第10話 知らない先輩
翌朝の正門は、空気まで色を塗り替えたように新しかった。昇降口へまっすぐ伸びる並木道の緑は湿っていて、昨日より一段、輪郭がはっきりしている。僕はその空気のなかに一歩入って、胸の奥を軽く叩いた。鼓動が拍を作る。吸って二拍、吐いて二拍。勇気の速度に合う。
門柱の陰から、生徒指導の先生が滑るみたいに出てきた。背広の襟はよく糊が効いていて、黒縁の眼鏡の奥にある目は、朝の光でも細い。
「君、どのクラス?」
手を伸ばされ、細いボールペンが僕の指先に触れる。見慣れた書式の来校者名簿が開かれていた。外部者の欄に日付、時刻、用件、氏名。
「来校者名簿に記入を。先生の許可はあとで」
僕は笑って受け取り、ペン先を紙に当てた。綾、と書こうとして、インクがそこで途切れた。白い紙の上に、無色の線だけが残る。次の画数を足そうにも何も出ない。ペンの根元を軽く叩き、角度を変えても、やはり透明な線が伸びるだけだ。名前が紙に乗らない。紙が僕を拒むというより、僕のほうが紙の面に届かない。
「失礼」
横から手が伸び、僕の手と紙のあいだに静かに入った。不知火だ。落ち着いた指先で名簿を閉じ、別のクリアファイルを開く。厚みのある身分証明が二枚。ひとつは夢庁の臨時協力員証、もうひとつは学校に提出済みの研究協力申請の控え。
「今日から彼は実験協力員。学校の外部者として入る。身分は守る。名前は、守れないかもしれないが」
事務的な口調が、逆にこちらの体温を落ち着かせる。生徒指導の先生は書類を細かく確認し、渋い顔のまま頷いた。
「外部者なら、来客用カードを首にかけて。授業の邪魔をしないように。廊下を走らない」
最後の注意だけは、本当に先生らしい。僕はカードを首に下げ、会釈をした。名簿に残らないまま、門をくぐる。門の敷居を越えた瞬間、昨日までの自分が靴の裏で一枚、剥がれたような気がした。けれど、軽い。剥がれ跡に触れる指先は、意外にあたたかい。
昇降口を抜け、二年のフロアに上がる。廊下の窓から入る光は白く、掲示板の画鋲の頭が点の列を作っていた。教室の前に立つと、水城ひかりが友だちと談笑しているのが見えた。頬の色は明るい。髪を耳にかける仕草が自然で、声の高さも以前より半音低い。たぶん、無理をしていない声だ。
ふと目が合った。ひかりは一瞬だけ首を傾げ、礼儀正しく会釈を返す。初対面の距離がすっと置かれる。僕の胸の中心がぎゅっと縮み、その奥に薄い誇りのような温度が重なった。立てた。立っている。僕ではない彼女が。
背中を軽く叩かれる。振り向くと、結衣がいた。放送室では見せない、素の笑い方をしている。
「ね、見た? 顔、戻ってる。声、落ち着いたまま。ほんとにやったね」
僕は頷いた。声は相変わらず出ないが、うなずく動きに迷いはない。結衣は目を細め、少しだけ真顔になる。
「ここからは場の番だよ。個人の次。音をつかまえる範囲が広くなる」
午前中、僕らは職員棟の小さな会議室に集まった。夢庁の臨時ブリーフィング。不知火がプロジェクターを立ち上げ、スクリーンに薄いグレーの図面を映す。学校の見取り図。教室、渡り廊下、体育館、特別教室。中央に淡い円が置かれ、その上に「0組」の文字が薄く浮かんだ。
「最近、この学校全体で眠気や無気力が連鎖している。授業のやり取りが記録に残らない。提出物の宛名が空白。昼休みの会話が同じ三つを漂って循環する」
不知火の声は平板だが、言っていることは重い。
「統計的には集団悪夢の前兆だ。水城ひかりのケースは個人診療の成功例だ。しかし、治療の余波で、薄められた忘却の制度疲労が学校全体に顕在化している。次は個ではなく場を救う」
スクリーンが切り替わり、教室写真に赤い丸が載る。対象の名前が出た。早乙女みのり。学級委員長。成績優秀。いつも笑顔。写真のなかの彼女は、どの角度から見ても「正しい」。コメント欄には「助かる」「ありがとう」「さすが委員長」。言葉は並ぶが、どれも体温のない褒め方で、紙の上で乾いている。
放課後、僕は廊下でみのりに声をかけた。午後の光は角ばっていて、彼女の影を真横に伸ばしている。
「今日のホームルーム、進行、上手かったね」
みのりは振り向き、完璧な角度で微笑んだ。
「ありがとうございます」
そこで会話は切れた。彼女は次の用事へ足を向け、僕は取り残される。空気がブロックみたいに平らで、手で押しても形を変えない。触っているのに、触れない。僕はポケットにメモ帳を入れ直し、角を軽く撫でた。紙の手触りだけが現実だ。
夜。準備。結衣は放送室で環境音のミュートをテストしていた。ミキサーのフェーダーを最小に落とし、校内に微弱で均質なノイズを流して、その上から音を乗せたり消したりする。
