第1話 転入生は、他人の夢で会う
チャイムの音が、朝の湿った空気を切り裂いた。
四月の光はまだ冷たく、窓際のレースカーテンを透かして淡く教室を満たしている。
「転入生を紹介します。綾瀬灯真くん。前の学校は——」
担任の声を聞きながら、灯真は黒板の上に掛かった時計を見上げた。針は確かに進んでいる。だが、秒針だけが音を立てていない。
シーンとした教室の中で、その“静寂”だけが逆に浮かび上がっていた。
「……綾瀬灯真です。えっと、よろしくお願いします」
口にした瞬間、奇妙な“欠落”を感じた。言葉の端が途中で欠けたように、教壇の上から教室全体の色が一瞬、白く薄まる。
風がないのに、カーテンが逆向きに揺れた。屋上の風見鶏が、ゆっくりと逆回転しているのが見えた。
その異様な光景の中、ひとりの女子生徒が眠たげに顔を上げた。
水城ひかり。黒髪を肩まで垂らし、机に頬杖をついたまま。教師が名前を呼ぶと、彼女は半拍遅れて返事をした。
その“ズレ”を見た瞬間、灯真の耳の奥で「紙を切る音」が鳴った。
ビリ、と。
教室の掲示物の一部が、まるで誰かが塗りつぶしたように真っ白に消えた。
誰も気づかない。誰もざわめかない。
ただ灯真だけが、現実の表面が“削られた”音を聞いていた。
初日の授業は、奇妙なほどに早く過ぎた。内容は断片的で、ノートを取ってもすぐに文字が霞む。隣の席の男子に話しかけられても、会話の終わりが途切れるように感じた。
昼休み、窓際のひかりは本を開いたまま、また眠っていた。
——あのとき、僕は彼女に近づかなければよかったのかもしれない。
放課後。
図書室。
転入手続きの書類を返しに来た灯真は、誰もいない静寂の中で鉛筆の音を聞いた。
コツ、コツ、と。
ページの裏を刻むような音。
振り向くと、窓際の机にひかりが座っていた。開いたノートの上に鉛筆を立て、目を閉じたまま何かを“刻んで”いる。
「……みつけて」
その言葉を、確かに聞いた。
ひかりの指がノートに文字を刻み、次の瞬間、ふっと力が抜けたように彼女は眠りに落ちた。
「え、ちょ……」
呼びかける間もなく、灯真の視界が揺れる。
本棚の間の影がゆらぎ、そこに“落ちた”。
——落下。
重力が途切れ、足元の床が遠のく。
気づけば、そこは別の教室だった。
黒板の文字はすべて“目録化”され、記号の羅列に置き換わっている。教室の奥では誰もいないのに、ページをめくる音がする。
廊下の端には、司書服をまとった“影”が立っていた。顔は塗りつぶされ、胸元には白い鋏がぶら下がっている。——“編集者”。そう、直感で理解した。
灯真は一歩、後ずさった。床のタイルがガラリと動き、“出席番号順”に入れ替わる。まるで誰かの名簿に沿って並び替えられていく。
息を呑む間もなく、影がこちらを向いた。
「……っ!」
走る。足がもつれる。追いかけてくる“紙の音”。
とっさに灯真は言葉を吐いた。
「い、委員会名簿の提出に来た!」
影がぴたりと動きを止める。
ゆっくりと首を傾け、名簿棚の方へと視線をずらした。
今だ。
灯真は教室の奥にある“開かずの扉”に手をかけた。
鍵穴に何かが挟まっている。
それは、紙で折られた小さな花だった。
目を覚ますと、そこは再び図書室だった。
窓の外には夕焼け。ひかりの姿はどこにもない。机の上には、鉛筆で刻まれた文字だけが残っていた。
——みつけて。
手のひらには、湿った紙片が握られていた。夢から持ち帰った“紙の花”の欠片。
指先を近づけると、かすかに冷たい海の匂いがした。
スマホを開く。クラスのLINE。
参加者一覧の中で、自分のアイコンだけが彩度を失って見える。
誰にも気づかれないように、現実の輪郭が薄れていく感覚。
外に出ると、風見鶏はもう正しく回っていた。
だが、掲示板のポスターの一行だけ、空白のままだった。
——代償は、すでに始まっていたのかもしれない。
その夜、机の中から“紙の花”の欠片が滑り落ちた。
床に触れた瞬間、紙がしっとりと濡れ、青白い光が広がる。
灯真は息を呑んだ。
あの夢の教室で見た、塗りつぶされた影の輪郭が、一瞬だけ現実の壁に浮かんだのだ。
彼はその光に触れようとしたが、次の瞬間、スマホの画面がちらついた。
通知。——「新しいグループ“夢の共有者”があなたを招待しました」。
知らない名前が並んでいる。その中に、ひかりのアイコンがあった。
笑っている。だが、口元だけが塗りつぶされている。
灯真は、胸の奥に冷たいものが落ちていくのを感じた。
あの夢は、偶然ではない。彼女は呼んでいる。
——夢の中で、もう一度。
指先に残る紙の匂いを嗅ぎながら、灯真は決意する。
再び、あの扉を開けるときが来たのだ。
夜の風がカーテンを揺らす。
その音は、紙を切る音に似ていた。




