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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

K君

作者: 罧原清司

 表は霜が降りている。今年の桜はこの寒空の下で長く咲くらしい。



 彼とまともに話したのもこの頃であった。講習で一緒の教室になり、窓際の席で一人ロングコートを着ていた彼は妙に浮いていた。如何にも落ち着いているといった印象を受けたが、それ以上に長い前髪と太縁の眼鏡から覗く黒々としてい乍ら澄んだ瞳が僕は好きだった。


 口調はいつも敬語調、一人称は私。中学からの内部進学組は変わり者が多いが、例に漏れず彼も変わり者の内の一人であった。然し乍ら至極丁寧な口調と人柄に関心するばかりで、他の所謂「やんちゃ」という言葉が似合う内進生とは一線を画していたように思う。具に観察してみれば身体は華奢で指も細く、何よりマスクをつけた顔立ちが端麗であった。目をハッキリと見せれば、マスクを取ればどれだけ女子受けしたろうにと今でも思う。



 高校の修学旅行は二年次にある。周りの私立高校はシンガポールやオーストラリアといった海外行きが散見されるが、同じ飛行機を使う修学旅行であっても我々が使うのは成田でなく羽田、つまるところ国内線な訳だが行先は沖縄である。彼はその修学旅行の実行委員のうちの一人であった。委員長は女子であったが、初期案が黄色地に桃色文字というややデザイン性に難ありであったためにしおりの製作は彼にほぼ一任されていた。幸か不幸か僕の描いた絵が表紙になったために、彼と同じファイルをパソコンで編集することが出来るようになった。


 彼は几帳面であったから一々名簿の色分けや改行位置などを気にしていた。職員室前で一人作業をする彼に手伝おうか、と問えば結構です、と突っ撥ねられるのがオチなので、いつも隣で何も言わずに一緒に修正を繰り返していた。時折ここの字体の見やすさが、題の配置が、と互いに言える時間が僕らの距離を徐々に縮めた。そこで分かったのはある程度の感性的価値観は同程度に共有できるといったことである。今迄そういった人はあまり居なかったので尚更に彼に興味が沸いた。


 ある時作業をし乍ら、仲の良い人に対しては大抵スキンシップを取るが君に対しては恐れ多くて出来ないという話をした覚えがあるが、それに対する彼の答えは全くもって構わないという何とも意外な回答であった。以降は休み時間や放課後、彼の隣で過ごすことが多くなった。彼の後ろにもたれると多少汗ばむほどに彼の温もりが感じられた。



 修学旅行を迎えて初めて彼の私服姿を見たが、普段生真面目という言葉が似合う彼にしては随分思い切った服装だと思った記憶がある。シースルーの黒い服から白い肌が覗くその姿は幾分欲情的であった。特段青いサングラスを掛けると普段前髪で隠れた目がよく見えるようになって顔の良さを助長していた。先述の通り写真の写りは良いので様々な人からレンズを向けられていたが、如何せん顔を隠したがるのでまともな写真はあまり無い。ただどの写真もやはり画になっていた気がする。

最も悔やまれるのは、盛夏になってもマスクを一向に外さなかったことである。マスク焼けになってしまっているから、と頑なに外したがらなかった。寝る時くらいは外したのだろうかと今更になって思う。

ホテルに着けば同室の生徒は例の如くやんちゃな人ばかりであるから、彼は寝間着の身一つで僕の班の客室に来ていた。他の人は隣の客室でカードゲームをしている。部屋には僕と彼と、それから共通の友人の三人の男だけである。もう夜更けであったから、ふざけ半分でベッドに彼を連れるように横たわった。腕に彼の頭を載せ、後ろから抱擁した。満更でもなさそうな顔で彼はポケットに忍ばせたスマートフォンをこちらに向け、微笑みというより一種嘲笑のような笑みを浮かべていた。この頃から彼とセットで写真を撮られることが多くなったように思う。彼の首元に回した左腕は、今も風呂上がりの濡れ髪の質感を忘却出来ずにいる。