「観客の音が消えたとき、人は本当に自分の声を聞く。彼女の夢が舞台なら、観客を消そう」
不知火は反対しかけて、口を閉じた。肩の力を少し抜き、窓の外の暗さを確かめる。
「安全弁をつけろ。限界を超える前に戻る仕組み。強制覚醒を一段、手前に」
「了解」
結衣は短く返事をし、操作を保存した。僕はノートに大きな字で書く。観客ミュート。沈黙の恐怖。失敗の権利の導入。書いた行ごとに線を引き、最後の行に小さく印をつける。印は、僕自身のために。声が出ない僕が、ここで言うべきこと。
入眠の合図は簡潔だった。結衣の合成鐘は昨日よりわずかに速い。焦りの速度ではなく、渡る速度。耳の奥で三つ数え、目を閉じた。落ちるというより、舞台袖に立ったまま幕が上がる。
舞台は教室劇場。蛍光灯が縦に走り、スポットライトのように床を切り取る。机と椅子はすべて客席に変わり、クラスメイトが並んで座っている。拍手の札を持っている。表には大きな丸、裏には小さな丸。持ち替えれば「静かに」も出せる。黒板は上手側に寄せられ、中央に立つのはみのり。委員長としての姿勢のまま、センターに立っている。笑顔は舞台用に整えられ、光をよく反射する。
編集者は黒い燕尾服。胸元から覗く白の硬さが、ここでは刃に見える。手には指揮棒。先端が、白い刃の形に光る。彼が棒を軽く振ると、客席の拍手がふくらんだ。「本日の議題は清掃分担です」。みのりが台詞を言う。典型的で、正しい。編集者はうなずき、拍手の音を二割増す。拍手が多いほど、言葉は薄くなる。
僕は客席最後列に立った。来客用カードは首の下で揺れて、舞台では意味を持たない。僕は小さくブーイングを出した。わざとらしく小さい音で。最後列の座面に手を置き、木の軋みで作る程度の弱い反対。少数派の拍、をわざと作る。
客席がざわついた。編集者はすぐにこちらを向き、指揮棒を一振り。拍手が一気に大きくなる。ブーイングは波に呑まれ、木の軋みは音楽に吸い込まれて消える。笑顔の密度が増し、みのりの台詞のテンポは早まる。早いときの正しさは、刃と同じだ。
天井に結衣の字幕が走った。観客ミュート。文字は短く、命令形でも説明でもない。合図だけ。次の瞬間、音が消えた。拍手も足音も、紙の擦れる音も、舞台袖で誰かが息を呑む音も、全部。残ったのは照明の熱と、床板の乾いた匂い。沈黙が落ちた。重い布が上から降りて、舞台と客席のあいだに層を作る。みのりの笑顔が一瞬だけ震えた。足元の床がうっすら網目に割れる。評価がない空間は恐ろしい。恐ろしさは、自由でもある。
僕は舞台袖から出て、センターの少し手前で足を止めた。声は出ない。だから、ゆっくり手を上げる。遅い動作は、言葉の代わりになる。みのりは僕を見た。目を逸らさず、戸惑いを顔に出したまま、立っている。僕は唇だけを動かす。
失敗していい。
音はない。けれど、唇の形は、舞台上では台詞よりわかりやすい。みのりは初めて、言葉を詰まらせた。あ、えっと、と二音だけ漏れ、そこで止まる。床が一段落ちた。彼女は笑わない。笑わない顔を自分に許すのに、一拍必要だった。目線だけを上げ、観客のいない客席を見渡す。誰も見ていない客席は広く、遠い。彼女は小さく息を吸った。
「今日、掃除をサボりたい人」
沈黙。誰の衣擦れもない。ただ、照明の熱が下りてくる。やがて、客席の片隅で一人の影が手を上げた。背の高いバスケ部の男子。彼は視線を落としたまま、手だけを上げている。拍手はない。評価もない。だが、本当が置かれた。網目の床が少し固くなる。みのりの口元に、泣き笑いの線が走った。
「……ありがとう。代わりに、明日、早めに来てくれる?」
「はい」
短い返事。そこに気持ちは多く乗らない。けれど、行為には意味が乗る。編集者は燕尾服の裾を揺らし、指揮棒を振るのをやめた。棒の先の白が少し鈍った。評価がない場は、彼の手続きを遅らせる。拍手がなければ、彼はテンポを乱せない。
沈黙は長すぎると刃になる。結衣は安全弁を忘れない。天井の隅で小さな文字が光った。十、九、八。安全に戻るカウント。みのりはその間にもう一度息を吸い、今度は舞台の外へ声を投げた。
「掃除が嫌な人、嫌な理由を書いて、明日、教卓の引き出しに入れてください。名前はいらない。読んで、配分を直します」
沈黙のなかで、その言葉だけが濃く立った。客席に並ぶ影は動かない。影の動かなさは、拒絶ではなく、戸惑いだ。戸惑いを許しておけば、次の動きが生まれる。網目の床はさらに固く、舞台の端まで続いた。
