第7話 『博覧の魔女』はボケていた
「タンランは愚かな魔女さ」
水平線に迫る夕日を見つめながら、車椅子に乗った老女は吐き捨てるように言った。
「魔女なら死を愛さにゃならん。他人の死を祝い、自らの死を夢に見る。永遠へと続く深淵なる穴を覗いては、いつか足を踏み入れる日を憧れる。それが魔女ってもんだよ。ところがどうだい。あのカマキリ女ときたら、何千年と生きとるクセに、まーだ何にもわかっとらん。挙句にゃ『不死の魔女』などと名乗り喜んどる始末。恥ずかしいったらないねえ」
老女の黄ばんだ白髪を、海から寄せる潮風が揺らす。
裾の擦り切れた黒いローブと、つばの広いとんがり帽。先の反り返ったブーツに、水晶を連ねた首飾り。
乗り物こそ車椅子だが、典型的な衣装の魔女である。
顔に受ける潮風がむず痒かったのか、彼女は大きなくしゃみを一つした。
「あー。しかし、もっと阿呆なのはホロフォリアさね」
上唇にまで届く長い鷲鼻を、シミだらけの指で擦りながら老女は続ける。
「ものごとを美だの醜だのと、実にしょうもない了見で切り分けようとしよる。自分は誰より美人のつもりみたいだけど、アタシに言わせりゃあんなブスはいないよ。人間から奪った色を顔に塗りたくったって、綺麗なもんかい。お前も見たろう、いかにも作り物めいてるじゃないか」
「僕はホロフォリアには会ったことがありませんので」
傍らに立つ少年は、夕日を照り返す海に目を細めながら答えた。
長い赤毛とそばかすを持つ彼は、右肩の上に眠るリスを載せている。
老女はまばらな歯を見せて笑った。
「そりゃ幸運だ。あいつは顔がブスなら性格も醜いからね。嗜虐心の塊さ。捕まったら色を盗られて、感情のない召使いにされるのがオチだよ。気を付けるんだね、チェリコ」
「はいはい、わかりました」
少年、チェリコは億劫そうに返事をする。
「しかし気持ちのいい夕暮れだねえ」
老女はしわがれた声で歌うように言った。
「真っ赤な夕日を見ると思い出すよ。アタシが世界一巨大なヘビに出逢ったときをね。まだ子供だったアタシがどうやって奴を退治したか、お前には想像もつかないだろ」
「もう聞きましたよ」
何百回もね。
そう続けかけた言葉を、チェリコは口の中で噛み潰す。相手に通じない嫌味ほど、言って虚しいものはない。
「まあまあ、お聞きよ」
案の定、老女は語り始める。
「カブの親子の言うことにはね……」
「はい? 何ですって?」
聞き飽きた物語の始まり方がいつもと違う。
チェリコは嫌な予感がして聞き返すと、洞穴のような目でペティは言った。
「カブの親子の言うには、金星の影から覗くアンコウの笑顔に似た87匹のスプーンもどきの夜の水浴びはそれすなわち片耳の牛と雨雲の違いを歌う墓守り女の靴ひもにも及ばず臓腑に湧いた虫たちの議論はもっぱら如何にして腸詰が翼を持つに至ったかもしくは足の爪の存在意義についてに限られ後ろ向きに歩く胎児とそれを追うポイプーデの砂煙が豆の満ち欠けに影響していることは疑うべくもないが鏡写しの呼び声に答えてはならんのと同様に縞模様の絶滅を嘆く……」
バチン、とチェリコは老女の頭を平手で叩いた。
腕を振りつつ一心不乱に言葉を吐き出していた老女が、壊れたように動きを止める。
「はて、何の話をしていたかの」
「『魔女の契約』の件でしょ。思い出してください」
チェリコは言った。
大事な話がある。老女にそう告げられ、彼は夕暮れの浜辺にまで連れ出されたのである。
「契約? ううむ、どの契約だったか」
「まだ聞いてませんよ。ヨイドとかいう女と交わしたものとしか」
「おお、ヨイド。そうだったそうだった。たしかあれには他の魔女めも関わっておったぞ」
手を打つ魔女の隣で、チェリコは眉間を押さえる。
さっきもここで話が脱線したのだ。
「何と言ったかのう、あのイケすかない魔女は。ホ、ホロロ……」
「ホロフォリア」
「そう。ありゃ実に愚かだよ。お前も会ったことがあるだろうて」
「……ありません」
「そりゃ良かったね。彼奴は美しいだの醜いだのと、実に偏った価値観しか持っとらんのさ。そもそも美なんてものは、人がこねくり回してできるもんじゃないのさ。アタシを見てみろ。時の流れのままに老いさらばえていくのが命の最も美しい形なんだよ」
「おっしゃるとおり」
そう言いつつチェリコは、小さくため息を吐いた。
それでは困るのだ。
師匠にはこれ以上、時の流れのままに老いていかれてはならない。
*
チェリコの師ペティ・ドーターは、この世界のあらゆる情報に通ずる魔女である。
幼くして優れた頭脳を持っていたペティは、独学により次々と高等魔法を会得。そして30年足らずで、ホロフォリアやタンランといった強大な勢力に肩を並べるまでの魔女となった。
しかし彼女にとって魔法は手段でしかなく、目的はもっぱら自然科学についての研究だった。
