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第1話 『極彩の魔女』は色をなす

「で……、ですから、あっしは何も知らねえだご主人様! 何かの間違いではねえかと……」

 濡れたタイルに尻餅を付き、クチバシ男は震えていた。左手で押さえる口の端から血が溢れ、彼の唯一のスーツを赤黒く染めていく。


「慎め、この汚らわしいゲテモノめ。貴様は私の言うことが間違いだと言うのか?」

 クチバシ男の眼前、浴槽に仁王立つ女が言った。彼女の濡れた裸体を、壁一面の大窓からさす朝陽がヌラヌラと照らしている。

「ひえええ」

「もう一度だけ尋ねる。偽りなく答えよ。私の下着を盗んでどうするつもりだった?」

 長いまつ毛に囲まれた、杏仁型の大きな目がクチバシ男を見下ろす。

「め、滅相もないことでございますだ。あ、あ、あっしは盗んでなどおりませんて。見てもいねえ」

「嘘ね」

 女は小さく膨らんだ桜の実のような唇を歪ませた。彼女のしなやかな左手の中で、革の鞭がミチミチと音を立てる。

「では何故見当たらない? さっきは確かにあったし、今この浴場にいるのは私と貴様だけ。貴様は掃除するフリをしつつ下着を盗り、懐にしまったのだ」

「そりゃあんまりなお疑いだで」

 翡翠の瞳に射られて脂汗を流すクチバシ男だったが、

「そ、そうだ。証拠をお見せしますで!」

 思いついたように声を上げると、よろけながら立ち上がり、大急ぎで着ているものを全て脱いだ。

「ホレ、とくとご覧じろ。あっしはどこにも隠してねえだ」

「無礼者!」

 女は鞭を振った。

 クチバシ男の腹の皮が裂け、また血が飛び散る。

「ぎゃあああ!」

 クチバシ男は絶叫しながらひっくり返った。

「よくもそのような薄汚い身体を私の視界に入れてくれたな。……むっ、待て」

 女の張りのある乳房がぶるりと震える。

「なんだその股のモノは。なんとおぞましい。よりにもよってこの私の前で硬くするとは!」

「やや! これはこれは!」

 クチバシ男は仰向けのまま、股間を手で押さえた。

「あ、あっしにもわかりませんだ。あまりの恐怖でおかしくなってるようだあ」

「黙れ。もう言い逃れは聞かぬ」

 女は燃えるような赤髪を振り乱し、均整の取れた眉を吊り上げる。そしてクチバシ男に近寄ると、勢いよく腹に跨った。

「げえっ、げろぉおおっ!」

 肉付きの良い白い尻に腹を圧迫され、クチバシ男は吐瀉物を撒き散らす。吐いた胃液が上を向いたクチバシに戻り、器官に逆流した。

 クチバシ男は息ができず半狂乱になって暴れるが、女はびくとも動かない。

「貴様は身分もわきまえず欲情し、この麗しい私の下着を奪った。服の中に隠していないということは、興奮のあまり食ってしまったのだろう。反論があるなら申してみよ」

「ゴボゴボゴボゴボ」

「なさそうだな。もうよい」

 女は鞭を高く掲げ、持ち手の底をクチバシ男の鳩尾へと振り下ろした。

「ごぼがっ! グエエエエ‼︎」

「胃の中のものを全て見せろ。うん? おやおや、うまく隠したものだなあ。それならこっちか?」

 女の尻が更に激しく上下に動き、クチバシ男の腹に打ち付けられる。

 クチバシ男は胃液を吐きつつ、今度は尻から便を噴出させ始めた。

 水っぽい排泄音が広い浴場に反響する。

「世にも醜く汚らわしい奴め! 尻の穴にも隠していないか! いい加減白状せよ!」

「ひゅいー……ひゅひ、おええ」

「私の下着はどこだ! 吐け! 死ね! 吐き死ね!」

「……ォリア様」

「おやおやもう動かないのか⁉︎ キャハハハハハ!」

「ホロフォリア様。おはようございます」

「ハハハハハハハハハハハ…………。あ? ああ、お前か。いつからいたの?」


 女が汚物に塗れた顔を上げると、目の前には1人の少年が姿勢よく立っていた。

 白いひだ襟のついた黒色のスーツ。短く切り揃えた漆黒の髪と、陶器のように白い肌。眠たげな左目の周りだけがアザで灰色に染まっている。

 色とりどりのタイルや植物、鳥や蝶に囲まれる浴室内で、彼だけが切り取られたように色彩を持たなかった。

「ご入浴中に恐れながら、報告事項が何点か」

 一切表情を動かさず、少年は抑揚のない声で言った。

「……それって急ぎのこと?」

 魔女ホロフォリアは面倒臭そうに立ち上がった。汚れた身体のまま猫足のついた浴槽に戻り、首まで湯船に浸かる。


「まず」

 主が落ち着くのを待ってから、少年は口を開いた。

「麓の村より苦情が来ています」

「苦情?」

 人差し指を顎に当て、ホロフォリアは首を捻った。

「麓の村って、この前サルか何かの被害を訴えてきたところよね」

