第十九話 手 ②
父は結婚前、母が白目の男を見た“古い貸家”で一人暮らしをしていた。
当時からガス会社は稼働していて、終業後も遅い時間まで煌々と灯りが灯っていたそうだ。
某日23時頃のこと。
父がふと窓に目をやると、ありえないものが見えた。
巨大な手だ。自分の両腕を広げたくらいの大きさだった。キング・コングも斯くやだ。
それが手のひらをこちらに向け、ゆっくりと弧を描くように、窓枠の右上から左下に動いて見えなくなった。
何だ、今のは。
一瞬 呆気に取られた父だったが、すぐに誰かが悪戯を仕掛けていると思ったらしい。
どこの馬鹿野郎だ、俺を脅かしやがったヤツは。
頭に来た父は、勢いよく窓を開け放った。
目の前には広い空き地──野球が出来るくらいの──が広がっており、その向こうにガスタンクがある。てっぺんにライトが設置されていて、強烈な光が辺りを照らしている。これが貸家の窓まで届いているのである。
ところが誰もいなかった。
隠れやがったな。
父は咄嗟に愛用の木刀を引っ掴むと、サンダルを突っ掛けて窓外に飛び降りた。
手が出てからここまで、せいぜい10秒ほど。不審者はまだ近くにいるはずだ。
木刀を構え、念入りに周囲を見回った。
ライトのおかげで視界は良好だったにもかかわらず、誰の姿もなかった。
あの手の主はどこへ行ったのだろうか。即座に逃げたとしても、音や気配が全くないというのは不自然だ。
遠くの方で手を振っていた可能性も考えたが、それでは拡散してしまい影など映らないだろう。
手の輪郭がはっきりしているということは、原理的に1~2メートルくらいのところであのサイズの手が通って行ったとしか考えられない。
明らかに異様な事態である。しかし、
まあ、いいか。何もいねぇし、気にしないことにしよう。
豪胆な父はそう結論付けて、そのまま寝ることにしたそうだ。
それ以降、母と一緒に住み始めるまで、一切の異常はなかったという。