覚醒の合図は、蛍光灯の音が戻ることだった。現実の音は単調で、夢の音より薄い。薄い音が戻ると、頭の中の濃度が調整される。目を開ける。ホームルーム。黒板に書かれたクラス目標の文字が、昨日から書き換わっているのに気づく。「笑顔」から「休む自由」へ。笑顔は、目標ではなく結果。自由は、目標ではなく前提。書き換えられた白いチョークの粉が、何人かの手のひらについて、机の角に指紋を残す。指紋の白さは、現実に本当が触れた痕跡だ。
不知火は会議室で資料にチェックを入れた。集団相の前兆。その欄に印を付け、横に小さくメモを残す。安全弁、効力確認済。結衣は放送室でミキサーのフェーダーを戻し、録音した合成鐘の波形を保存する。保存先のフォルダ名は、昨日の続きではなく今日の日付。彼女は画面の隅を見て、小さく言った。
「ゼロ組が来る。来る前に、音を握ろう」
放課後、昇降口の掲示板に紙が一枚貼られた。「0組編成案(案)」。まだ白紙だが、中央に薄く「0」の輪郭が印刷されている。白の上に載る灰色の輪郭は、何もないのに目を引く。人の目は、空白を嫌う。空白は、誰かに埋められる前に名を付けたほうがいい。
僕はその紙の前で足を止め、胸の中で四つ数えた。吸って二拍、吐いて二拍。名札のない首から来客用カードが揺れる。知らない先輩、というのは、不思議な立場だ。後輩から見れば未知で、先生から見れば外部者で、僕自身から見れば、ただの生徒の変形。変形しても、歩き方はそう簡単には変わらない。
廊下の向こうで、ひかりがこちらを見る。視線が重なる。彼女は小さく会釈し、まっすぐに歩き去る。初対面の礼は、昨日より自然だ。彼女の胸ポケットには、短冊が入っている。あさっては今日。今日という言葉は薄くなるのが早いけれど、持ち歩けば、薄さは分厚さに変わる。
放課後の空は、色を決めかねていた。青とも灰色ともつかず、校舎のガラスにだけ少し濃く映る。渡り廊下を吹き抜ける風は弱く、体育館の扉が一度だけ鳴った。僕は昇降口を出て、門の前で立ち止まった。来校者名簿は朝と同じ場所にあり、ペン立てには同じボールペンが入っていた。何となく手に取り、紙の上にペン先を当てる。無色の線が、今日も一本伸びる。名前は残らない。けれど、線は引ける。線は、道になることがある。
家に帰ると、ポストにまた一通、封筒が入っていた。宛名不明の赤いスタンプ。昨日のと色が同じに見えて、微妙に違う。昨日は少し朱に寄っていて、今日は茶色味が強い。紙の表面の手触りも違う。封筒を裏返し、差出人を見たが、印刷は薄れて読めなかった。封を切らず、机の引き出しにしまう。溜めるのはよくないのかもしれないが、捨てるのも違う。届かない手紙は、届かないままの場所に置いておく。
夜、放送室に集合した。結衣はヘッドホンを首にかけ、ミキサーの上に両手を置いている。不知火は窓際に立ち、外の暗さを確認してからカーテンを半分だけ閉めた。
「明日以降、ゼロ組の起点がどこに出るか未定だ。起点をこちらで用意できるなら、体育館か図書室。校内放送で全域の位相を合わせ、観客ミュートを段階的に使う。拍手がいらない世界に、静寂を味方にする」
結衣が僕を見る。僕は頷く。声は出ないが、言葉なら書ける。メモ帳の最初のページを開き、上に大きく書いた。知らない先輩。次に、小さな字で続ける。名前のない役の役割。失敗の権利の管理。拍手のない場の手引き。書き終えると、紙の端に丸をつけた。丸は、ゼロに似ている。ゼロは何もないが、位置がある。位置があるものは、地図に載せられる。
窓を少し開けると、渡り廊下のほうから風が入り、カーテンがわずかに持ち上がる。遠くで、海の目覚まし時計が一度だけ鳴った。合図の一打。僕たちは同時に呼吸をそろえる。吸って二拍、吐いて二拍。明日の朝、門をくぐるとき、僕はまた来客カードを首にかけるだろう。名簿に名は残らない。けれど、歩いた道は足の裏が覚える。知らない先輩としての再出発。足取りは、思っていたよりも軽い。
帰り道、横断歩道の手前で信号が赤になった。立ち止まり、向こう側の歩道に会釈をする。誰にともなく。礼を言う相手を決めない礼は、今日の僕にふさわしい。青に変わる。渡る。渡り切る。その間中、頭の中で小さな鐘が息を吸っていた。鳴る準備は、いつでもできている。気づけば、僕は無意識に口を動かしていた。声は出ない。けれど、言葉は動く。動く言葉が、場を少しずつ変えていく。拍手のいらない世界で、静寂を味方にしながら。僕は前を向いた。空気は冷たくなく、夜は長すぎなかった。明日のゼロの輪郭は、もう紙の上に薄く見えている。そこに、最初の点を置くのは、たぶん僕の役だ。




