第五話 先住民
その姿を見付けた時、俺は呆気に取られた。
確かに其奴は存在した。
俺の探していた獲物がそこに居た。
沢の辺の水の流れの緩やかな所に、一頭の大きな牡鹿が佇んでいた。
ここからの目測で地面から肩までの高さが1.5mは有りそうだ。
普通に見掛ける牡鹿と比べると、高さと言い、身の厚みと言い、一回り所か二回りも大きい様に見える。
角も非常に立派で、俺の身長ほどもありそうな、見た事の無い大きさだ。
黒に近い様な毛皮は、首の辺りが一層に濃く厚く、胴体の部分はやや灰色に近い色合いをしている。
「・・・」
俺はゆっくりと地面に立て膝を着く。
身を小さく縮めて、立てた左の膝の上に左の肘を置き、畳んで寝かせた右足の上に座り込む様な姿勢を取る。
銃は左手で支えて右手で確りとグリップを握り、脇を締めてストックを肩に押し当てる。
ストックに右の頬を点けながらサイトを覗き込んで、大きな鹿がゆったりとしているのに照準を合わせた。
俺はチャンスが来るまで、ゆっくりと深く息を吸って、同じ様に吐き出す。
高低差は殆ど無い。
風も無い。
鹿の急所である首の付け根を狙える様に、心を落ち着けながら鹿の動きを見続けた。
野生の動物と言うのは、人間が思っているよりも遥かにタフな物で、場合によってはライフルでも一撃で仕留められない場合がある。
特に大きな牡鹿ともなれば、重傷を負ったとしても、動けるのならば逃げるか此方に向かって反撃に出るかも知れない。
アレだけ大きな角を持った牡鹿なら、此方が襲われればその時は命が危うい。
そこで狙うのが首の付け根だ。
首の付け根から尻に掛けての直線上を撃ち抜けば、弾丸は心臓を貫く。
その直線上には大きく固い骨も無く、肉質を下げたり毛皮を傷付ける事も無い。
狙いは一撃必殺。
牡鹿が振り向いた瞬間が勝負だ。
「・・・」
射撃姿勢に入ってどれ程が経ったか、何度かドキリとさせる瞬間は有った物の、中々奴は此方を向かない。
じんわりと頬を汗が伝う。
尻に敷いた右足が痺れて来た。
銃を支える左手が痛んで微かに震える。
あと少し、もう少し、狙い澄ました瞬間が来るのを待ち続けた。
只管に忍耐あるのみだ。
どれ程身体が痛もうと、どれ程退屈であろうとも、例え鼻の頭の辺りが痒くなってきたとしても、決して身動ぎもせずに耐える。
身体の動きを最小にして、自分の気配を完全に自然の中に溶け込ませる。
今、俺と言う存在はこの世から消え去っていて、この森に生える一本の木となるのだ。
奴が完全に油断しきって、不意に此方を向いた瞬間に、俺は親指で撃鉄を起こして、それから引き金を引いてその命を刈り取る。
その時までは、俺は一本のただの木だ。
「っ!」
目の前の牡鹿が動いた。
コレまでも何度か有った様な微かな隙、此方を振り向く様な素振りを見せた。
「・・・っ」
頬を大粒の汗が伝った。
あと少し。
あと少しだけ、此方の方を向けば、狙いが付けられる。
そう思ったその時、風が吹いた。
「!?」
俺の背後から沢に向けて通り抜けた一陣の風が、木の葉を揺らし、沢の水面をざわめかせながら牡鹿を通り過ぎて行った。
すると、牡鹿が此方を振り向いた。
俺の臭いに気付いて身体毎振り向いた。
チャンスは今しか無い。
コレを逃せば奴は走り去るだけ。
そうでなくては此方に向かって突っ込んでくる。
親指が自然と動いて撃鉄を引き切った。
カチリと言う小さな音と共にフルコックになると、俺は直ぐに引き金を引き絞る。
最早無我夢中だった。
ガク引きは無かった。
頭が真っ白になって、多少は慌てていただろう。
だが、それでも俺の身体は狙っていた通りに目標に銃口を向け続けた。
「・・・!」
奴と眼が合った。
力強い雄大な眼だ。
何と堂々とした姿か。
思わず手を伸ばしてしまいたく成りそうに成る。
ほんの刹那の間に俺は、あの牡鹿と心を通わせた様な、不思議な感覚を味わった。
瞬間、銃声が響いて確かな衝撃がストックを伝って俺の右肩を打ち抜く。
銃口が白煙と共に弾丸を吐き出して、跳ね上がる。