世界中を飛び回っては、誰も知らぬ動植物や魔獣、妖精を発見し具に観察することに執心した。
一方で人間に対する興味は薄く、フィールドワークに邪魔な村落があれば即座に滅ぼした。
定住することもなくたった1人、生涯を世界の解明に捧げた結果、彼女は『博覧の魔女』と呼ばれるに至った。
しかしそれは、今や悲しいかな過去の話である。
ペティはこの1年足らずで、急速に知識を失い始めた。
行動を共にするチェリコにも、師匠の異変は明らかだった。
近頃になっては、唐突に訳のわからない言葉を羅列する症状も頻繁に見られる。
チェリコの不安は日に日に募る一方だった。
このままでは、生涯をかけて得た万物のデータと共に、師匠は朽ち果ててしまう。
ペティは他の魔女のように魔術や薬を使って寿命を延ばす様子もなく、また自らの研究成果を書物として残す気もないらしい。
己の痴呆に気付いていないのか。
はたまた自然のまま老いていくのに任せているのか。
それがペティ・ドーターの信条に基づく生き方であるのなら、チェリコに口を出すことは許されない。
だが大恩ある師匠が全てを忘れ、ただの人間と同じように老いていくのを放っておくこともできない。
自分は一体どうすればいいのか。何ができるのか。
ジワジワと海に溶けては消えていく太陽を、彼は焦燥感に駆られつつ眺めた。
「そう言えば最近、頭がはっきりしなくてねえ」
不意にペティが言った。
「ものをよく覚えられなんだ。お前は気付いとらんだろうが」
チェリコは驚いた。
「し、師匠こそ、自分がボケていることに気付いてたんですか」
「そりゃわかるさ。これまで何度か同じことがあったからねえ」
「……何度か?」
意味がわからない。
「ああ、勘違いするでないぞ。アタシゃ歳でボケとるんじゃない。知識の詰め込み過ぎが原因さ」
「どういうことですか」
問いただすチェリコに、ペティはゆっくりと頷いた。
「つまりね、この世界中の情報を丸ごと蓄えるには、ヒトの脳は小さ過ぎるってことさ。ほっとくと容量不足で頭が壊れちまうんだよ。アタシはもう慣れっこだけどね」
「これまでに何度もこんな状態があったんですか?」
チェリコは狼狽えつつ尋ねる。
彼がペティの下についたのは3年前である。それ以前のことは知らない。
「毎回どうやって治してきたんです」
「脳を増やすんだ」
ペティは得意げに答えた。
「アタシが考えた魔法だよ。こう、生贄となる人間を眠らせてね。そいつが見ている夢とアタシの脳をリンクさせるのさ。そうすりゃ、アタシの知識を他人の夢の世界に預けておけるし、いつでも引き出せるじゃないか。まあ言ってみりゃ、脳を追加して記憶の容量を増やすって寸法だね」
つまり、過去にもペティは知識が増え過ぎておかしくなりかけたことがあったが、その度に他人の脳を借りてきた、ということか。
「秘密の隠れ家に7人眠っているよ。パンパンにアタシの記憶が詰まっとるから、死ぬまで酷い悪夢を見続けることだろうね」
「じゃあ」
チェリコは喜んで言った。
「また1人、人間を眠らせればいいだけのことじゃないですか」
解決法はあったのだ。
ペティが何も語らなかったせいで、要らぬ心配をしていただけである。
新たな脳を得て容量に空きができれば、師匠のボケは治る。
「まあね。そこで契約の話になるんだが」
星の光り始めた空を見上げながら、ペティは言った。
「近々1人、人間の娘が手に入ることになっておる。もともとは20年前、アタシが某女にくれてやった『知識の巣箱』の対価としてね。娘は今年で15になるはずだから、脳みそもいい具合に成長しとるだろ」
「それは都合が良いですね」
「うむ。しかし契約のことをアタシが忘れると困るんで、お前にも伝えておこうと思ってな」
『魔女の契約』の話はここに繋がるわけだ。
合点のいったチェリコは、コクコクと首を縦に振る。師匠が自分を必要としてくれていることが嬉しかった。
「わかりました。よく覚えておきます」
「まず肝心の日にちだが」
「はいはい」
「それは来たるオンボロ彗星の誕生日」
洞穴のような目でペティは言った。
「し、師匠!」
「虹を飲み干した巨人は母さんイカの角笛に目を覚ましサルの頭はひとりでに踊り続けるもやがては青い砂漠へと消えた第四次トゲトゲ文明の……」
バチンと、チェリコは師匠の頭を平手で叩いた。
その衝撃にペティはしばらく固まっていたが、やがてもごもごと口を動かし始める。
「はてさて、何の話をしていたか」
「だから、大事な契約の話ですよ。どっかの娘を受け取る件でしょう」
「おお、そうだそうだ。ところで」
ペティはゆっくりと顔を上げ、チェリコをまじまじと見つめた。
「お前さんは誰だったかの」
何としても、ヨイドという女の娘を早急に手に入れなければならない。
チェリコは、師匠に代わって契約を遂行することに決めた。