 考査の期間の一週間前に修学旅行という中々過酷な予定を前に、考査期間は彼と教室で自習する日が続いた。学習面に関しては秀才タイプだったので、数学を教えてもらった記憶がある。教え方こそ良かったが、字だけはやはり男子なんだなと思わせるビジュアルであった。右隣に机を並べ、一つのイヤホンをそれぞれの耳に付けて勉強をする。知識を詰め込むのに飽きたなら他愛もないことを話し、新たな一面を見つける。この何も変わりのない時間を彼と過ごせるのが幸せであった。


 教室のほかに、家で電話をし乍ら勉強する日もあった。専ら帰ってきてからなので、自然と時間は遅くなる。会話の内容は多種多様であるが、日中と比べれば幾分深化した題となる。青年期というものは不思議なもので、閉鎖的な心理的空間に同居すると自然と会話は互いのロマンチシズムに帰結する。

スキンシップを取るしかフラストレーションを解決できないと言えば、私でよければなどという返答が返ってきた。安易にそんなこと他人に言ってはいけないと忠告すれば、思っていることを言っているだけなんですけどねぇと言う。なんとも歯がゆい。そのような会話が何遍か、何日か続いた。


 その幾らか後の晩に、大切な人はいるか、と問うてみた。君はどうなんだと返されたので居ないと答える。それは見透かされた一種の虚勢であるが彼は干渉してこない。然し乍ら彼に同じことを問えば中々面白い答えが返ってきた。誰でしょうと如何にもな戯言で自問自答した後、覚えのある言葉を言っていく。こんな自分に親しくしてくれて、何も言わずに仕事を手伝ってくれて、一緒にいてくれる人。彼には全てお見通しだったのである。矢継ぎ早に私とどうなりたいのですか、と言う。しどろもどろに、君の傍に居たいと言った。つまりどういうことですか、と更に念を押してくる。なんとも悪趣味だと薄々思いながら、思い切って君のものになりたいと言った。彼は何も迷わずにするりと良いですよと言ってのけた———

それから先の記憶は曖昧である。とにかく、幸せな時間だったことには違いない。

 彼は時折電話口で可愛いと言う。それは僕に対してなのかは謎である。問い返せば、何を自惚れているんですか、と言う。やはり悪趣味である。ただ、この時間さえ愛おしいものであった。



 一度、一緒に花火を見に行こうかと言ったことがある。元々僕は和装をよく着るので浴衣で行くつもりであったが、華奢な彼にも是非着せたいと思った。相手は全くの初心者であるから、和装一式を貸す必要があった。着付けの練習も兼ねるからと家へ上げれば、念願の二人きりである。試しに着付けをしてみると彼の細い身体に帯は馴染まなかったようで、するすると落ちていくばかりだった。腰紐でやや強硬に締め上げると、辛うじて浴衣は形を留めた。一仕事終えてそそくさと帰ろうとするので、もう少しいたいと正面から抱擁をした。暫くの間静寂が二人を包んだ。ずっとこのままで居たい、と重い口を開けば、何か月も離れるわけじゃないのですから、と彼は柔らかに抱き返してくれた。胸に頭を埋めれば、彼に融けるような得も言われぬ感覚になった。


 ある時、またいつものようにと電話を一本した。その会話の中で初めて希死念慮というものを彼の口から聞いた。初めこそ冗談だと思って聞いていたが、日に日に縄を買っただとか、或いは身の回りの仕事をすべてやり終えるとか、そんな具現的になっていく様を見ていて若干の焦りと恐怖を覚えていた。自分が受け皿になってあげられればこんな事態にはならなかったかもしれないが、当時の自分はそんな彼の思いを掬いきれなかった。受け皿が増えてくれればと、周囲の人間に話したのが過ちだった。その内の一人が何か思い悩んだらいつでも話せ、と彼に言った。それはきっと善意から来るものだったのだろうが、却って彼は何故ほかの人に話したのだ、と訊いてきた。謝罪は受け入れてもらえず、むしろ貴方に言った私が悪いのだ、何も悪くない、といった返事が返ってくるだけだった。

