六十九話
将がみおちゃんたちと仲直りをして一週間ほど経った。 記憶の方はいっこうに戻らない。 焦ってどうこうなる問題ではないが、少しだけ不安が頭をよぎってしまう。
このまま記憶は戻らないのではないだろうか。
そんな不安がよぎってしまう。 記憶があるかどうかで将に対する態度は変わることはないが、モヤモヤした気持ちになる。 どうせなら元に戻ってほしい。
いったいどうしたら……。
仕事中もそのことばかり考えて手がつかない。 さっきも藤井に注意されたばかりだというのに、集中できない。 ソワソワする。 なにもできないことに落ち着かない。
「……先輩、画面」
藤井に言われてパソコンの画面を見ると、ローマ字入力でさえうまくできてなかった。 ところどころにアルファベットが点在して、読めたものではない。 報告書が台無しだ。
「ちょっと茶、貰ってくる」
気持ちを切り替えるために給湯室行く。
これで切り替わるんだったら苦労なんてしないんだがな……。
今日も一日、仕事なんてできたもんじゃなかった。 進みが悪いせいで、家でもやらないといけない。 自分が悪いことは分かっているが、気が滅入る。
徹夜だけはしないようにしないとな……。
深い息を吐きだして、車を出した。
幼稚園でクラスの扉を開けると、将がぼぉっと天井を見て座っていた。 そのそばで結城さんが思いつめたような顔をしている。
「あぁ、中村さん。 将くん帰る用意しよっか」
良いとは言えない空気で結城さんが入って来た俺に気付き、将に呼びかけた。 こくんと頷いた将がかばんを取りに行ってる隙に、結城さんはこっちにかけてきた。
少しだけ背伸びして耳打ちで、話しかけてくる。
「私も詳しいことは判らないのですが、ちょっと中村さんの奥さんのことで……」
「妻……ですか?」
それから何があったのか結城さんが分かる範囲で教えてくれた。
「……そうですか。 わかりました」
「すみません……。 あの子も反省してると思ったのですが……。 本当に申し訳ありません」
頭を下げて謝った結城さんに何も言えなかった。 「頭を上げてください」の一言も言えなかった。 結城さんはこれまで将のことをよく見てくれた。 よその幼稚園だったら入園が断られるほどのことをしてもらっている。
それなのに、結城さんに対して慰めの言葉が出なかった。 結城さんのせいではないにしても、何も言えないままじっと拳を固めて立っていた。 奥歯を噛みしめて必死に怒りを鎮める。
落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け……。
呪詛のように唱える。
「……将はなにか言ってましたか……?」
頭を上げて「ぼくはだいじょうぶ、と言ってました……」と答えた。
「そう……ですか」
将が我慢してるんだ、俺も我慢しないと。 俺が怒鳴るわけにはいかない。
太ももを思いっきり詰めって、怒りを痛みに変えて無理やり鎮める。 深い息を吐いて残りの怒りも外に吐き出す。
「ありがとうございます。 なんとかしてみます」
「なにもできなくて、すみません……」
「これは親の仕事です。 任せてください」
「……はい」
結城さんの目はすこしだけ濡れていた。 責任感が強い女性なんだろう。 親から大事な子供を預かる以上、保育士は責任感を持って仕事をしないといけない。 でも結城さんはそれ以上に責任を感じてしまっているだろう。
この時間まで将を見ていないといけないぶん、その責任も重いのだろう。
なにか、言った方がいいのだろうか……。 そんな気の利いたことなんて言える自信なんてない。
なんて声をかけたらいのか迷っていると結城さんが突然、目を激しくこすり出した。 こすりすぎて赤くなった顔で俺を見て言った。
「お任せします!」
「任されました」