殺意を持った鉛の小さな礫が、回転しながら音よりも早く空気を切り裂いて進む。
その果てに、弾丸は俺の狙った通りに首の付け根を撃ち貫く。
毛皮にただ一つの穴を開けて、骨をそれながら肉を裂いて、人指し指の先程の大きさの鉛が、心臓を目掛けて突き進む。
それは僅かな時間の間の事で、恐らくは痛みを僅かにでも感じた瞬間に、あの鹿は命を失っていただろう。
だが、その僅かな時間の間に、牡鹿は最後まで俺の事を見詰め続けていた。
「・・・」
ライフルを背負う。
牡鹿は沢の辺に身体を横たえている。
最早、ピクリとも動かない。
俺は立ち上がってナイフを構え。
最後まで油断は出来ない。
慎重に横たわる牡鹿に近付いていって、本当に死んだのかを確かめる。
「・・・」
牡鹿は間違いなく死んでいる。
俺の狙った首の付け根の穴から赤黒い血潮が流れて沢を汚す。
「・・・」
何故か思い至った俺は、ナイフを地面に刺して両手を会わせて暫く拝んだ。
如何してそうしようかと思ったのかは自分でも分からなかったが、しかし、そうしなければいけない様な気がした。
それから、ナイフを手に取って、俺は解体を始める。
先ずは血抜きの為に首の頸動脈を切る。
だが、いざ手を着けようとすると、背後に人の気配を感じた。
直ぐに振り向いた俺は、右手でナイフを握ったままで左手で腰からトマホークを抜く。
「誰だ!!」
獲物を横取りしようとしている奴が居るかも知れない。
俺は気配の方をジッと睨んだ。
「・・・敵じゃ無い」
直ぐに気配の主が現れた。
長身の逞しい身体に、全身を覆う真っ黒の毛皮。
大きく長い口から覗く鋭い犬歯。
「ライカンか」
巨大な狼がそのまま二足で立ち上がった様な姿の其奴は、ライカンスローブと呼ばれる亜人だった。
所謂狼人間と言う奴で、この辺り、現在はニューウェステバリスと呼ばれている土地の一帯に、元々住んでいた先住民達だ。
彼らは旧ウェステバリス人が入植してくる遥か昔からこの地域で暮らしていて、その優れた体格と無尽蔵の体力を活かして狩猟生活を送っていた。
彼らは基本的に無用な争いを避けていて、ウェステバリス人の入植に際しても、入植者に対して友好的に接し、入植者の生活地域が広がるにつれて自分達の方が土地を明け渡して行った。
だが、だからと言って粗雑な扱いをして良い物では無い。
本気になれば彼らの内一人でも夜陰に乗じて村に忍び込んで、数十人を惨殺するくらいは訳ないのだ。
彼らは自然と共に生きている。
後からきた人々は先輩たる隣人に対して敬意を持って接するべきなのだと、ウィリアムさんは言っていた。
こうして直に亜人を見るのは初めてだ。
「横取りするつもりは無い。仕留めたのはお前だ」
彼らは嘘を嫌う。
彼が横取りするつもりが無いと言うのならば、信じても大丈夫だろう。
「なあ」
俺は彼に話しかける。
「良ければ手伝ってくれないか?そうしたら山分けにしよう」
提案する。
彼は不思議そうに首を捻った。
「何故だ?」
「コイツはデカすぎる。俺一人では持って帰れないし、血抜きのために木から吊すにも骨が折れる」
体重は少なくとも200kgは有りそうな大物だ。
コレは一人ではどうにもならない。
だが、早く血抜きを済ませて解体しなければ、肉の味が落ちて獣臭くなる。
「頼む。手伝ってくれ」
そう言うと、彼は暫く悩む様な素振りを見せて、それから近づいてきた。
「如何すれば良い?」
「あの木に吊して血抜きをしよう」
指差したのは一際大きくて丈夫そうな木だ。
彼は俺の指差した方を見て頷き、手早く後脚に縄を掛ける。
それから縄を太い枝の付け根に引っ掛けて、二人で力一杯に引っ張った。
「っぬおお!!」
「っふん!!」
ライカンの力は凄まじく、俺一人では到底持ち上がらない。
普通に人間でも三人居て漸く引き上がるかと言う様な獲物を、易々と引き上げた。
「助かったよ」
地面から首が離れるほどの高さまで上げたら、縄を固定してそれから首の頸動脈をナイフで切り裂く。
後はこのまま一時間ほどで血抜きが終わるはずだ。
「俺はトーゴ。アサヒナ・トーゴだ」
「ショウニーだ」