猫嫌い
その建物への扉を開いた時、私は顔を顰めずにはいられなかった。
開けた扉の奥からねっとりとした熱風と共にやってきたのは、糞尿の臭い。それも下痢よりも更に酷く、何十日も『腐敗』させた、文字通り吐き気を催す悪臭だ。一瞬漂うだけならまだしも、扉の奥からどんどん溢れ出す。
その悪臭の源は、扉の先……室内の廊下のあちこちに広がる、どろっとした茶色い染みだろう。廊下の先にあるリビングへと続く扉は開きっぱなしで、染みも奥まで伸びていた。今が夏真っ盛りだからか無数のハエも湧いていて、黒い靄のように見えるほどの大群が、私の立つ外目掛けてぶわっと飛んでくる。
そして建物の奥から聞こえてくる、にゃーにゃーという鳴き声。姿は見えないがこの場所――――古びた平屋の中には、無数の猫が暮らしているようだ。
「……酷いですね、これは」
「ああ。故人を悪く言いたくはないが、数ある現場の中でも最悪の類だな」
「うげー」
私が漏らした呟きに、傍にいた『先輩』は同意し、『後輩』が不快感を声に出す。白い防護服に身を包んでいるが、顔には何も付けていないので、私含め全員の不快さが表情から窺えた。その不快さが夏の暑さ以外の理由から来るものなのは、言うまでもない。
私達がただの一般人なら、すぐに退散しても良いだろう。
だが私達は仕事としてこの場に来ている。仕事環境が劣悪なのも、事前に聞いていた話だ。それに見合った賃金をもらう契約であり、だからこそ糞尿塗れでも私達は踏み込まなければならない。
そう。この家を綺麗に掃除するために。
私達の仕事は特殊清掃というもの。通常の清掃では綺麗にするのが難しい、例えば人が死んだ後の部屋とか、ゴミ屋敷とかの掃除を行うのが仕事だ。今回掃除するのは築数十年の平屋。周りにある他の住宅と比べても大きな家で、糞尿の臭いが漂っている事を除けば、裕福な生活を想起させる。
此処に暮らしていた老人は最近外出中に交通事故で亡くなったらしい。本来ならご遺族は遺品の片付けなどをしたいのだが……この家、昔から猫屋敷と呼ばれるぐらい猫が多い。家人が若い頃はお手伝いさんなどを雇い掃除や世話をしていたが、最近は放置され、家中が猫の糞尿塗れ。それどころか死骸も放置しているとの事。
子供がいればそれでも頑張って片付けに来たかもだが、どうやら亡くなった方は独身。親戚は遠縁しかなく、正直誰も立ち寄りたくもないとかなんとか。今は真夏というのもあって、糞尿も死骸もすぐに腐る。腐肉があると虫も湧く。綺麗にしなければ誰も中に入れず、遺品整理どころか片付けも儘ならない。
そこで私達に依頼があった、という訳だ。糞尿塗れとは中々ハードな案件だが、そういうケースに遭遇した事もなくはない。先輩だけでなく、私もこの仕事ではそこそこのベテランなのだ。
「よし、行くぞ」
「「はいっ」」
先輩の後に続いて、私と後輩もこの腐臭に塗れた一軒家に足を踏み入れた。
結論から言えば、思ったよりも悪い状況ではなかった。
確かに臭いし汚いしで最悪の環境である。しかし猫の死骸は、思いの外少なかった。どうやら家人は餌や水をきちんと与えていて、猫が死なないようにはしていたらしい。
尤も、死なないようにしていただけで、生活環境は劣悪そのもの。猫達の身体は汚く、一部毛が剥げていたりとどう見ても病気持ちだ。それと当然ながら家人が亡くなってからは餌も水もなく、過酷な夏の暑さに晒されている。だから、なのかは分からないが、最近のものと思われる死骸も幾つかあった。
死んでいる猫は片付け対象だ。ゴミ袋に入れ、周辺に広まった汁や腐肉などを片付ける。分類は燃えるゴミ。
では生きている猫はどうするかと言えば。
「しっしっ。あっち行け」
そのまま、外に追い出していた。
