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Loop~君の悪夢を何度でもやり直す僕の話。  作者: 妙原奇天


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第11話 拍手はいらない

 昼休みの校舎は、いつもより明るいのに、どこか抜けていた。音の皮だけ剥がれて、骨組みだけが露出している感じ。昇降口のガラス戸はいつもどおり開け閉めされ、床はスニーカーのゴム底で擦られているのに、耳に届くのは音の影ばかりだった。

 購買前の行列もそうだ。「焼きそばパン」「売り切れ」「また明日」。口の形と手の合図だけが滑っていって、僕の耳は意味を拾いそこねる。声帯が休んでいる僕でさえ、ここまで静かだった覚えはない。空気の密度がところどころ薄く、点々と穴が空いている。その穴は、覗けば覗くほど深い。

 放送室のドアをノックすると、結衣が振り向いた。ヘッドホンを片耳にずらし、ミキサーのスライダーに指を置く。彼女の指先には赤いテープが一本、真横に貼られていた。限界位置。安全弁の印。

「全館のBGM、いったん止める」

 短く言って、フェーダーを下げる。校舎のどこにいても微かに流れていた環境音楽が、一瞬で消える。消えると、壁や机や人の輪郭が立ち上がる。かわりに穴が増える。音のない斑点が、廊下にも教室にも、購買前にも浮かぶ。

「今日は音の穴を増やす。けど、安全弁は忘れない」

 結衣はもう一本、赤いテープを引き出し、スライダーの横に斜めに貼って印を加えた。これ以上下げない。この角度で戻す。彼女のミキサーは、ルールでできている。ルールで守った範囲のなかで、規格外のことを起こす。

 不知火は医務室の体制を増員した。臨時の寝台を一台追加し、ブランケットを補充する。水のボトルを並べ、目の届く位置に救急箱を置く。強制覚醒のキットは引き出しの手前に。彼は言葉少なに、チェックリストに印をつけ、時計を見た。夢庁と学校の境界線を、紙のうえで何度も往復して、足で踏み固めている。

 僕は紙袋を抱えていた。中身は体育倉庫の匂いのついたタオル。昨日の夕方、結衣と二人で体育倉庫を開け、バスケットボールの空気を少し抜いて、マットを畳み直し、棚の奥に残っていたタオルを選り分けた。洗濯済みでも、場所の匂いは残る。ゴムの匂い、古い木の匂い、汗と石鹸が混じった空気の層。舞台のドアを開けるための嗅覚の取っ手。開ける先に出口があるとは限らない。でも、閉じたままよりはずっといい。

「みのりの夢、今日は照明が強いはず」

 結衣が言う。彼女の声は軽いが、目は本気だ。照明が強い舞台は、出演者の輪郭を美しく見せる。美しく見せられるほど、逃げ道は薄くなる。薄くなるから、こちらで手触りを用意する。

 昼休みの終わり、結衣が合成の鐘に、わざとすこしだけ高い息を混ぜた。急かすためじゃない。拍を揃えるためでもない。音の穴が広がると、みんなの呼吸がばらける。そのばらけを、最少限で束ねるための合図。鼓動に手を当てて、三つ、二つ、一つ。落ちるというより、舞台の袖に立って、幕が上がるのを待つ。

     ◇

 落下先は、昨日よりも照度の高い教室劇場だった。スポットライトが白すぎて、輪郭が飛ぶ。机と椅子は整然と客席に並べられ、拍手の札が一定の間隔で配置されている。札の表には大きな丸。裏には小さな丸。掲げれば、拍手が鳴る。掲げなければ、沈黙が降る。舞台中央に、早乙女みのり。委員長として正しく立っている。背筋の角度、マイクの高さ、視線の配り方。どれも教科書に載りそうなくらい綺麗で、だからこそ危うい。

 編集者は、黒い燕尾服で現れた。司会者にも見えるし、指揮者にも見える。手に持つ指揮棒の先は、白い刃に変わっていた。拍手を増やし、テンポを上げ、正しさを磨くための刃。磨けば磨くほど、言葉は薄くなる。薄くなった言葉は、拍手にはよく合うが、人には届きにくい。

「本日の議題は清掃分担です」

 みのりが言う。笑顔。完璧な張り。聴く側の準備が整っている前提の声。客席の影が札を表に向け、音が膨らむ。編集者が棒を小さく振り、拍手の粒を増やす。拍手が多いほど、舞台は美しく見える。美しく見えるほど、本当から遠ざかる。

 結衣の字幕が、天井梁に沿って走った。観客ミュート:八十パーセント。白い文字がすぐに消える。次の瞬間、拍手が引いた。完全に消えたわけじゃない。二割の残響が、舞台の縁に薄く残っている。それでも充分だった。演目が終わっても、反応はない。手の中の札の紙が擦れる音だけが、舞台の音に混じる。みのりの膝がわずかに震える。床の網目が、昨日より粗く広がっていく。

