第十話 ぺたり
母は新婚時代、父と二人で古い貸家に住んでいた。
ある日の夜中、母はハッと目が覚めた。
窓から月明かりが差し込み、足側の方角にある障子の桟が見える。
何だろう。急に目が覚めるなんて……。
そう思っていると、爪先にずしりと重みがかかった。まるで人が乗ったような感覚だったという。
それは、ずずずず……と母の身体を這い上がるように移動し、やがてゆっくりと姿を現す。
布団の縁から頭頂部が見え始め、続いて額、両目、鼻、口が出てくる。
男だった。白目をむき、大きく開いた口から長い舌を垂らしていた。
その舌がぺたりと唇に触れた瞬間、
「んんん!!!」
母は渾身の力で男を振り解き、身を起こした。
てっきり父がふざけていると思った母は、何と気持ちの悪いことをするんだと憤りながら、パッと横を見た。ところが、父は離れた位置に敷いた布団に肩まで入り、反対側の壁の方を向いて寝息を立てていた。
母はゾッとし、すぐに父を起こして事の次第を語ったのだが、「寝ぼけたんだろう」と相手にしてもらえなかったそうだ。
思い返してみると、母には気になっていたことがあった。
家を借りて少し経った頃、近所の人と立ち話をしていて、どこに住んでいるのか訊かれたので「あそこです」と伝えると、妙な間があった。それから「ふぅん、そうなのぉ。私らも前、この辺りに住んでたことあるんだぁ……」と何とも言えない反応が返ってきた。
件の貸家は母方の祖母が伝手を辿って見つけてきた物件で、長い期間、貸し出されていなかった。
詳細は聞けずじまいだが、母は過去に何かあったのではないかと思ったそうだ。
「あそこで死んだ人がいたんじゃないかと思うんだよ。だとしたら、絶対首吊りだよね。舌出して死んでたんだよ、きっと……私の口に付いた舌、冷たかったしさ……」
トラウマになっているのではと思いきや、母は「若くて可愛い女のコが寝てたから、ちょっかい出してきたのかも知れないねー」と冗談めかして言った。