一応飼い猫なので本来は捕獲すべきかも知れないが、実態は野良猫が家に閉じ込められていただけ、と近隣住民から聞いている。追い出したところで、元の生活空間に戻すのと変わらない。あと正直触りたくもないし、ダニとかもいそうなので近付くのも危ないかも知れない。
追い出し方は大声などで脅し、適当な棒で叩いて、開けた窓や勝手口から出ていくよう促す。勿論怪我をさせるつもりはないので直接叩くような事はしないけど、ふてぶてしく居座ろうとする奴はちょっとケツの辺りを叩いてやった。無論、怪我しない程度に加減はしている。
色々クレームは入るかも知れないが、私達の業務に猫の保護は含まれていない。遺族からも依頼されていない。捕まえるための器具もないし、素手で捕獲して引っ掻かれたら病気になりかねない。というか捕まえた後どうする? 保健所送りで殺処分か? 私は飼う気なんてないぞ。
かといって家に閉じ込めていたら、夏の暑さでいずれみんな死ぬだろう。そうなったら、まぁ可哀想なのもあるが、死骸となってまた家が汚れる。文句を言うのは勝手だが、現実的に無理なものは無理。
虐待とか怪我とかしないよう気を遣っているのだから、保護云々は好きな人達が勝手にやってくれと思う。
「猫、外に出しました」
「おう。これで大分いなくなったか」
「鳴き声は聞こえなくなりましたねー」
私が猫を追い出した傍で、先輩と後輩は黙々とゴミを片付ける。
今掃除している場所は台所、と思しき部屋。空の弁当箱や生ゴミが積み上がっていて、本当にそうなのか疑わしく思えてくる。そして漂う腐敗臭の濃さからして、猫の死骸が一つか二つありそうだ。
だが家の最深部であるこの部屋まで私達は到達した。此処を綺麗にすれば、今日の仕事は終わりになる。明日以降も細かな掃除はあるが、それはこの大掃除に比べれば楽なもの。最後の一踏ん張りと気合いを入れ直す。
……とはいえ、もうすぐ仕事が終わりだと思うと気も緩む。私語を挟んでしまう気持ちは、分からなくもない。
「しっかし、今回の故人はアレっすね。どっからこんなたくさんの猫を連れてきたのやら」
後輩が叩いた軽口は、私達の誰もが抱いていた気持ちの代弁だった。
数えた訳ではないので正確な数は分からないが、生きてる猫だけで二十匹はいたと思う。死骸を含めれば三十匹以上だろう。
集めるだけでも相当な労力が必要だ。ペットショップで購入すれば簡単だろうが、一匹何万とかするものを二十も三十も集めるのはあまりにも金が掛かる。あと家にいたのは黒猫やら三毛猫やらで、野良っぽい感じがした。
なら、何処かから拾い集めたのだろうか。その疑問に答えてくれたのは、黙々と片付けを続けている先輩だった。
「なんでも、庭に餌を巻いて野良猫を集めていたらしい。近隣住民が目撃しているそうだ」
「へぇー。そんな事して集めていたんすか」
「ああ。集めた猫はそのまま餌で誘導して、家の中に閉じ込めていたらしい。外飼いしていた猫を攫われて、文句を言った奴もいたが、物凄い剣幕で追い出されたとか」
「それは外飼いしてる奴も半分ぐらい悪くないっすか?」
「それについては同感だな。話を戻すが、捕まった猫は無理やり家に閉じ込められている訳だから、窓を開けた拍子に逃げ出す奴もいたらしい。そうなると後が大変だ」
「後?」
「ぎゃーぎゃー泣き喚くんだそうだ。しかも夜とか夕方だと、家から跳び出して徘徊するらしい。猫を捕まえれば大人しくなるが、見付からないと朝まで喚きながら走り回るとか」
「うわぁ。最悪っすね、それ」
「だろ。お陰で近隣住民も怖くて話し掛けられない有り様だ」
先輩達の話に、私も無言でうんうんと頷く。確かにそんな奇人、下手に声を掛けたら何をしてくるか分からない。ましてや苦情を入れたらどうなる事やら。我慢か引っ越しか、嫌な二択を迫られる訳だ。
しかし、なんというかこの家に暮らしていた故人は、随分と猫に執着していたらしい。猫がたくさんいないと不安だったのだろうか? 猫がいないと家にいられない? それはなんというか、精神に色々問題があったと言わざるを得ない。