「左様です。畑の作物をサルが食い荒らすのでどうにかして欲しいと」

「それなら魔法薬で対処してやったわよ。この麗しい私には造作もないことだったわ」

 魔女は小さくも高い鼻をフンと鳴らす。

「ちなみにどのように」

「いや、畑の野菜をサルより強くしたんだけど」

「どうやらその野菜どもが、土より抜け出て人間を襲っているようです。死傷者が後を絶たないと村人達がカンカンに怒っています」

「はあ?」

 ホロフォリアは白く輝く歯を剥いた。

「どうしてこの私が力を貸してやったのに怒られなきゃならないの? そいつらちょっとわがまま過ぎやしない?」

「そのわがままな村人は今にもここへ乗り込んで来そうな勢いですが、いかが致しましょう」

「面倒ねえ。わかったわよ、サルを野菜より強くすればいいわけね」

「早速のご対処、ありがとうございます」

 少年は無表情に頷いた。

「次に、山間の村なのですが」

「また文句じゃないでしょうね」

「森に有害なキノコが増え、食用キノコと見分けがつかない。どうにかして欲しい、との要望が先月ありましたが」

「それだってちゃんとやっておいたわ。山のキノコを全部毒キノコにしておいたから、今後は区別しなくていいでしょ」

「あの村はキノコが主な収入源だったようです。採取ができなくては暮らしていけないと、村人が門の前に押しかけてきています。いかが致しましょう」

「全員朝食に招待して。毒キノコの使い方というものを教えてやりなさい」

「かしこまりました」

「もう。ルートさえ確保すれば、ただのキノコよりよっぽど高く売れるのに。少しは頭使って欲しいわね」

 ホロフォリアはさも呆れたとばかりに芳しいため息を吐いた。

「まったくですね。では次の件……」

 少年は頷きながら無表情に言う。

「まだあるの?」

「洞穴の魔女から注文を受けていた「人魚の粘液」についてですが」

「ああ、あれ。ちゃんと届けてくれた?」

「はい、ご命令どおりに。しかし先方へ手渡すなり即座に、まがい物だと難癖をつけられました。向こうの言い分では『ふざけるな。これは人魚ではなく「人面蛙の尿」に違いない』とのことです」

 魔女は小さく舌打ちをし、「それで?」と先を促した。

「怒った洞穴の魔女より、武装した使い魔どもを仕掛けられました」

「ふうん。金は?」

「支払わせました」

「ならよし」

「それから……」

「何よ! 次から次から」

「『契約』の日が3日後に迫っています」

 言われた魔女はキョトンとする。

「んー…………、何だっけ?」

「契約日は20年前の6月22日。とある女と交わしたものと伺っておりますが、詳細については存じません」

「あー、思い出した。ヨイドのことね」

 ホロフォリアは細く長い指をパチンと鳴らした。

「この私の華麗なる魔具『望みの画布』をやった女。よく覚えているわ。月日の経つのは早いものね」

「では魔具の対価の受け取りが3日後、ということですね。こちらはいかがなさいますか」

「いかがって、それはもちろん私がこの麗しくも重い腰を上げるわよ。『契約』を守らせることは魔女にとって命よりも重要だもの」

 ホロフォリアはさも当然とばかりに言った。

「とびきり麗しい衣装を用意しておくように」

「かしこまりました」

 少年は丁寧に腰を折る。


「では、最後に」

「もういいわよ!」

「ホロフォリア様の下着ですが、先ほど用意したものに糸のほつれがあったため回収しておりました。お待たせして申し訳ございません。ただいま替えをお持ちしました」

「あらそう。そこに置いておいて」

「かしこまりました。私からの報告は以上です。……ところで、そこでクチバシ男が伸びているのは何故でしょうか」

「あーこれ…………、何でだったっけ。えらく不潔ね、すぐに片付けなさい」

「かしこまりました」

 少年はモップとバケツを取りに出て行った。



 翌日の朝。

「ぎゃあああああああ‼︎」

 凄まじい絶叫が、魔女の居城に響き渡った。

「ホロフォリア様?」

 声を聞いた召使いや使い魔、瑠璃蜘蛛、紙人間らが浴室に飛び込むと、彼らの主は湯船の中、顔を手で覆っていた。

「いったいどうされましたか?」

「どうしたもこうしたもない‼︎」

 ホロフォリアは指の隙間から、周囲を睨み付けた。

「やられた! 呪いを食らった!」

 ひび割れた金切り声で「畜生っ!」と叫ぶ魔女。

「呪い?」

「これを見ろ!」

 ホロフォリアが手を広げると、おぞましく変わり果てた相貌が現れた。

 顔中がでこぼこと腫れ上がり、赤い斑点に覆われている。両目は皮膚に埋没し、真っ赤に染まった唇は普段の5倍にも膨れていた。燃えるような赤髪は汚く縮れ、よく見れば斑点は魔女の裸体全身に及んでいた。

