真の喉が乾いた。
自分たちが戦ってきたのは、ただの記憶ではなかった。制度そのものとぶつかろうとしていたのだ。
夜。
灯真は会議室を出て、校舎裏の通用口から空を見上げた。
月は薄く滲んでいる。
風に乗って、チャイムの残響が遠くから流れてきた。
あの鐘の音も、いつか“税”として仕分けられるのだろうか。
「行くんでしょ?」
背後で、結衣が声をかけた。
彼女の瞳は強い光を宿している。
「集配所。――確かめに行く。原本が、どこに送られてるのか」
灯真はうなずいた。
入眠。
目を開けると、そこは巨大な郵便局だった。
床は白いタイル。壁一面に番号札。
上空をベルトコンベアが走り、無数の封筒が淡く光を放ちながら流れている。
機械の音は不気味なほど静かで、代わりに天井からは“指先のような白い手”が降りてきて、封筒を一つひとつ拾い上げていた。
「ようこそ、“今日の仕分け”へ」
声がした。
カウンターの向こうに、仕分け人が立っている。顔の輪郭は曖昧で、目元だけが白く光っている。
「あなたの行為は、効率を壊します。雇います。こちらへ来て、個体差を捨てなさい」
灯真は言葉を返せなかった。喉が音を出さない。
ただ、机の上に手を置き、封筒の山を見つめる。
どれも同じサイズ、同じ紙。だが――一通の角が、わずかに濃い色をしていた。
その封筒に手を伸ばすと、指先に“自分の名”が触れた気がした。
封筒の中には、在籍記録、家族の呼び名、部屋の鍵のナンバー、そして……あの夏の海の匂い。
失ったはずのすべてが、そこに封じられている。
仕分け人が顔を傾けた。
「それは原本です。コピーで足ります」
淡々とした声。まるで当たり前のように。
灯真はメモ帳を開き、書いた。
〈原本を守る方法を探す〉
「原本?」仕分け人がわずかに眉を動かした。「原本は危険です。損傷する。コピーなら安全です」
その背後に、結衣の字幕が浮かぶ。
〈コピーは安全。原本は擦り切れる。だからこそ、価値がある〉
灯真は封筒をそっと掴み、上着の内ポケットに滑り込ませた。
警報は鳴らない。
仕分け人はただ、静かに視線を逸らした。
「倫理の問題です」と呟くだけ。
無数の封筒が天井へ吸い上げられていく。光の筋が、空の彼方に消える。
その中で、灯真は立ち尽くした。
この構造の中では、彼の行為は誤差にも満たない。
だが、誤差のひとつひとつに、固有の名がある。
覚醒。
夢庁の会議室。
机の上に置かれた生徒手帳が、薄く光を放っていた。
不知火が手帳を開く。
ページの隅に、見覚えのある封筒の跡が残っている。
「……これは、君が持ち帰ったものか?」
灯真はうなずいた。
「原本を、少しだけ戻した」
「危険な前例だ」と不知火。「でも、道が見えた」
結衣は拳を握り、明るく笑った。
「じゃあ、次は0組だね」
「0組?」灯真が聞き返す。
不知火がスクリーンを操作し、学校の俯瞰図を映す。
中央の一室だけが、真っ黒に塗りつぶされている。
「学校全体が“ゼロ”に吸い寄せられている。失敗も成功も、記録されない教室。楽だが、空洞になる」
灯真は鉛筆を取り、メモに書いた。
〈0以外を持ち込む痛み〉
「痛みを戻すのか」
「そう。……生きてるって、そういうことだろ」
不知火はしばらく沈黙したのち、ゆっくりと頷いた。
「やってみろ。だが、覚悟しろ。痛みを戻すということは、他人の痛みも拾うということだ」
夕暮れ。
校舎の廊下は長く、窓から差し込む光がオレンジ色に傾いている。
掲示板の前に、ひかりが立っていた。
彼女の指先が、一枚の紙を貼っている。
――「0組 編成案」。
まだ白紙だ。けれど、紙の中央には、うっすらと“0”の輪郭が浮かんでいた。
「誰が貼ったの?」
結衣が聞くと、ひかりは首を振った。
「わからない。でも、ここにあるってことは……必要なんだと思う」
灯真はその輪郭を見つめた。
数字のくぼみが、まるで“穴”のように見えた。
そこに、どんな記憶が吸い込まれ、どんな言葉が戻ってくるのか――まだ誰も知らない。
「0組ってさ、何をするクラスなんだろ」
「たぶん、“何もしない”ことを教えるんだ」
結衣が笑ってそう言った。
「忘れるんじゃなくて、残すことを選べるように」
ひかりが振り向き、ゆっくりと頷く。
窓の外では、チャイムが鳴った。
音はわずかに濁っていたが、それでも確かに、耳に届く。
不知火が廊下の端に立ち、風に揺れるカーテンの向こうから言った。
「――税は、取り戻すこともできる」
誰も返事をしなかった。
けれど、その言葉は、確かに届いていた。
夜。
校舎の屋上。
風が吹き抜ける。
灯真は手すりに背を預け、ポケットから小さな封筒を取り出した。
それは、夢の中で盗んだ一通。
封を切ると、中から小さな紙片が出てきた。
そこには、ただ一言――
〈おかえり〉
文字は震えていた。
インクが滲み、筆跡は幼い。
たぶん、自分自身が昔書いたものだ。
それを見て、灯真は笑った。
――そうだ。
原本は擦り切れる。
けれど、擦り切れるまで生きていけば、それはもう“記憶”じゃない。“生”になる。
屋上の風が静かに吹き抜け、遠くで校庭の街灯がひとつ、消えた。
灯真は封筒を胸ポケットに戻し、夜空を見上げる。
星は少し滲んでいる。それでも、確かに光っていた。
翌朝。
掲示板の「0組」の紙に、黒い文字がひとつだけ増えていた。
――“在籍者:綾瀬灯真”。
誰が書いたのかは、もう誰にもわからなかった。
けれど、それは確かに“原本”だった。