病気だったと思うと、ほんの少し同情の気持ちも湧く。
私だけでなく先輩や後輩も同じ気持ちを抱いたのかも知れない。みんな押し黙ってしまい、沈黙が場を支配する。ガサガサと、ゴミを片付ける音だけが部屋に響く。
そんな中で不意に、部屋の外からガタンと大きな物音がした。
「……何か、倒れたか?」
先輩がぼそりと呟く。
家の中は死骸や糞尿があちこちにあった状態だ。これらの汁は柱や床に染み込み、腐食させているのを私達は見てきた。腐っているという事は、脆くなっているという事。
可能性は低いだろうが、地震があればこの家は倒壊するかも知れないし、何もなくても潰れるかも知れない。その兆候かも知れない物音を無視するのは、賢明な判断とは言えないだろう。勿論、全員でぞろぞろ行くほどの事でもないが。
「俺が様子を見てくる。お前達は此処の片付けを続けてくれ」
「うぃーっす」
「分かりました」
先輩は早歩きで、台所から出ていく。私と後輩は指示通り、台所の片付けを進める。
いっぱいになったゴミ袋を廊下側へと運び出し、床に散らばった何かの液体を拭いて、新たに生じたゴミは用意した袋に入れていく。
「廊下側のゴミ、外に運びますねー」
「うん、お願い」
そのゴミ袋で廊下が埋まりそうになったところで、後輩が運び出す。外には私達が乗ってきたトラックがあり、そこにゴミを載せるのだ。
一人になった私は、そのまま黙々と片付けを続けた。片付ける中でついに腐臭の源、猫の死骸を見付ける。生きているなら兎も角、死んでいるならただの腐肉。ゴミ袋の中に放り捨てた。
私もこの仕事をしてそこそこの期間になる身。臭いのも汚いのも慣れたもので、十分ぐらい黙々と作業する事が出来る。そうして大分綺麗になったなと一息吐いたところで、ふと思う。
先輩も後輩も、全然帰ってこないと。
「……あれ?」
おかしい。
先輩は家中を見回りしていると思えば、やや不自然とはいえ説明可能だが……後輩はゴミ捨てに行っただけ。確かにこの家はそこそこ大きく、台所は家の奥に位置している。玄関までの道のりは遠いと言えなくもない、が、だとしても片道一分も掛かるまい。
重たいゴミを両手に持っている事を考慮しても、二〜三分もあれば帰ってくる筈だ。十分も戻らないのはおかしい。まさかサボり? とも思ったが、あの後輩は言葉遣い以外かなり真面目だ。作業中に何処かへ行くほど無責任ではない。
先輩の手伝いでもしているのだろうか? 物音の正体を確かめた先輩が、作業の手伝いを申し出た……いや、それならそれで私に一言ぐらい伝える筈だ。
何故二人とも帰ってこないのか。何かトラブルでも起きたのだろうか。
「……ちょっと探そうかな」
部屋の片付けが一段落したところで、私は先輩達を探す事にした。
台所から出てすぐに、新たな違和感を抱く。
周囲から、セミの鳴き声ぐらいしか聞こえないのだ。先輩は今、先程聞こえた物音を調べに行った筈。だから歩き回る音とか、何かを動かす音とか、そういうのが聞こえなければおかしい。後輩も呼び付けて何かしているなら、尚更物音がしそうなものである。
それと空気が粘つくような、重々しいものになった気がする。掃除によって臭いは相当マシになり、ハエなどの姿もあまり見られなくなったのに。
「……………いや、こんなのは気の所為」
自分の感覚を、言葉に出して否定する。そうしなければ納得出来そうになかったから。
落ち着いて考えれば、二人が急用、例えば腹痛でトイレに駆け込んだ可能性もあると気付く。この家のトイレは、掃除したとはいえ猫の糞尿(だと思いたい)塗れだった。使いたくなくて、コンビニとかに向かってもおかしくない。
