第4話 レイ
姿は見えない。
だがハーギットは感じ取っていた。
視界を遮る濃い靄に紛れ、こちらの様子をじっと窺っている者がいる。
ハーギットはズボンのポケットへ手を入れ、ナイフを掴んだ。
目立つ荒事は避けたいが、向こうの出かた次第ではやむを得ない。
「誰だ」
低く、しかしよく通る声で彼は言った。普段と変わらずの無表情だが、両の目は縦横に油断なく巡らせている。
暫くの沈黙の後、
「お前、変なとこに住んでるんだなあ」
何者かの声が言った。
粗野な物言いだが、口調はのんびりとしている。
やがてハーギットの前方、朝靄の中に影が浮き出た。ゆらゆらと近づいてくるにつれ、その姿がはっきりとしてくる。
「それにえらく小せえ家だ」
長身の少年だった。
ハーギットより頭1つ分も背が高く、体格もいい。肌は日に焼かれたような褐色。顎をはみ出さんばかりの巨大な口と、突き出た額の下で光る瞳。後ろに流した短い髪は蜂蜜色である。
ハーギットと同じく黒いスーツに身を包んでいるが、シャツのボタンを外し厚い胸板を覗かせているせいで、だらしなく見える。
少年は革靴で河原の小石を踏みながら、躊躇なく歩いてくる。
「ところでここはどこなんだ?」
褐色の少年は言った。
「今日中に城下町まで行かなきゃならねえんだが、道に迷っちまってよお。もう丸1日、この森を出たり入ったりしてんだ」
彼も他所者のようである。
たしかに今2人のいる森は広大だ。
しかし一昼夜も彷徨うほどではない。まっすぐに進めばどうやっても出られることを、ハーギットは地図で確認済みである。
「一度出たのにまた入るのが原因では?」
ハーギットは無表情に言った。
「冷てえ正論言いやがる。教えてくれよ、この辺詳しいんだろ?」
しかめ面を作りながら、少年は近寄ってくる。
「俺はレイ。よろしく」
尋ねられてもいないのに、彼は名乗った。大きな図体に反し、その話し方はどこか子供じみている。
しかしハーギットは警戒を解かない。
向かい合う相手は間抜けに見えるが、霧を貫く禍々しい視線の持ち主でもある。
「なあ、お前ここに住んでんだろ? 1人で住んでんのか?」
川辺に建つ唐突な小屋がよほど気になるらしい。
褐色の少年、レイはハーギットの背後をじろじろ見ながら言った。
「城下ならあちらです」
小屋についての問いは無視し、ハーギットは東の方角を指差した。
「ここはまだ森に囲まれていますが、まっすぐに突き抜ければ開けた道に出ます。それを辿れば、夕刻までには着くでしょう」
「おお、あっちか。助かったぜ」
レイは破顔した。
「お役に立てて何よりです。ところで」
ハーギットは抑揚のない声で言った。
「あなたは遠い土地から来られたようですね。何か大事なご用事でも?」
単なる挨拶といった様子でハーギットは尋ねた。些細な情報でも集めようとするのは彼の習性である。
「まあな。口外できることじゃねえが」
「失礼、余計なことを尋ねました。お姿や話し振りからして、相当なご身分の方とお見受けしたもので」
「む、そうか?」
真に受けたらしいレイは、巨大な口から歯を見せた。
彼は声をひそめて言う。
「そんなに気になるか? まあ、ここだけの話、とある重要任務を任されちまって参ってんだ。俺なんか全然大したもんじゃねえのによお」
嬉しそうだった。
「重要任務」
ハーギットが繰り返すとレイは、
「うちの母様がどうしても俺に任せるって聞かねえもんだから。ま、これ以上は言えねえけどな。しかしどうしても知りてえっつうなら……」
「よくわかりました」
ハーギットは無表情に頷く。
レイのことも多少は気になるが、長話は避けたかった。小屋で眠っているスクミがいつ目を覚ますかわからない。
