ヒキガエル
気がつくと石の上にいた。丸っこくて、所々苔むした石は程よく湿っていて、触れている足がひんやりと気持ち良かった。俺はしばらくそこから動かなかった。石に触れているのが心地よかったからではない。丸っこい石の上にいたから、不用意に動くと滑り落ちそうだったからだ。
ところでここはどこだろうと、辺りを見渡してみる。
下を見ると水が流れていて、上は木々が空を覆っている。俺は森の中にある川の岸にいるようだ。しかし奇妙なのは、ここにある何もかもが大きい。足下の石はもちろんのこと、隣に生えているシダ植物は俺の体をすっぽり覆ってしまえそうだし、遠くの木々はどれも屋久杉ばりの巨木に見えた。
なぜ俺がこんなところにいるのか見当もつかない。記憶を辿ってみても、知らないうちに森にたどり着くようなことはしていない。俺は普通に、そう普通に、学校に居ただけだ。思い出せる最後は、学校から帰っているところ。ただ道を歩いているところだ。その後はよく分からない。記憶があやふやになっている。
「そんなところで何をしてるんです?」
下からなにやらケロケロと話しかけられた。どこからだと視線を巡らすと、アマガエルがこちらを見上げていた。
「別に何も。むしろ降りたんだけど」
こちらの言葉は通じるのか知らないまま、俺は返事をした。
「降りたいなら飛び降りればいいでしょう? ゴツゴツしたところが嫌なら、川にでも。泳げないわけじゃあるまいし」
このカエルは何を言っているんだと文句を言いたくなった。この石は俺の身長の4、5倍の高さがある。飛び降りると言ったってそんな簡単なことじゃない。それに俺は泳ぎは苦手な方なんだ。泳ぎ方が変だと小学生のときに笑われて以来、なるべく水には入らないようにしてきた。
とは言えこのまま黙っていて餓死するわけにもいかない。俺は覚悟を決めた。
目をぎゅっとつむって、助走をつけて跳んだ。どぼんと衝撃と共に水に沈んだ。
全身を水に包まれて少し戸惑ってしまい、俺はじたばたともがいた。しかし段々と足は水を捉えるようになり、俺の体は水面へと向かっていく。泳ぎ方が頭ではなく体で理解できた。俺はきっと見事な平泳ぎをしていることだろう。あの時笑っていた連中に見せてやりたくなった。
岸に上がると、さっきのアマガエルが待っていた。
例によって、アマガエルもかなり大きい。目線は俺の目線の半分くらいの高さだ。
しかしこのアマガエル、目がくりっとしていて、背中は鮮やかな黄緑色をしていてなかなかどうしてかわいらしい。
「ところでここはどこなんだ?」
俺はアマガエルに聞いた。
「どこと言われましても、生まれてこのかた『ここ』しか知らないもので。あなたはそうではないんです?」
「多分。というか、どこから来たんだか」
「道に迷ったということで?」
「そういうのでもない、のかなあ」
アマガエルはそうなんですかと返した。自分が状況を把握出来ていないせいで、曖昧な事しか答えられない。
この話題では身のある話にならないと、別の話を振ることにした。
「そういえば君、名前は?」
俺はアマガエルにたずねた。まさか『アマガエル』なんて呼ぶわけにもいくまい。言ってみて気がついたが、これではさっきの話と大差ない。
「いやー、名前なんて大層なものありませんよ。なにせ500匹くらい兄弟がいますから。生き残ってるのが少ないとは言え、わざわざ名前なんてつけません」
「そ、そういうものなの……?」
「どこも大体そんな感じみたいですね。ちなみに私、37女くらいで結構お姉さんなんですよ」
威張っている風のアマガエルの話を聞きながら、視界の端で何かが動くのが見えた。
土や枯れ葉と同化する色。動いてくれなければ俺も気が付かなかっただろう。コオロギがいた。
俺の視線を見てか、アマガエルもコオロギを見つけた。
「いかないんですか?」
「え、ああ……」
頭ではあれをただのコオロギだと思っているのに対して、体は美味しそうだと感じている。俺はその認識のギャップに戸惑って、返事に困ってしまっていた。
「き、君はいいの?」
苦し紛れに俺はアマガエルに話を振った。
「私なら大丈夫です。あのサイズだと私の口にはちょっと大きすぎるんですよ」
アマガエルの口とコオロギを見比べて納得した。そういうことならと、俺は自分の感覚に従ってみることにした。
俺はコオロギに飛び掛かった。踏み潰すくらいの勢いで行ったが、すんでのところで避けられてしまう。しかしコオロギはそんなに遠くには行ってはいない。舌を伸ばしたらギリギリ捕まえることが出来た。
