第3話 飛び出す魔書
河原から20mほど離れた、苔むす地面の上。
ハーギットが恭しい手つきで地面に置いたのは、ベルトに提げていた一冊の本だ。
大きさは靴1足を並べた程度で分厚く、硬い革表紙は金色の装飾の縁取りがある。表紙の中央には、ハーギットには解読不能な呪文が踊っていた。
これは主ホロフォリアから借りた魔具である。
「飛び出せ、小屋のページ」
ハーギットはそう唱えると、月明かりの下、ゆっくりと本を開く。
中から現れたのは複雑に折られ、そして互いに組み合わされた紙片である。様々な色で塗り分けられた紙のパーツは、ページが開かれるにつれて平面から起き上がる。
それは子供のために作られた紙細工の本、いわゆる飛び出す絵本のようだった。
しかし、仕掛けの展開の仕方は子供のものとは違う。
半分ほど開かれたページから起き上がる仕掛けは、地面に膝をつくハーギットの頭を優に超えていた。パタリパタリと音を立てて広がりながら、更に上へ横へと伸びる。それと共に、紙片でできたパーツは次第に厚みを持ち、質感を変化させ始めた。
果たしてページを開き切ったとき、ハーギットの目の前にはこぢんまりとした木の小屋が建っていた。
とても紙でできているようには見えない。丸太を重ねた壁に、ステンドグラスの嵌まった白いドア。曇った窓ガラスの内から漏れる淡い光。赤紫の瓦屋根には煉瓦の煙突が付いており、ポクポクと煙を吹いている。
ハーギットは傍に寝かせていた少女を抱きかかえると、真鍮のドアノブを回して小屋へ入った。
室内は2坪ほどで、部屋は1つしかない。床の上には、丸いサイドテーブルとネコ脚の椅子が1セット。それから狭いベッドが壁に付けて置かれているだけだ。
剥き出しの木の壁には、至るところに大小様々な額縁が掛かっている。そのどれもが誰かの肖像画で、低い天井の梁から下がるランプが、彼らの顔をゆらゆらと照らしていた。
ハーギットはまず少女を床に置くと、血と川水に濡れた衣服を全て脱がせた。そしてベッドへ自らのジャケットを引くと、その上に裸の彼女を寝かせる。調度品を汚したらお前を粉々にする、と主に念を押されていたからである。
ハーギットは、意識を失ったままの少女を感情のこもらない目で見下ろした。
まったく予想できない形だったが、いま彼の任務は完了しつつある。ヨイドの娘スクミを、王城へ入ることなく手に入れたのだ。
一糸纏わぬ娘の身体には、あちこちに擦過傷やアザができていたが、命に別状はなさそうだった。
このまま連れ帰っても問題はないだろう。
主ホロフォリアには、ことの顛末を正確に報告するだけである。
しかし。
あまりに謎の多い状況だった。
ここは城下から遠く離れた地である。馬車であれば、半日程度はかかる筈だ。
何故スクミは真夜中にこのような山中にいたのか。
馬車の残骸の向きから判断するに、彼女は城から離れる方向へと進んでいたようだ。危険な山道を急ぎ通過しなければならないほどの事情とは何だったのか。
それにはヨイドとホロフォリアの交わした『魔女の契約』が関わっているのではないか。
ハーギットにはそう思えてならなかった。
もしやヨイドは、自分の娘を魔女の手から遠ざけようとしたのではあるまいか。
ハーギットには到底理解できないことだが、『魔女の契約』をなかったことにしようとする輩は存在する。
初めから約束を守るつもりなどなかったのか、はたまた契約後に対価を払うのが惜しくなったか。いずれにせよ魔女の恐ろしさを理解していない者にありがちな、横紙破りのちゃぶ台返しである。
無論、魔女がそれを許すはずはない。
支払いを渋ったばかりに悲惨な結末を迎えることとなった者を、ハーギットは何人か知っている。
もしもヨイドがその愚か者たちと同じように、契約の踏み倒しを諮ったとしたら。
己の欲望の皺寄せを受ける我が子に憐憫の情を抱いたのだとしたら。
何も知らないスクミを馬車に押し込み、城から少しでも離れた地に避難させようとするだろう。
だが。
ハーギットは自らの推測を疑った。
契約の日は明日、6月22日。
ことを起こすにしては、あまりに直前過ぎるとも思えた。
ヨイドがスクミを可愛く思うのであれば、もっと早くに手を打つべきだ。
それとも契約が間近に迫るにつれ、己の命より娘が大事と心が変わったか。
「もしくは」
とハーギットは独りごつ。
その逆の考え方も成り立つのではないか。
逆、つまりヨイドが『魔女の契約』に従順だった場合である。
彼女が妙な気を利かせ、こちらが迎えに行く前に、娘をホロフォリアの元へと送ることにしたのではないか。
魔女に城まで訪ねて来られるのは、ヨイドにとってありがたくない話である。それなら自ら届けた方がマシと考えたのかもしれない。
違う。その線もない。
ハーギットはまた自分の案を打ち消した。
王家に囲まれて暮らすヨイドには、ホロフォリアの住処を知る術はない。
スクミを届けようにも宛先がわからなければ不可能である。
その辺りで、ハーギットは考えるのをやめた。
スクミがここにいるのだから、余計に頭を巡らせる必要はないのだ。
彼は胸ポケットから写真を出し、改めて少女と見比べる。
写真では複雑に編まれている、ウェーブのかかった長い髪。健康そうにふくらんだ頬に、少し太めだが形の良い眉。長いまつ毛と大きな目。まっすぐ伸びた鼻梁の下の小さな唇。
写真にあるような豪奢な首飾りや冠こそ身に付けてはいないものの、やはりミツクジ スクミ本人で間違いないと、ハーギットは確信する。
崖から転落したにも関わらず、彼女が生きているのは幸いだった。
現に、馬車に乗り合わせた他の3人は死んでいる。御者、そしてスクミと同じような背格好の女2人は、おそらく即死だった。
一方でスクミは、ハーギットが全身をくまなく調べたが、骨1本折れていないようである。彼女だけが崖の斜面を滑り、更に偶然にも草むらの上に落ちたために助かったのだ。
もっとも、生き残ったことがスクミにとっても幸いとは言えないだろうが。
*
夜が終わろうとしていた。
窓の外には仄白い靄が立ち込めている。
人目を避けるため、空が明るくなるまでには帰路につかなければならない。
ハーギットは少女の汚れた身体を拭き清めることにした。川の水を汲もうと、ドアを開け外へ出る。
そして瞬時に、何者かの気配を嗅ぎ取った。