「洞穴の魔女の仕返しだ! 黙って代用品売り付けたくらいでとんでもない呪いをかけてきやがった! これだから田舎者は!」

 醜く肥大したホロフォリアの額に、太い青筋が幾本ものたくり出す。

「絶対に許さん。急ぎ支度をせい! あの根暗ババアを殺しに行く!」

 ホロフォリアは勢いよく立ち上がり、黄金色の湯船から飛び出た。

 すると浴槽を満たしていた湯が釣られるように持ち上がり、魔女の裸体を包み込む。そしてたちまちのうちに、煌びやかに輝く黄金のナイトガウンへと変化した。

「4日で戻る」

 俄かに立ち回り始める召使い達を割り、鬼の形相の魔女は床のタイルを踏み砕かんばかりに足を進める。

「お待ちください、ホロフォリア様」

 それを制するように声を掛けたのは、例の少年召使いである。

「お忘れでしょうか。2日後にはヨイドへの取り立てが控えています。洞穴の魔女のもとへ向かうのは、そちらの件が済んでからにされるがよろしいかと」

「ああ⁉︎」

 ホロフォリアは肉に埋もれた血走る目で、少年を突き刺すように睨んだ。

「そうだったわね。では、お前が代わりにヨイドに会え。『契約』を代行して来なさい」

「それはできません」

 召使い達の視線に晒される中、少年は無表情に答えた。

「『魔女の契約』は失敗が許されません。私には荷が重過ぎます」

「何だって?」

「恐れながら申し上げます。私の誤ち一つで主であるホロフォリア様の権威に傷を付ける可能性があります。世の魔女達の耳は早く、そして大きい。ホロフォリア様もよくご存知の通りです」

「黙れ、人形め」

 広い浴場の空気が一瞬にして凍てついた。

 周囲が静まり返る中、魔女のヒタヒタという足音が少年に近付く。

「偉そうに、この麗しい私に説教する気? お前が失敗しなければいいだけのことだろうが」

 蒸気のように熱い吐息を吹きかけながら、魔女は少年を見下ろす。

「そもそもはお前が下手を打ったのが原因だ。お前があの洞穴めを丸め込めなかったから、麗しくも憐れな私がとばっちりを受けたのだからな」

 少年は感情のない瞳を正面に向けたまま静かに言った。

「至極ごもっともですが、だからこそ申し上げます。私のような使い走りもままならぬ人形めには、『魔女の契約』の代行など到底荷が重い任務。どうか今一度、よくお考えください」

「……ふん」

 ホロフォリアは世にも醜い顔で鼻から息を吹いた。

「よくもまあ強情に育ったものね」

「申し訳ございません」

「しかしまだまだ私には及ばないわ」

 ホロフォリアは言いながら右手の人差し指を掲げた。

 それを合図に、浴室内を漂っていた様々な色の蝶が彼女の頭に集まりだす。

 蝶の群れは見る間に、虹色の大きな帽子へと変化した。

「ヨイドとの契約の件はお前に任せる。これは決まったこと」

 帽子の広いつばの下でホロフォリアは言った。

「しかし」

 尚も食い下がる少年を、魔女は遮った。

「私は世にも麗しい『極彩の魔女』ホロフォリアである。人間に姿を見せるときには、我が恐ろしさと麗しさをもってその者の心を奪わなければならぬ。単なる取り立て一つだろうと、かくも醜い姿で出向くことは許されない。それこそ他の魔女供にどれほど嗤われることか。お前ならわかるだろう」

 少年は答えなかった。

「そう案ずるな、難しいことじゃない。2日後の6月22日、夏至の晩にお前はヨイドのもとに現れ、魔具の対価を受け取り、ここへ連れてくる。ただそれだけの仕事なのだから」

 少し落ち着きを取り戻した口調で言って聞かせる魔女。その帽子の陰に隠れた顔を、少年は見返した。

「お待ちください。『連れてくる』とは?」

「ククク」

 不気味な笑いが漏れる。

「魔具の対価とはヨイドの娘さ。その名はミツクジ スクミ」

「…………ミツクジ?」

「そう。スクミはこの国の王の娘さ」

「国王の? ではヨイドは……」

「くれぐれもぬかるな、ハーギット」

 ホロフォリアは少年に背を向け言った。

「うまくいったら、これをお前の最後の仕事としてやろう」

 言葉を失う少年を尻目に、彼の主は大股で浴室から出て行く。


 こうして魔女の使い魔ハーギットの受難は幕を開けた。

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