兎も角、今は家に二人がいない事を確かめよう。台所から出た私は居間へと向かい、それから寝室と思われる和室に入る。
居間にも和室にも、二人の姿はない。
和室の畳は腐っていて、全部交換というか、処分した方が良い状態だ。踏めば穴が開くかも知れない。危ない場所には近寄らないのが賢明だとは私も思う。だけど何処にも、まだ二部屋しか入っていないが、二人の痕跡が見られない。情報がない事に不気味さを感じ、ついつい和室の奥に踏み込んでしまう。
尤も、和室なんて大してものも置かれていない。掃除した後なら尚更だ。目ぼしいものなんて何もない。
次の部屋に行こう。
思考を切り替えようとしたその時、背後からかさりと物音がした。
「っ」
反射的に私は背後を振り返る。先輩か、はたまた後輩か。そのどちらかだと期待を込めて。
残念ながらそこにいたのは、人ではなく猫だった。
黒猫だ。この家に飼われていた猫の一匹だろうか? 糞尿が付着しているのか黒い毛が所々茶色く、非常に汚らしい。その癖金色の瞳だけは綺麗で、アンバランスな、得体の知れなさを醸す。
室内の暑さもあってか、黒猫の息は荒い。しかし態度自体は落ち着いていて、こちらを観察するようにじっと見つめていた。金色の瞳に見られると、心の内側を見透かされているような気分になり、かなり不気味だ。
「……しっ。しっ!」
不快さもあって、私は足踏みして黒猫を追い出そうとする。
だけど黒猫はまるで気にしない。いや、じっとこちらを見続ける様は、嘲笑うようにも思える。猫がそんな事をするかは分からないが、私の心はかなり掻き乱された。
苛立ちのまま、一際強い足踏みで音を鳴らす。それでも黒猫は動じない。
代わりと言わんばかりに――――天井からガタガタと物音が鳴った。
「えっ?」
あまりにも大きな音に、思わず天井を見遣る。
聞き間違いか? そんな思いを見透かすかの如く、天井からの音は止まない。止まないどころか、ガタガタドタドタ、まるで何かが走り回っているかのように激しさを増す。
上の階に先輩や後輩がいて、なんらかの理由で走り回っている? いいや、あり得ない。この家は平屋で、二階なんてないのだ。あるとしたら屋根裏だけだが、そんな場所に出向く用事は、今の私達にはない。
なら、天井裏を小動物が走り回っているのか。これも考え難い。ネズミや猫のような『小動物』にしては物音が大き過ぎる。しかもガタッと音が鳴る度に天井は軋み、板が僅かに揺れ動いていた。それなりの体重がなければこんな事にはならない筈だ。
建築の知識なんてないから、正確な事は分からないけど……余程大きな生き物じゃなければ、こうはならないと思う。
それこそ人間ぐらい大きな生き物じゃないとおかしい。
「いや、そんなまさか」
現実的に考えた筈なのに、あり得ない想定になってしまう。こんな住宅地のど真ん中で、人間より大きな生き物が屋根裏に入り込む訳がない。ううん、いちゃいけない。
なのに。
――――ドタドタドタドタドタドタ、ガタガタガタガタガタガタ。
足音は全く止まない。それどころかまるで私の位置を把握しているかのように、ぐるぐると私の頭上で鳴らす。
それも不気味だが、もっと気味が悪いのは足音の速さ。あまりにも速い、いや、多い。人間がこんな素早く足踏みなんてしたら、ろくに前に進めないだろう。なのに足音は早く鳴り、速く蠢く。
何がなんだか分からない。呆然としながら天井を見上げ、思わず半歩後退り
した瞬間、背後からどぼどぼと液体の滴る音が聞こえた。まるで私が後退りするのを邪魔するような位置とタイミング。音の大きさに驚いたのもあって、反射的にそちらに振り向けば、どす黒い液体が天井から和室の畳に流れ落ちていくところを目にする。
畳なので液体はすぐに染み込むのだが、あまりにも量が多い。水溜りとなって広がり、それは私の足下までやってくる。防護服と手袋で身を包んでいるとはいえ、気味の悪い液体に触りたくなんてない。