「それでは、私は失礼致しましょう。任務の成功をお祈りしています」
「おう。恩に着る」
手を上げたレイに軽く頭を下げ、ハーギットは踵を返した。
そもそもは水を汲むため外へ出たが、レイが消えてから出直すこととする。
砂利を鳴らして小屋まで引き返した彼は、ドアノブに手を掛ける。
そのとき。
すぐ背後から声をかけられた。
「悪りいんだけどさあ」
レイだ。
まったく気配を感じなかったが、彼はついてきている。
「中で水の一杯でも貰えねえか」
ハーギットが振り返ると、すまなそうに頭を掻くレイが立っていた。
「ここまで歩き通しで疲れちまってよ」
長身の少年をハーギットは見上げる。
「申し訳ないですが」
開き掛けた戸を背にし、彼は言った。
「とても人様をもてなせるような家では......」
「気ぃ使うな。俺がいくら立派に見えるからって」
「茶でよければこちらにお持ちしましょう」
「いいから入れろよ。長居はしねえから」
「後悔しますよ」
汚れた部屋を見られたくないとでも受け取ったのか。
レイは笑いながらハーギットを押しのける。
大きな手で肩を撫でられたハーギットは、その力の強さに思わずよろけた。
「邪魔するぜ」
勝手に戸を開け、部屋へと足を入れるレイ。
その後ろ姿を、ハーギットは追い縋ろうとしなかった。
もはや生かして帰す気はない。
非があるのは、忠告を聞かなかったレイの方だ。
『魔女の契約』は極秘のうちに完了させなくてはならない。
「うわああああ‼︎」
小屋の中から叫び声がし、続けてドシンと音が鳴る。
ハーギットがゆっくり戸をくぐると、レイはベッドを前に尻もちを付いていた。彼は震える指を、全裸で横たわる娘へ向ける。
「お前、ウソ吐きやがったな! 1人で住んでるって言ったじゃねえか」
「言っていません」
「ああ⁉︎ …………待て」
レイは目を見張った。
「こいつ。いや、この方は……、ミツクジの姫じゃねえか?」
ハーギットは素早くレイの詰襟を掴むと、彼を小屋の外へと引きずり出す。
「うおおおおお⁉︎」
叫びながら転がるレイの腹へ、ハーギットは馬乗りに跨った。同時に、ナイフの刃を相手の首筋に当てる。
「待て待て! な、何であの方がこんなとこにいる⁉︎」
「残念ながら、それは私も知りませんが」
ハーギットは抑揚のない声で言った。片方にアザのある冷たい目がレイを見下ろす。
「いずれにせよお前には関係ない。あの方は我が主の所有物です」
「はあ⁉︎ てめえのじゃねえ!」
レイは叫んだ。ナイフに臆する様子はない。
「あの娘はうちの母様のもんだ! てめえ、何しようとしてた! 素っ裸にしやがって」
「質問しているのは私です。……しかし聞き捨てなりませんね。お前の母様とは誰のことですか」
「聞き方がなってねえから言わねえよ、このブチ野郎……」
「では結構」
ハーギットはナイフに力を込め、レイの顎の下を思い切り掻いた。
しかし。
刃が入らなかった。レイの皮膚には傷どころか小さな筋1つ付いていない。
こいつは人間ではない。
まるで石のような感触に、戸惑ったハーギットは一瞬のあいだ硬直する。
その隙をレイは逃さなかった。仰向けの身体を起こしながら大きな左の手のひらを広げ、上に乗るハーギット目掛けて振るう。
ぱあん、と破裂したような音がこだまするとともに、朝靄の中を飛ぶ黒い物体が1つ。
ハーギットの頭部だった。
平手で右頬を打ち抜かれた彼の頭は首から離れ、回転しながら飛んでいく。川原の砂利に落ちてもその勢いは止まらず、ごろごろと転がった挙句、飛沫とともに川の中に消えた。
残った身体はやがてバランスを失い、レイの腹の上から崩れ落ちる。