舌を引き寄せてコオロギを口の中に入れる。外側はパリパリとしていて、中身はたんぱく質を感じられる味わいだった。
「中々豪快ですね」
アマガエルがこちらに寄ってくる。
「そうなの?」
俺は答えた。なにせコオロギをあんな風に食べるなんて初めてのことだったから、食べ方なんて見よう見まねどころじゃない。
腹が膨れたことで、少し頭が回るようになってきた。そうすると、今の状況を不安に思う気持ちが強くなった。
「どうしたものかなあ」
「何がです?」
呟いた俺に、アマガエルが返した。
「これから、というかなんというか……」
家に帰りたいとは思うものの、ここがどこだかわからないのではどっちにどれだけ行けばいいのかもわからない。
「それなら、川を下ったところに大きな池があるんです。115男くらいから聞きました。そこにはカエルも他の生き物も多くいるらしいですから、知り合いの一匹くらいいるでしょう。行ってみませんか?」
カエルや虫の知り合いがいるとは思えないけど、ここにいるよりはましな気がした。
「案内、頼んでいいの?」
「今更断れませんよ」
そう言うとアマガエルは移動を始めた。
「川を下るんじゃないの?」
アマガエルは川から離れていく。
「この先で川が大きく曲がるんで、こっちの方が近いんですよ」
そうなのかと、アマガエルに着いていく。
アマガエルはぴょんぴょんと跳ねている。
「それ、疲れないの?」
「こっちの方が速いもので」
確かに、程よく陽が照っていて、体温も上がってくる。それにつれて、気分も上がってきた。俺も跳ねながら、アマガエルを追いかけた。
それなりの時間進んできたはずだけど、景色は変わらない。
始め俺の先を行っていたアマガエルは、段々と俺と並び、そして俺の後ろを行くようになった。
「大丈夫?」
振り返るとアマガエルは苦しそうに息をしていた。
「いや……、体が乾いて、息が……」
確かに、俺も少し息苦しくなっている。
「どうしよう……、池まではあとどのくらい?」
「もう、8割方は……、来てるかと」
行くにも戻るにも、アマガエルにはきついだろう。
「ここからなら、もう池まで行ってしまった方が早いよね」
「ええ、でも……」
アマガエルは苦しそうに言った。
「乗って、背中」
「でも……」
「いいから」
なかば強引にアマガエルをおんぶした。
「しっかり掴まってて」
俺は足にあるだけの力を込めた。落とさないように背中に気を遣いながら、出せる限りの全速力で跳ねる。
アマガエルの息が荒くなってくる。まだ着かないのかと焦りを感じていた頃、森の出口が見えてきた。
ようやく広い場所に出た。その真ん中、大きな水溜まり、ではなく、目指していた池だ。
「動ける?」
「はい、なんとか……」
池のほとりでアマガエルを下ろした。
アマガエルが水に入ると、徐々に動きに力が戻ってくる。
「はあー……、生き返りますなあ」
アマガエルは元気そうに泳いでいる。
「あなたもどうです?」
アマガエルがこちらに呼び掛ける。
「ああ、じゃあ……」
俺もアマガエルを追って水に入る。渇いた肌に水が染み込んでいくようだった。
しばらく泳いで、水から上がって陽にあたり、また泳いでと何度か繰り返した。
「しかし、誰もいませんねえ」
アマガエルが言って、ここまで来た目的を思い出した。他の生き物に知っているものがいないか、そうでなくても何かしらの情報が得られないかと思っていたのだった。
「確かにね。ちょっと探してみるかなあ」
「ですねえ。じゃあ私は池の中を見てくるので、あっちの草むらのあたりを探ってみてくれますか」
アマガエルの提案で手分けして周囲を探索していった。草をゆするとコバエのような羽虫が数匹飛んでいった。あそこまでいくと言葉は通じなさそうだ。
「どうですか?」
しばらく経つと、アマガエルがこちらに呼び掛けてきた。
「誰もいなさそう」
そう答えて草むらを出て池の岸に向かう。
アマガエルも岸へ泳いでいたが、その動きが急に止まった。アマガエルは俺の後ろの、空をじっと見ているようだった。
「どうかした?」
「逃げて!」
アマガエルが叫ぶと同時に羽音が聞こえた。その時にはもう遅かった。
巨大な怪獣かと思ったが、よく見たらそれはトンビだった。俺は鉤爪に引っ掛けられて、上空へと運ばれて行く。遠ざかる水面を見つめて、ようやく俺がなんだったのか気が付くことができた。水鏡に映っていたのは、鈍くさいヒキガエルの姿だった。