しかも漂ってきた臭いは糞尿ではなく、血のように鉄臭いものだった。
「ひっ……!?」
何故この液体からそんな臭いがする? 天井にいたネズミを猫が八つ裂きにしたのか? いや、どれだけ細かく切り刻んでも、ネズミ一匹から畳に水溜りが出来るほどの血なんて出る訳ない。
どぼどぼと落ちてくる血は未だ止まらない。異様な光景を前にして、私の身体はガタガタと恐怖で震え出す。
対して、猫はまるで気にしていない。
全ての猫が水を嫌う訳ではない。だがどろっとした血の飛沫を前にして、微動だにしないのはどういう事なのか。身体に血が付着しても、嫌がる素振りもなく私を見続けている。
まるでこの黒猫が、この奇妙な現象を引き起こしているかのよう――――
「そ、そんな訳ない!」
脳裏を過る不気味な考え。私はそれを大声で否定する。
オカルトなんてこの世にはない。黒猫が不吉だとか、猫には霊が見えるとか、そんな事はあり得ない。ましてや超能力みたいな力なんてある訳ない。
だけど身体は無意識に距離を取ろうとする。少しずつ後退りする。
その動きさえ気に入らないと言わんばかりに、また背後で何かの落ちる音がした。
ぐちゃっと、生々しい塊が落ちてきたような音だ。ただでさえ訳が分からない状況なのに、今度は塊? 一体何が起きている?
そもそも何が落ちてきたのか。怖かったが、確認しないのも落ち着かず、振り向いて確かめる。
最初見た時には、布の塊だと思った。
だけどよく見れば布ではなく、千切れた服の『袖』だと分かる。でもただの袖にしては厚みがあるし、赤黒い、血の臭いのする液体が染み出している。
見ちゃいけない。見るべきじゃない。
そう思うけど目が離せない。じっと見つめて、やがて正体を理解してしまう。
落ちてきたのは腕。
誰かの身体から引き千切られた、人間の腕だ。
「ひぃっ!?」
見間違い? 幻覚? 本物? どれが正しいかなんてどうでも良い。人の腕のある場所になんていられない。
這いずりながら和室から逃げ、居間、更に台所まで戻る。
その間も天井の足音は、私の後を延々と追ってきた。いや、追い抜いて、私の遅さに苛立つように頭上をぐるぐると歩き回っている。見えていると言わんばかりに、私の上から動かない。
そして黒猫は、私の後を淡々と追ってくる。
近付いてはこない。でも離れてもくれない。一定の距離を保つように、私の後をぴたりと追ってくる。見開かれた金色の瞳で、何時までも私の背中を見つめているのだ。何を考えているのか、黒猫の顔から窺うなんて出来ない。
だけどこのまま逃げれば、台所の勝手口に辿り着く。外に出て、そこで落ち着いてから、冷静に先輩達を探せば良い。
「も、もう、少し……!」
あと少しで外に出られる。まだまだ遠い勝手口のドアノブに、私は無意識に手を伸ばした
が、その手が届く前にまた天井からぼとりと落ちてくる。
大きな塊だ。二度目となれば少しは慣れて、またおぞましいものが落ちてきたと思いながらも、冷静に確認する余裕があった。尤も、余裕は一瞬で吹き飛んでしまったが。
今回落ちてきたのは、靴だった。
勿論中身のない靴ではない。どろっとした黒い液体を撒き散らし、重さのある転がり方をしている。『中身』があるのは明白で、不気味さは感じるが、先程腕が落ちてきた時点でそれぐらいの事は想定している。
私の思考を邪魔したのは、その靴に見覚えがあったから。
私達清掃員が履いているのと同じデザインの靴だ。それが誰の靴かは分からない。だけど誰かの靴である事を想起させる。
まるで、お前もこうなる、と言われている気分だ。
――――その瞬間、私の脳裏を支配したのは恐怖でなく、憤りだった。
後ろにいる黒猫は、相変わらず私を見ている。まるでこちらを嘲笑うよう。こんな大きなものが落ちてきて、ビビらない猫が無関係?
