第6話 はじめてのお使い魔
朝靄漂う川辺に建つ、奇妙な小屋にて。
レイは腕を組み、難しい顔をして少女を見下ろしている。
小さなベッドに仰向けで眠る少女は、衣服を何一つ身につけていない。窓から差す鈍い光を受ける白い肌には、あちこちに大小の擦り傷やアザが見られた。
レイは少女の鼻に顔を近づけ、寝息が安定しているのを確認する。
それから彼女の手脚を持ち上げ、また身体をひっくり返し、全身をくまなく点検した。
表面の傷はいずれも大したものではなく、骨折もない。
このまま放っておけば、いずれ彼女は目を覚ますだろう。
とりあえず安堵したレイは、今度は懐から写真を取り出した。
写真に映る少女、そして目の前で眠る少女を並べて見比べる。
やはり彼女がタンランの所望する、ミツクジ トモエで間違いない。
改めてレイは確信した。
となれば、あとはタンランのもとへと連れ帰るのみ。それで任務達成である。
しかし彼は躊躇していた。
あまり深く考える性質でないレイだが、この意外な展開に二の足を踏んでいる。
何しろタンランから伝えられた段取りは、「この国の王城に侵入し、王妃ヨイドと接触。そしてヨイドの次女トモエを受け取る」、だったはずだ。
それが、「城下からも遠い森で迷っていたところ偶然トモエを発見し確保」となっている現状。
結果として目的自体は達成し、しかもだいぶ手間と時間を省けたことにはなるが、疑問の多い展開である。
なぜトモエはこんなひと気のない土地にいるのか。たまたま訪れただけなのか、それともこの小さな小屋で暮らしていたのか。傷だらけで意識を失っている理由は? それから、突然襲ってきたため思わず殺してしまった、白黒の少年。彼の正体もわからず仕舞いである。
数々の謎、そして消化不良の念をモヤモヤと募らせるレイだったが、やがて彼はポカンと口を開けた。
「まあ、いいか。どうでも」
考えるのが苦手なことは自負している。
経緯がどうであれ、任務を達成できたのならそれで良いではないか。むしろ早く帰ればタンランも喜ぶに違いない。
「いや、待てよ」
レイは眉間に皺を寄せた。
「約束の日より早く娘を持って帰るのは、契約違反に当たるのか? ひょっとして母様に怒られる……?」
謂れのない叱責を受けるのは面白くない。
では契約通り、今夜の午前0時まではここで待機するべきか。
わからない。
何しろレイが重要な任務を命じられたのは今回が初である。予期せぬ展開の対応に慣れていなかった。
「フーン……」
今後の立ち回りに悩むレイは、鼻から息を吹きつつ、ベッド脇に置かれた小さなイスに腰を下ろす。
手持ち無沙汰の彼は、少女の剥き出しの身体を改めて眺めた。
瑞々しい白肌に包まれる、肉付きの良い腿。形の整った胸。静かに上下する腹。乱れた金髪から覗く、幼なげの残る寝顔。
やがて、裸体を凝視するレイの中に、ある感情が湧き上がった。
それは抗い難い欲求だった。
「ああ、駄目だ」
高揚を自覚したレイは、なんとか気を落ち着けようと努める。
しかし理性とは裏腹に、次第に彼の瞳孔は開き、呼吸が早くなる。唇の端からはよだれが溢れ出した。
気が付けば彼は、少女の腿を掴んでいた。
「駄目だ駄目だ!」
そう叫びながら頭を振る。
「母様に叱られる!」
今、レイの強い衝動を抑えているのは母様への忠誠心だった。目の前で無防備に眠る少女は、タンランの所有すべきものであり、決して新たな傷を付けるわけにはいかない。
しかし、生物としての本能は彼の中で叫び続ける。
少しくらいならバレないのではないか。
どうせ娘は眠っているのだ。
霧がかかったように鈍る思考と、狭まる視界の中では、もはやまともな判断ができなかった。
ついにレイは、少女の右脚を両手で掴み、よだれにまみれた大きな口を開く。
食いたい。
若い肉を噛みちぎり、温かい鮮血をすすりたい。壮絶な食欲が、彼の頭を支配していた。
レイは言い訳をするように、呂律の回らない舌を動かす。
「ほんの一口だけなら」
「いいわけねえだろ」
不意に背後から声が掛かる。
同時に弾けるような衝撃が4発、レイの広い背を襲った。
彼の身体は前に飛び、ベッドの向こう側の壁へと、強かに顔面を打ち付ける。
「があっ」
小屋全体がグラグラと揺れた。壁に掛かった額縁が次々と落ち、割れたガラスが床に飛び散る。