 不知火が観客席の側通路に現れた。腕時計の文字盤をちらりと見て、舞台を観察する。彼は夢の内部に入っても、現実の時間を忘れない。安全弁まで、残り三十秒。僕らが網目を継ぎ終えるまでの猶予。三十秒で足りることもあるし、足りないこともある。今日は──足りる、と決める。

 僕は舞台袖から、タオルを一枚、投げた。きちんと畳まれた四角が、照明の熱で空気にふわりと浮かび、みのりの胸元へ落ちる。彼女は反射で受け取り、顔に近づけた。鼻先が布に触れる。体育倉庫の匂いが、彼女の呼吸に入る。ゴムボールの粉の匂い、古い木の棚の乾いた匂い、汗と石鹸の混じった空気。放課後、誰もいない体育館で、散らかったマットを黙って片付けた記憶。拍手のない時間の、ひとりの重さ。

 みのりの目から、初めて涙が出た。笑顔の枠から溢れ出した涙が、頬の真ん中で線を作る。彼女はタオルを握り直し、マイクの高さをほんの少し下げた。笑わない。

「……やってらんない日も、あります」

 言葉が落ちた。落ちて、沈黙の上に置かれた。拍手がないから、音の厚みは薄い。薄いけれど、床の網目の継ぎが、そこにぴたりとはまる。網目は継ぎに変わり、足場になる。拍手がなくても、立っていられる足場。それを確かめるために、彼女は一歩、足を前へ出した。舞台の真ん中から半歩ずらす。その半歩は、演出の振り付けにはない動きだ。

 編集者が立ち上がった。燕尾服の裾がひらめき、指揮棒が白刃として姿を現す。刃は空気を裂き、舞台の床を撫でる。その軌跡は、評価の線。秩序のための線。彼は言う。「評価は秩序。沈黙は崩壊」。声はどこからも出ていないのに、舞台の上に言葉が浮かぶ。正しい言葉ほど、舞台に似合う。

 刃がみのりの足元の床を撫でた。撫で切る前に、そこには体育倉庫の匂いで固定された逃走路があった。僕が舞台袖のドアノブを引く。金属が木に擦れる小さな音。きしむ音。完璧な舞台の中で、唯一“正しい音”に聞こえる雑音。舞台はきしむことで現実に繋がる。滑らかすぎる板は、いつか必ず人をすべらせる。

「走って」

 僕は声を出せない。ただ、口を動かして手で合図を作る。みのりは笑わないまま、タオルを胸に抱えて走った。観客のいない客席のあいだを抜け、ドアへ。編集者の刃は追いかけようとするが、拍手がない場ではテンポを上げられない。テンポを上げられなければ、刃はただの棒に近づく。

 ドアが開いた。光が縦に差し込む。照明ではない、外の光。舞台の木の香りに混じって、体育倉庫の匂いが濃くなる。みのりは外へ出た。僕も続く。袖に残った編集者は、指揮棒を下ろせないまま、燕尾服の裾だけをわずかに揺らした。

 不知火が腕時計を見て、視線だけこちらに寄越す。安全弁のカウントがゼロに近づく。結衣の字幕が細い文字で点滅する。戻る。戻れる。戻った先に、今日の続きがある。

     ◇

 目を開けると、ホームルームだった。チョークの粉の匂いが強い。黒板の右上、昨日まで「笑顔」と書かれていた位置に、新しい文字があった。「沈黙を怖がらない」。担任は字を直すのが早く、きれいな行書で書いていた。クラスの空気はまだ不安定だ。ざわめきは小さく、視線は揃わない。それでも、さっきまでなかった話題が、机の間を流れていく。

「一人で泣くなら、どこがいいかな」

「図書室の隅、植物の鉢の横」

「音楽室の裏。午後なら人、来ないし」

「保健室は混みそう」

 笑いにしない。からかわない。場所の名前だけが並ぶ。固有名詞は、使い道がある。誰かが使えば、それはルールになる。ルールになる前に、いちどだけ、合図として回る。合図を知っている人間は、困ったときに迷わない。

 早乙女みのりは、教室の前で配るプリントを両手で持っていた。笑顔ではない表情で、僕のほうを見て、小さく口を開いた。

「……ありが──」

 言いかけて、止まる。何と呼べばいいのかわからないから。彼女の目には、僕の首から下がる来客用カードだけが見えている。名前がない。役だけがある。彼女は無言で頭を下げた。それでいい、と僕は目で返す。言葉で受け取れないときは、目で受け取る。受け取ったことが、相手に返る。