私には、とてもじゃないがそうは思えない。
猫に不思議な力があるとは今も思わない。だけどコイツは別だ。なんのつもりか分からないけど、このままおちょくられるなんて我慢ならない。
「人間を、嘗めんじゃないッ!」
怒りのまま、私は近くにあったゴミ(弁当の空箱か)を投げ付ける!
投げたゴミは黒猫の顔面に命中。今まで澄ました態度でいた黒猫は、「ギャッ!」と悲鳴を上げて一気に走り出す。野良猫らしい俊敏な動きだ。
すると天井から聞こえていた足音が、ぴたりと止んだ。
あまりにも一瞬で音が止むから、私自身呆気に取られてしまう。思わずキョロキョロと周囲を見回して、何か異変がないか探してしまう。そして何一つ異変は見付からない。
何がなんだか分からないけど、おかしな事は終わったのだろう。
そう思ったら、未だ糞尿が染み込んでいる床にへたり込むぐらい、安堵の気持ちが溢れた。いや、安堵している場合ではない。今からでも先輩達を探さねばとどうにか奮い立ち、立ち上がるために前を向く。
その目の前に、今度はネズミが現れた。
人間よりも、遥かに巨大なネズミが。
「ぇ、あ?」
思わず漏れる声、抜けてしまう腰。目線を逸らす事も出来ず、私はそいつを見てしまう。
尻尾を除いた体長は、優に二メートルはあるだろうか。腹や背中の一部に毛がなく、赤い地肌が剥き出しになっていた。胴体は肋骨が浮かび上がり、痩せ衰えている。しかしそれは貧弱さよりも、獰猛さを感じさせる体躯だ。手足は太く、逞しい。長く伸びた指先には鋭い爪があり、まるで肉食獣のよう。
特に不気味なのが頭部。目が四つもあり、まるで魚のようにぎょろりと見開かれている。瞬きもしていない。口はヘビのように大きく裂け、口内には針のように鋭い歯がびっしりと並んでいた。舌は三つもあり、それぞれがミミズのように蠢く。
そして開いた口から、だらだらと涎を流す。涎には赤黒い液体と、肉片のようなものが混ざっていた。
「な。なん、なん、で」
腰が抜けていて、動けない。動けない私に、ネズミの化け物はじりじりとにじり寄ってくる。大きな口を開きながら。
恐怖から、近くにあったゴミを片っ端から投げ付ける。ゴミは化け物にぶつかったが、傷一つ付かず、怯みもしなかった。さっきの猫はこれで追い払えたのに、全然効いてない――――
「ま、さか」
その時、私は気付いてしまった。
コイツはネズミだ。ネズミは猫を怖がるもの。
今まで私の傍には黒猫がいた。あの黒猫が何を考えていたか分からないが、このネズミは猫を警戒していたのではないか。私を狙っていたけど、今まで猫が傍にいたから出てこれなかったのではないのか。
この家に暮らしていた老人も、それを知っていたから猫を集めていたのではないか。
この推測が正しいかは分からない。だけど今言えるのは、私はネズミのいる場所から猫を追い払ってしまった事。そのネズミが、私の前で大きな口を開けている事。これは紛れもない事実。
そして腰が抜けた私に、ここからどうにかする術はない。
目の前に迫る、真っ赤な口。
それが私の見た、最後の光景だった。