レイは、ベッドの上の少女にのしかからないよう、両手を壁に付いて踏ん張る。そして素早く振り向いた。
その視界を塞ぐように追撃がやってくる。先の尖った靴がレイの鼻先に迫っていた。
レイは身体を回転させ、敵の蹴りを避けながら跳び上がる。
壁へと足を掛け、垂直によじ登るように天井へ。それから梁を両手で掴むと、目下の敵に向かって右脚を大きく振った。
太く締まった脚から繰り出される大蹴り。
対して敵は両腕を盾にして構えた。しかし受け止めきれない。
「おらあっ!」
レイに脚を振り抜かれ、相手は横なぎに吹っ飛ばされる。テーブルに激突し、部屋の隅でひっくり返った。
レイは手を緩めない。
梁から手を離し床に降り立つと、床に転がった影目掛けて再度の蹴りを繰り出した。ボールを蹴るように下から振られた足は、床板を削りながら目標を襲う。
だが敵は一瞬早く起き上がり、レイの足を避けると壁を駆ける。窓枠に乗って跳躍すると、天井の隅に張り付いた。
蜘蛛の巣のように四肢を伸ばし、天井と壁にしがみ付く影。息を上げることもなく、レイをじっと見下ろす。
「動くな、デカブツ」
紙巻き煙草を加えたまま、少し喋りづらそうに、その少年は言った。
栗色をした毛皮のローブと、光沢のある黒いブーツ。オレンジ色の髪を胸の下まで垂らし、頭にはてっぺんの尖ったつば広帽を被っている。瞳の大きな目とソバカスの浮いた鼻。めくれ上がった唇からわずかに除いた前歯。小柄な体躯と顔立ちから、少女のようにも見える。
そして奇妙なことに、少年は右肩にリスを乗せていた。剥製なのか、それとも眠っているだけなのか、腹這いの姿勢でだらりと手足を垂らすリスは、目を閉じたまま動かない。
「なんだお前。俺に何した」
相手を見上げ、レイは言った。後ろから衝撃を受けたときは拳銃か何かで撃たれたかと思ったが、敵が武器を持っている様子はない。それが気になった。
「んなことよりさあ」
天井の隅から少年は言い、煙草の先でベッドを指した。
「おまえ今、そのお方を食おうとしてたろ」
「あ、ああ、ああ!」
レイの顔がみるみる青ざめる。
「ち、違う! 俺は食おうとしてねえ!」
大声で否定するが、彼の目は右往左往し定まらない。
食欲に支配され衝動に走ったときの行いが、次々と視界に浮かび上がっているかのようだった。
「あれは、母様に差し出す前に毒見しようとしただけだ!」
「なあんだ、そうだったのか。って言うと思うかボケ」
苦しい言い訳を、少年は切って捨てた。
「傷だらけで気絶してんのもお前の仕業か?」
「それは違う。俺が来たときにはこの娘はもうここで寝てて、やったのは外で死んでる奴だ」
「死んでる奴?」
小柄な少年は首を傾げた。
「そんなもん見てねえけど、じゃあその死体が動いて何もかもやったってわけか?」
「さっきまで生きてたんだよ! 死んでるのは俺が殺したからだ」
「ほほう、そりゃ偉い」
少年はつまらなそうに嗤い、煙草を床へ吐き捨てた。
「つうかなあ、間抜けヅラ。気になったんだが、お前その娘をどうするって言った?」
「うん? これから母様のもとへ連れて行くんだ」
レイが素直に答えると、少年は頷いた。
「うん、さっきもそう言ったよなあ。だけどその娘はうちの師匠のもんだ。それをなんでお前が持っていこうとしてんだ? その母様とやらの命令か?」
問われたレイは眉をひそめた。
「ああ? お前こそ何言ってんだ? こいつはうちの母様のだぞ。人違いじゃねえのか」
「いやいや、それはないけど。ほーお」
少年はしばらく思案するように首をひねっていたが、やがて小さく「めんどくせえな」と呟いた。
そして彼は壁と天井に張り付いたまま、頭を後ろへとのけ反らせた。同時に大きく息を吸い、頬を膨らませる。
「はあ? 何だって?」
聞き返すレイに向かって少年は、
「死ね」
そう窄めた口で言い、プッと息を吹き出した。
直後。
「うがあああ‼︎」
レイの頭が燃え上がった。彼の首から上を炎が包む。
レイは身体を捩りながら、両手で頭を叩く。しかし火は消えない。
堪らず彼は走り出した。
「ああああっちぃいぃいいい‼︎」
叫びながら小屋を出ると、一目散に川へ向かって走っていった。
静かになった小屋の中。
調度品の散乱する床へ、少年は降り立つ。
彼は肩に載せたリスを撫でながら、依然眠り続ける少女を見下ろす。
「師匠。ヨイドの娘、回収完了です」