 チャイムが鳴り、昼休みが終わる。廊下の音の穴は、さっきより多い。音が消えた場所は、誰でも立てる。立てる場所が増えると、逃げ道が増える。逃げ道が増えると、居場所が増える。居場所が増えれば、ルールは少しだけ優しくなる。

 放課後、不知火は僕を呼び止め、封筒を一通渡した。茶色の角封筒。表に黒いスタンプで、夢庁内部用の記号。裏には封緘の赤い丸。彼はいつもどおりの簡潔さで要件を言う。

「学校全体に“夢税”の徴収兆候が出ている。ゼロ組が現れる前に、制度側からも抑制を入れる必要がある」

 夢税。聞き慣れない言葉だが、意味は直感で分かった。誰かの夢の濃度を、全体の安定のために薄めるとき、差し引かれるもの。取られるのは具体的な幸福でも、特定の不幸でもない。曖昧さと余白。余白が削られると、人は呼吸を忘れる。忘れた呼吸を、制度が代わりに数える。その代わりに、何かを差し出す。帳尻は合う。けれど、合った帳尻で立てるひとは多くない。

「封筒の中身は?」

「集配所のアクセス権。夢の中枢、忘却の集配が行われるハブだ。行くか?」

 不知火の問いは、いつも明確だ。行くか、行かないか。僕は頷いた。結衣が横から顔を出す。眉を少し上げ、視線で訊く。準備、いる?

 僕はメモ帳を取り出し、大きな字で書く。ありがとうと言わない権利を守る。書いた瞬間、結衣が目を細め、口角を上げた。

「……いいね」

 ありがとうは良い言葉だ。でも、ときどき、人はそれを言わずに歩き出したい。言えばそこで終わってしまう場面がある。言わないことで続けられる関係は、夢の外でも内でも貴重だ。言わない権利があれば、沈黙は礼に変わる。礼に変わった沈黙は、拍手よりも長持ちする。

 階段の踊り場の窓から、体育館の屋根が見えた。夕方の風が弱く吹き、屋根の上に白い粉がふわりと降っていく。雪みたいに見える。よく見れば、チョークの粉だ。今日一日、黒板で書いては消した白が、風に拾われて空に還っていく。屋根に積もる前に、空気の層で何度か旋回し、日差しにきらめく。消しても残るもの。薄く積もって、明日の朝、誰かの靴の裏に付くもの。

「集配所は、夜に入る」

 不知火が言う。彼の声は相変わらず平板だが、今日は少しだけ低い。低い声は、揺れない。結衣はヘッドホンを首にかけ、ミキサーの上に両手を置いた。赤いテープはそのまま。限界は見える位置にある。限界が見えていれば、恐れ方に余裕ができる。

「拍手はいらない世界で、静寂を味方にする」

 結衣が言った言葉は、今日をそのまま圧縮したみたいだった。拍手がない場所に、沈黙を置く。沈黙の上に、本当を置く。本当を置くと、網目が継がる。継がれた場所は足場になる。足場ができれば、次の人が走れる。走った人の息が、誰かの呼吸の拍を思い出させる。

 昇降口を出て、夕暮れの空の下を歩く。来客用カードは首の下で揺れ、風でひっくり返る。裏側にはバーコードが印刷されている。読み取られたかどうかは、僕にはわからない。わからなくても、歩く。歩いている間、耳の奥で合成の鐘が一度だけ息を吸った。吸って、吸って。鳴る前の、静かな準備。静かな準備は、音のない拍手に似ている。手のひらを合わせず、胸の中だけで鳴らす拍。

 家に着くと、ポストの中にまた白い封筒が一通。表には赤いスタンプ。宛名不明。返送。昨日よりも赤が薄く、紙の繊維が少し荒い。封を切らずに、机の引き出しに入れた。届かない手紙は、届かないまま取っておく。届かないものが、僕の中の余白を守ることもある。

 夜になったら、集配所へ行く。制度の心臓部。夢税の正体。拍手のいらない世界の、さらに奥。今日用意したタオルは、もう一枚、紙袋に残っている。体育倉庫の匂いは消えない。匂いは音より長く残る。長く残るものは、合図に向いている。

 窓を少し開けると、遠くで海の目覚まし時計が一度だけ鳴った。礼拝堂の梁の音と、体育館の屋根の上を滑る風の音が、同じ高さでかすかに交わる。僕は喉に手を当て、息で数字を数えた。三、二、一。今日の静けさは、ちゃんと味方だ。拍手はいらない。いらないから、明日のために両手を使える。片方で扉を押し、もう片方で、誰かの肩を支える。そうやって進む夜の手順を、暗がりの中で何度も確認した。明かりをつけずに、目を閉じて。音を出さずに、言葉を動かして。明日の拍を胸に刻みながら。

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