 覆水盆に返らずとはこのことで、後には申し訳なさとやはり逝ってしまうのではないかという恐怖感だけが漂っていた。彼の計画は加速度的に進行し、大学に入るころには、と最初に言っていたのが文化祭前には、と前倒しされていた。


 ある日にあまりに怖くなったので教室で二人で話した。一時間くらいだっただろうか。所謂綺麗ごとしか言ってあげられなかったが、今思えば彼は同情の声を求めていたのだろうか。励ましでなく頑張ったね、という言葉が欲しかったのだろうか。彼は死を選びたいわけでなく生から逃げたいのだ、と言った。それは限りない自己犠牲から由来するものなのか、もしくは何かきっかけがあったのか、原因は聞いても教えてくれなかった。話しているうちに、ずっと目を合わせなかった彼がふっと笑った。あまりに僕の言葉が的を得ていなかったのか、自惚れてよいなら僕を安心させるために笑ったのか、真偽は定かでないが確かに微かに声を出して笑った。僕はそれを見て安心してしまった。今思えばあの時にもっと未来の予定を一緒に立てておけばと思う。


 その3日後に一人で逝ってしまった。身長が高かったので苦しまなかっただろうかと願うばかりである。



 棺の中で彼の素顔を初めて見たが、やはり端麗であった。白百合に囲まれた白々としたその肌は安らかであった。それが華々しい、鮮やかな極彩色に彩られたところで記憶は途切れる。あとには彼の残り香が残るだけである。

 彼の家族から預かったロングコートには彼の匂いが付いていたが、半年も経つと消えてしまった。袖の余りが彼の華奢な具合を偲ばせるが、もうあの腕に、あの指に触れられることは無いのである。何か月も離れるわけではないのだと言った、あの約束はどこかに消えてしまった。あまりに短すぎた、満たされた時間はもう来ない。あとの人生は九〇年近くあるだろう。それまでの糧にするにはあまりに少ないのである。

物事は手につかなくなってしまった。それ迄赤点なぞ無縁であった。ただ写真を眺め、口角を上げつつ視界を滲ませるしかない。生きている人に頼れば私は彼の代わりにはなれないから、と放されるだけであるし、その人をも傷つけてしまう。然し乍ら彼は後は追うなと云った。今はその言葉に縋るしかないのである。ただ、もう一度逢えたら、触れられたらと思う。例えば夢枕にでも出てきてくれたら、そう思って香炉やりんを買った。花まで生けて、宛ら枕元は祭壇に近しい。大学受験のことなど、今は考えられる状況にない。ただ彼が歩んだかもしれない、そんなあまりにも希薄な、上面だけの理由で大学も選んだ。やはり彼と一緒の人生を歩みたかったのである。本心を言ってしまえば今すぐにでも逢えるなら逢いたいといったところだが、死ぬなと彼に言った手前逝けば向こうで何を言われるかわからない。何より死後の世界というのが存在し得るのかも不透明である上、彼ほどの勇気は持ち合わせていない。

 東京はまた雨が降るらしい。雷に怯える彼をおちょくった、あの日に戻れるなら戻りたいが、まだ現実にタイムマシンというものは無いらしい。過去に戻れないなら前に進むしかないが、幾分まだそれだけのエネルギーは持っていない。こうして独白を重ね、自らと彼に向き合うほかないのだ。一日一日を生きるということは、逆説的に言えば死に近づく、即ち彼に近づくことである。いつか彼にまた会える日を夢見て生きるしかない。他人は独りではないと励ましの言葉をくれるが、今の自分にそう考えられる俯瞰性はない。明日を生きるだけで精一杯である。ましてこのモノクロに映った世界の中で、誰かに頼ればまたその人も天然色でなくなる。彼の欲したかもしれない言葉の本質的な部分というのはここにあったのだろうか。

お読みいただきありがとうございました。この文章は彼との思い出を辿るために書いた、とても短い独りよがりな文章です。彼の生きた16年の内の、ひと夏の、ほんの一瞬の時間です。

少しでも皆様と共有できたらと思います。

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