プロローグ 「発端」
薄く引き伸ばされた雲が、夜空を横切っていく。
雲の切れ間から満月が覗くたび、荒涼とした草原に女の影が長く映し出された。女は獣のように地にうずくまり、そして震えている。
「どうかあの者達へ呪いを、報いを、凄絶なる死を」
草むらに額を擦り付け、女は繰り返し唱えた。地の底に眠る悪魔を呼び起こさんと、骨と皮ばかりの腕を地面に叩きつける。
「邪悪の化身よ、どうか私の叫びに耳をお貸し下さい。怨みを晴らすだけの力をお与えくださいませ」
月光に青白く光る女の肌は剥き出しで、その身を覆うものは長くうねる白髪だけだった。
「そばにいるのでしょう。私には聞こえております。あなた様のくつくつという忍び笑いが。肩を揺らすその音が。どうか、声をお聞かせください」
女は激しく咳き込んだ。胸を押さえつつ、それでも彼女は唱え続ける。
「どうか、どうか......」
やがて女の吐く息は怒りに燃える炎となり、腐臭に満ちた黒煙を辺りに撒き散らす。そして彼女の両目から溢れる涙は、頬を伝う間もなく蒸気となって風の中に消えていった。
女は地面に突っ伏す。
病に蝕まれた身体には力が入らない。もはや気力だけではどうにもならなかった。
真夜中の草原の中。風に晒された燭灯のごとく脆い命が、誰にも知られることなく消えようとしていた。
「やけに濁った虫の音と思えば」
細く妖しい声が辺りに響く。
「死にかけの醜い女」
別の声が後を継いだ。
「それもひどく年老いて汚らわしい」
また別の声が言う。
地に伏す老女にはよく見えないが、どうやら3人の女が、彼女を囲うように立っているようだった。
老女の目はかすみ、頼りない月光では周囲をよく見ることができない。
女の1人が言った。
「何の望みがあって我らを呼ぶ」
「私は」
老女はかすれた声で答えた。
「復讐してやりたいのでございます」
「ホホホ。聞かせてみせろ」
「今や遠い昔。若い娘だった私が、とある高貴なお方に見染められたとき。あの女達はくだらぬ嫉妬から、口にするのもおぞましいあらゆる悪戯で私を辱めた挙句、盗みの濡れ衣を着せ、牢に入れました。地下深く暗い牢に30年間。私は1つも思い出を作ることができぬまま、冷たい床を這う虫達と共に過ごしたのです。ようやく寒空の下に放り出されてみれば、もはやこの有り様。痩せ衰え、病に侵され、もう永くありません」
老女は濁った白髪を、骨の浮き出る指で掻き上げる。
彼女の額には2本のツノが生えていた。鍾乳石のようにゴツゴツとした、親指大のツノである。
「無実を叫び、何年ものあいだ鉄格子に額を打ち付けていたのです。コブができては破け、そのまた上にコブができ、いつしかこのような醜いものができるまで。いくら叫ぼうが救いはないと思い知るまで」
すきま風に似た、苦しげな吐息が響く。
「私をはめたあの女達は、今もどこぞの大屋敷でぬくぬくと暮らしている。それを思うと、患った臓腑が焼けるようです。奴らに私を思い出させ、深い後悔の中で殺してやりたいのです。復讐のためなら、どんな代償も厭いません。どうか、お力をお貸しくださいませ」
ホホホホホ。
クスクスクス。
フフフフフフフ。
女達の笑い声が風にのり、とぐろを巻く。
3人の女は代わる代わる言った。
「この草原の向こう」
「獣の巣食う森を抜け」
「腐った沼を渡り」
「肌を切り裂く岩山を2つ超えてみせろ」
「その先に立つ荒れ果てた小屋」
「そこに我ら取っておきの宝を1つずつ置いておこう」
「宝……」
老女は小さく繰り返す。
女の1人が笑うように言った。
「世にも醜い女よ。我からは【望みの画布】を。一流の画家を雇い、お前の血を混ぜた絵の具でとびきりの美女を描かせろ。絵そのものの姿になれるぞ」
2人目が歌うように言った。
「おぞましく年老いた女よ。私からは【不老の桶】を与えよう。水を溜めて身を浸せば、たちまち若い娘に戻れましょう。ただし週に一度の水浴を欠かさないこと」
3人目があやすように言った。
「浅ましく無知なる女よ。余は【知識の巣箱】を授けよう。周りで1番高い木に吊るすがよい。世の中のことが全て見えるようにな。さすれば、お前の思いもよらぬ知恵を与えてくれようぞ。ただし、巣箱の穴を見つめるな。中に棲むものが、お前の知識を吸い付くそうとするからね」
「ああ、なんと素晴らしい」
老女はシミだらけの両手を胸の前で組み合わせる。
「たとえ、獣に臓腑を食われようと、鋭い岩に身を裂かれようと」
老女は鉄臭い息を吐きなが、よろよろと立ち上がる。
「その先に奴らの絶望があるのなら」
鍋底に残ったカスの如き体力を頼りに、老女は足を踏み出した。
その背に向かって、3つの暗い影は言う。
「その代わり」
「我らの宝を与える代わりに、お前にも大切なものを差し出してもらう」
「支払いは、今よりちょうど20年後」
「20年後の今日、お前の持つ最上の宝を貰いに行く」
「時期がくればわかるだろう」
「それは3つの、同じ形をしたもの」
「ゆめゆめ忘れるでないぞ、フフフフ」
オホホホホホホ。
ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ。
3つの笑い声は旋風となって老女の髪を掻き乱し、月光の中へと溶けていく。やがて、再び静まり返った草原には、独り老女だけが残されていた。
老女ヨイドは足を引きずりながら、それでも爛々と光る瞳をもって、魔女の小屋を探しに行く。